「先髪の毛乾かさんと風邪ひくで」



お母さんみたいなことを言う。彼はわたしの兄のようだ。
スマートフォンから目を離さず適当に返事をすると彼がこちらを向いた。


「……おい」
「うん」
「はよ乾かさんかい」


眉間にシワを寄せてすばくんが威圧する。そんな顔されても怖くないけど。


「なんで」
「乾かさんとできへんやろが」
「……なにを」
「なにって、決まってるやん。」
「…しません」


わざとらしく口角をあげるすばくんへぴしゃりと言い返す。お決まりのやりとりに意味なんてない。

黙ってしまった彼にちらりと目をやるも何か考え事をしているようだったからあまり気にしないことにした。

いつからだろう、こんな風にすばくんがうちに泊りにくるようになったのは。
はじめは私がしつこく飲みに誘っていて、愚痴だったり世間話だったり、それでもお互い深い時間になると帰路についていた。

入社して数年ぶりに再会したすばくんは想像よりずっとかっこよくなっていて。そして少し…少しだけ怖くなっていた。だから敢えて頻繁に飲みに誘った。それは彼の人見知り故だと思っていたからだ。案の定 とでも言うのだろうか、彼は徐々に心を許すようになり、比例するように私は彼のことが好きになっていた。

すばくんが浅いため息をつく。今日は少し機嫌が悪い。
彼がうちに来るのはだいたい 機嫌のいい時 か 誰かと一緒にいたい時 だ。これは私のただ予想だが、おそらく見当違いではないはずだ。



「琴美」



呼ばれた方へ振り向くとすばくんがドライヤーを持って立っていた。眉間にシワがよってないのを確認してから私は笑う。


「なに?すばくんが乾かしてくれるの?」


高めの声を出すと彼は何も言わずに無理やり私とソファーの間に滑り込んだ。
“誰かと一緒にいたい時”、彼はお酒をたくさん飲む。


「なんか優しいね」


そして少しだけ私に優しく触れる。
でも身体を求めてくることはない。
いや違う、身体を求めることは私が許さない。

もう一度座り直した彼がドライヤーのスイッチを入れる。機械音が響いて後頭部が暖かくなった。
慣れたように扱うすばくんの手が心地よい。触れていないはずの背中にまで体温を感じて、私は携帯を手放し目を閉じた。

すばくんが“誰かと一緒にいたい”時の“誰か”は、もしかしたら本当に誰でもいいのかもしれない。
もしかしたら、誰かとセックスしたいだけなのかもしれない。

いつだったかアルコールの勢いですばくんにキスをされたことがある。一瞬夢みたいに幸せで、でもすぐに何倍もの嫌悪が襲ってきた。
私はすばくんに本気なのに。彼にとってはたわいもない、今までのその辺の女たちの1人でしかないんじゃないかと、もしかしてそんなカウントさえされてないんじゃないかと思ってしまったからだ。

だからしない。キスも、それ以上も許さない。すばくんだけは許さない。本当にそうだった時 私はきっと耐えられないから。
好きだと思い込んですぐに別れる男とできるのだから 私もやってることは彼と同じかも知れない。だけどいざ自分がその対象になるのは許せないという大変にわがままな女なのだ。

それでも彼は私の部屋に泊まる。身体を許さなくても私を選んでくれる日が確かにある。
そんな彼に期待してしまっているのだ。傍ら他の男で気を紛らわせながら。
切ないながらも彼がうちに来るのは悪い気分ではなかった。彼が私を邪険に扱ってないことがわかるから。


温風に乗ってふわりといい匂いがする。
最近響子に勧められて変えたシャンプーの香りだ。


「すばくん気付いた?」


響子に教えてもらったシリーズの色違いなんだよ。いい匂いでしょう。
言いながら振り返ると「じっとしとけ」と前を向かされた。
やっぱりいい匂いだ。なんだか落ち着く。響子の使ってるものとは少し違う香りだけど、私は自分から香るならこっちの方が好きだな。



