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「ただいまぁ――――………。」

マンションに入り、エレベーターに乗る。自分の部屋の前で立ち止まり、ロックを解除し、誰もいない家に入る。そして、誰もいないと分かっていながらも、返事は帰ってこないと分かっていながらも、ただいまと低い声で呟く。

自分の部屋に入り、ソファーにバックを乱暴に投げつけてベッドにダイブする。
右手には浅野君からもらった封筒。左手にはケータイ。
誰かに連絡、と思ってLINEを開くが、すぐに手が止まる。

――誰に言えっていうの?

このことを、誰に相談しろっていうの?誰に報告しろっていうの?私の問題じゃないか。他の誰のものでもない、私の。人に言ったってどうにもならない。

そう思うと、酷く使えない便利な機械。これもバック同様に乱暴にソファーに投げつける。
そしてまたベッドに入った所で、目を閉じた。

浅野君は、全てを見通している。
私が、E組ではなくA組に行くべきだということ。E組にいることができないということ。それでもE組にいたいということ。そして、簡単に成績を下げれないということ。
彼は、全てを見通している。

ぱちりと目を開け、真っ白な天井を見つめる。今日の朝はあんなにもきれいな白だったのに。今ではくすんだ灰色にみえてしまう。同じものでも、心の角度によって見え方が変わってくるものだ。

私が、天才と言われる理由。私が、完璧と言われる理由。私が、万能と言われる理由。
生まれた時からなんでもできたわけじゃない。生まれた時から完璧だったわけじゃない。
あれもこれも、全て、親の……母のおかげだ。

まだ2歳のとき、母は私にピアノと英語を習わせ、4歳になると空手を習わせた。
習い事が嫌だったという記憶はない。どれもとても楽しかった。それは、今でも変わらない。
私の持論ではあるが、人間経験すれば大抵の事は出来るようになる。それが幼いころの経験ならばなおさらだ。
ピアノ、英語、空手。週に3つの習い事をこなし、尚且つ家では母に数学を教わった。一緒に料理もした。絵も描いた。楽器も弾いた。本当にたくさんの経験をしてきた。

それが、今の完璧と言われる私を育てた。幼いころからやれば、誰だってこのレベルまで達することが出来る。訓練すれば、人間誰だって出来るようになるのだ。

小学校6年生になり、母が私に尋ねた。あなたは、これから何をしたい、と。
だから私は勉強と答えた。私が、1番伸ばしたかった勉強を。すると母は、ならばその道に進みましょう、と椚ヶ丘中学校を受験させた。
受験勉強の途中で何度も、ピアノがやりたければ音楽の学校に行けばいい、美術がやりたければ芸術の学校に行けばいい、と私に言った。それでも私は私の意志で、勉強を選んだ。
E組に落ちた時には、とても悲しそうな顔をされた。がっかりされた。でも、それをあなたがいいのなら、と、諦めたようだった。

こんなにまで、私に出来る事を増やしてくれた母には心から感謝している。
私の好きな道に進ませてくれた母には、伝えきれないありがとうがある。
だからこそ、悲しい思いはさせたくない。1人に、させたくない。

部屋にあるアルバムをめくる、と、私の母と、私の2人だけがうつっている写真がたくさんある。いや、それしかない。父は、1枚も、うつっていない。

私の父は、海外でデザイナーの仕事をしている。1番最後に会ったのは中学の入学式だ。毎年、お正月、クリスマス、誕生日にはメッセージカードが送られてくる。たくさんのプレゼントも届く。どれも嬉しいものばかりだし、父が私を愛してくれているのは知っている。母と仲が良いのも知っている。
でも、2人が並んでいるとこをは見たことがない。

人は、1番初めに、母から愛を学ぶ。そして次に、父と母の、夫婦関係から愛、恋愛、恋を学ぶ。私は、母からも、父からも、愛されている。そのことは、十分学べたと思っている。けれど、私は恋愛というものは学ぶことが出来なかった。
1度も、夫婦2人が並んで笑っている所を見たことがない。会話しているところを見たことがない。連絡はとっているんだろうけれど、私が目にしたことは無い。記者であり、忙しなく仕事をする母と海外にいる父とでは、忙しくて時間が取れないというのもあるんだろう。
でも、夫婦関係、恋、恋愛、それらを学べなかった私には、どこかとても大きな穴があいてしまった気がする。

以前、莉桜に恋愛感情が分からない、と相談したことがあった。母と父のことを言うと、それが大きいかもねと悲しそうに言われた。
今までは、それで寂しいと感じたことはなかった。が、もう思春期。恋する年ごろ。皆が楽しそうに笑い合う中で、私だけ参加できないのは悲しすぎる。
先日の愛奈との一件も、思春期を満喫出来る彼女が羨ましい、というのがあったのかもしれない。

幼いころから教育されて、愛されて、育ってきた完璧な人間。けれど、それには足りないものが多すぎる。これを、代償というのだろうか。

――A組への切符だ

私は、足りないものがありながらも、私の道を選ばせてもらった。だから、私が今出来るせめてもの親孝行は、選んだ道を全うに貫き通すことだと思っている。
勉強を選んだからには、最後まで、勉強を貫き通す。これが、私に出来る親孝行。私が自分で選んだ、責任。そして、母を裏切らないという、覚悟。

初めから、私の答えが決まっているんだ。

「美藍――………?」

母の声で我に帰る。どうやら、考え込んでいるうちに時間が過ぎていたらしい。
もう母が帰宅している。

「ねぇ、お母さん。」

それでも、伝えておきたいことがある。E組の皆には、伝えておきたい。
私が、E組を出るつもりはないと言ったのは、本心だということを。E組が好きなのは、本心だということを。

深く深く深呼吸をしてリビングに行き、口を開く。

「話があるんだけど、いい?」

ぼくは臆病な猫のままでいい
例えそれが、自分の望んだ場所でなかったとしても
母からの信用を守れればそれでいい



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