香穂がこの世界に来たからと言って、時が止まるわけではない。彼女がいなくなったあの世界も、彼女があらわれたこの世界も、何の変化も、何の問題も無く、平等にそして確実に時間は流れていた。
ほとんど様子を見るために、部屋を出ていた。どこまでなら踏み込んで良いものなのかと、辺りをうろついてみたが、誰にも咎められなかった。見えていないのかとも思うほどだ。資料室で何冊本を読み漁ろうと、誰も何も言わない。情報に価値がない、というよりは香穂が然程警戒されていない、と言った方が正しいように思えた。
自分が自由に動けることを知り、情報を仕入れるためにひらすらに本を読んだ。少しでも多くの知識をと、ほとんど資料室にこもっていた。顔見知りと言えば、仕事のためか入ってくる阿伏兎1人だが、何も言わない。「へぇ」とつぶやくと出て行ってしまった。彼のなりのOKサインだと勝手に解釈する。
遠慮なしに資料を漁り、情報を得、気がつけば1ヶ月が経とうとしていた。とっくに麻痺した恐怖心は、彼女をこの場に慣れさせていった。案外、どこでも人間は生きて行けるものだ。
初めのうち、とる着になれずほとんど食べていなかったため、香穂はかなりやつれて痩せて見えた。奴隷だから痩せていた方が。そう思っていたが、神威に「食べてる?」と聞かれたため、嫌でも口に入れることにした。神威の言葉はこれ以上痩せたら見栄えが悪い、という意味と受け取った。あながち間違っていなかったようで、無理にでも食事をとれば阿伏兎によしよしと頭を撫でられた。
知っている団員とは、神威と阿伏兎の2人だけで、他の団員とは溶け込める気がしなかった。話しかけるなんてもってのほかで、食堂などはわざと時間をずらす。
朝は必ず、早朝に起きるようにしていた。早い時間帯、食堂には徹夜明けの阿伏兎しかいない。昼もその要領で、早い時間帯に食堂へ行く。香穂の生活は自然に朝方になっていった。
その日も、11時前に食堂へ向かった。他の団員の姿は見られない。ラッキー、そう思ったところに、運悪く低血圧の神威がやってきた。彼の朝は遅い。今起きたのだろう。
「団長さん、おはようございます」手を止めて言う。彼は眠たそうに目をこすりながら、「ん」と小さく返事した。おそらく、彼の脳まで香穂の挨拶は届いていない。
食事を続けていれば、ふらふらな阿伏兎が神威を探しに食堂へきた。
「おせぇよ団長!仕事しろ!!」騒ぐ阿伏兎の声も、おそらく彼の脳には届いていない。まだまだ覚醒していなかった。
そんな様子が哀れに思えてきて、香穂の近くに腰かけた彼に一言、「阿伏兎さん、お疲れ様です」と言う。「あぁ………」返事ともため息ともとれる声が返ってきた。
日本のサラリーマンでもこんなに疲れているだろうか、そうぼんやり思ったときだった。
「香穂」
3人しかいない食堂に、いつもより少し低い彼の声が響いた。
その声は怒りを含んでいるわけではない。が、香穂を恐怖させるには十分すぎる。自分は何をやらかした、と考える香穂に、神威は笑って言った。
「俺、名前教えたよね」
小首をかしげてそう言う。が、疑問詞はついていない。明らかに、ついていない。
名前など知っても意味がないと思ったあの時の自分を殺したかった。自ら名を名乗ったのだ。そう呼べという合図ではないか。
すぐさま姿勢を正して彼を見る。
「すいません、神威さん」
訂正すれば、彼はもう1度にっこりと笑った。完全に目が覚めたらしい。隣では阿伏兎が、意外そうに、そして哀れみのこもった目で香穂を見ていた。
もう2度と、彼には逆らわない。そう決めた瞬間だった。
後書き
ALICE+