「…俺この匂い、嫌いやわ」



機械音に掻き消されてしまいそうな、低い声。
予想外の否定に「えー」と笑うとドライヤーの音が止んだ。やけに部屋が静かになる。絶対すばくんもこの匂い好きだと思ったのに。
「髪の毛ありがと」と言いながら振り返ろうとすると不意に背後から伸びてきた腕に固まった。そのまま私の前で交差した腕に閉じ込められる。
すばくんの鼻がうなじ辺りに埋まってゆっくりと息を吸った。この匂い、今嫌いって言ったばっかじゃない。


「すばくん動けないよー」


軽く腕を叩いて笑う。すばくんは動かない。少し私を抱き直してうなじから首元へ顔が移動した。私は黙ってされるがまま自分の脚を見つめている。
すばくんがこうして私に抱きつくことは少なくない。おふざけの延長みたいな時もあればこうやって甘えるような時もあって。
気の済むまでこうしてくれればいい。これが肉体関係なく彼と私を繋ぐ理由のひとつになるのなら。身体の交わりがなくたって彼の側にいられる、ごく少数の女でいられるのなら。


「…痩せた?」
「痩せてない」
「嘘や、なんか…足りひん」
「薄着になったからじゃない?」
「…そうなんかな」


くびれを撫でるように確かめる。こうしてると恋人同士になったみたいで、なんだか擬似幸せ体験だな といつも考える。


「やっぱ痩せたやろ」
「そんなことないって」


痩せた痩せたと言われるのは、若い頃より嬉しくなくなった。



「…なんか、」



なんか、俺でも壊せそうやな。

少し笑いながらそう聞こえた。「なにそれ」わたしも笑い返すと抱く力が強くなった。



「お前、」



俺のこと まだ好きなん。

抑揚のない声が幾分小さく聞こえた。

予想もしない言葉に固まって、言葉を理解しないうちに心臓が先に焦り始める。

なんだなんだ、急に。
なんでそんなこと聞くの?とは口に出せなくて、どうしようもなく好きなことを悟られたくなくて、できるだけ平静を装って「好きだよ」と一度だけ返した。
どれだけ装っても、抱きしめられてるから心臓のうるささはバレてしまうのに。



「ほんなら、一回してみよか」



努力して軽く返した言葉は 跳ね返すように軽く返された。



「……何言ってんの、急に」



「わたしそういうの嫌いだって、すばくん知ってるでしょう」
今日飲み行くか?みたいなトーンで、この男は何を言ってるんだろう。そういうの、すばくんとするの 私は本当に嫌なんだってば。



「好き同士やったらええんやろ」



そういう問題じゃない。いやそういう問題なんだけど。
私の身体を自分の方へ向け、合わせる彼の瞳の奥に色が揺れるのを見た。
すばくん、待って、それ、聞きたくない。



「わからんやん、めっちゃ相性ええかもしれへんし」



そしたら好きになるかも。
笑う彼の顔は、いつもふざけてる時の顔となんら変わりなく、



「最低」



その二文字がよく似合う。そんな言い方だけは許せない。


「その最低が好きなんはお前やろ。」


笑うような、怒るような。彼は言いながら倒すように私をソファーへ押し付けた。


「や、すばくん、」


慌ててその胸を押してももう遅くて、慌てて名前を呼んでも彼は返事をしない。


「ほ んとにするの、」


動揺に声が震えて、色気を孕んだ顔つきに変わる彼に血の気が引いた。急激に視界が霞んで喉の奥が詰まる。



「やだ、ほんと、すばる」



せめて他に何か言ってよ。
『そしたら好きになるかも』なんて、冗談でも言わないでほしかった。
悔しさか悲しさかわからない感情に何かがこみ上げる。
そんな言葉で、私を抱かないで。私の気持ちはそんなに軽くない。
ここまで来て、あなたのいいようにされる私の気持ちも、考えて。



「はなして」



私のそれが軽い気持ちじゃないって、知っててするなら本当にあなたは最低だ。


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ミガッテ