運転手が目を見開き、恐怖に顔を歪めるのを見た彼女もまた、二重の大きな目を見開き、ただただ驚いていた。

死ぬ。そう思った刹那、感じたことのない恐怖が体を包む。が、来ると思った衝撃は一向に感じられず、彼女は恐る恐る目を開けた。

そこに広がっていたのは、自分のバラバラになった体でもトラックでもうろたえる運転手でも血の海でもなかった。そう、血の海ではなかったのだ。

なぜ?自分の体の欠片はともかくトラックすら見当たらない。無機質な、映画などに出てきそうな白い壁が見えた。よくよく見れば機械にも見えなくはない。自分の自転車は横に頃ばっている。ハンドルが曲がっているところから、確かにトラックにはぶつかったのだろう。だが五体満足。頭にはしっかりとヘルメットを被っていた。

「ヘルメットって………役に、たつの、ね」

ぽつり。こぼれた声は、確かに自分のもの。生きていたのだ。自分は、トラックと衝突しながらも確かに今、ここに生きている。

感動し、顔を上げる。これは奇跡だ。大型トラックと正面衝突した少女が無傷だったなんて話、聞いた事あるだろうか。ない。ないはずだ。ありえないのだから。つまりこれは奇跡で、日頃の行いが良いおかげだと、顔色を良くした。が、その瞬間、とても後悔することとなる。
目の前にいたのは、警察でも医者でもない。人の体形でいて、顔が人でない。人間のようにまっすぐに立つ、犬だった。

「ひっ!」と声を出しそうになるのを必死にこらえ、あたりを素早く見渡す。例の犬が1匹。人間のように指があり、手には拳銃。向けられているのは、長い黒髪の女だ。長い髪の合間からのぞく瞳は、不気味に光っている。正気の目ではなかった。そんな女の後ろに立つ男。白い肌に朱色の髪。高校生くらいの男の子だった。にこにことこの場には不釣り合いな笑みを浮かべている。その様子を黙って、少し後ろから見ている男が1人いた。

何度見渡しても、理解出来る状況ではなかった。女に銃を向ける怪物。その後ろで面白そうに見ている男子高校生。少し距離をとって見物する30代ほどの男。
到底理解出来る状況ではなかった。
だが、男子高校生も30代ほどの男も黒髪ではない。染めている、というよりは自毛のように見える。外国人か。失礼だが危ない匂いがする。いや、拳銃が見えている時点で十分に危ないのだが。とにかくここは危険だ。彼女の脳がそう叫ぶ。一刻も早く逃げなければ。あの銃口が、自分に向けられる前に。

「君、どこから来たの?」

その場の沈黙を破ったのは、驚くべきことに男子高校生だった。彼は相変わらずにこにこと笑顔のまま問う。外国人だと思っていたが、綺麗な日本語だった。

「名前は?」

途端に彼女の頭が廻り出す。ここは実名で答えるべきか。相手は自分のことをどこまで知っているのか。ここはどう動くのが最良か。
考えた末、無駄の抵抗はしないのが最良と思えた。ヘルメットは外さずに、男子高校生を見据える。

「篠田………香穂」

素直に答えた香穂に、男子高校生は「へぇー」とこぼす。彼がどう動くか、怯えながらも考える香穂だが、彼の考えていることが分からない。笑顔のポーカーフェイスの裏に隠れた真意は、そう簡単に見抜けそうになかった。と、そこで香穂の登場により止まっていた時が動き出す。

「ぁぁぁあああ!!」

銃を向けられている女が奇声を上げた。精神異常者だったのか。静かに様子をうかがっていると、叫び続ける女に、例の犬が引き金を引いた。

パァァン!

銃声。生まれて初めて聞いた銃声。向けられた女は肩から血を流している。今度こそ、香穂は声をこらえることができなかった。
「ひっ!」小さく出た悲鳴に、男子高校生はあろうことかくすくすと笑った。

「弱いね」

瞬間、目の前から消える彼。気がつけば目の前に、瞳を鋭くして迫っていた。あまりの恐怖に震え、腰が抜けて後ろへと倒れ込む。香穂がいた場所を彼の足が通る。ビュッと音を立てて空気を裂いた。
蹴られるところだった。顔を吹き飛ばされるところだった。
後ろに倒れ込んだまま、彼を見上げる。意外そうな顔をしていた。

「ねぇ、今避けたの?」

何も答えない香穂を他所に、彼は1人話を進める。

「そんな訳ないよね。君弱いし。避けられるわけない。ただ腰を抜かしただけだよね」

「ね?」と同意を求められるが、先程の鋭い目にやられた香穂は応える気力を持ち合わせてはいない。すると、彼はさらに口角を上げて言った。

「偶然かな?それにしてはラッキーだね。君を生かすことに意味があるのかな」

とても面白そうに話すが、香穂は全く着いていけなかった。腰を抜かし、たまたま当たらなかった蹴りが、そんなに物珍しいことだろうか。

「阿伏兎、この子にしようよ」
「おいおい困るぜ団長。どう見ても侵入者だろうが」

彼は後ろを振り返り、遠くで見物していた30代ほどの男、阿伏兎に話しかけた。そして片腕を打たれた女へと、ゆっくり近付いていく。

「お前はもう必要ないよ」

そう言うと頭を掴み、握りつぶした。いともたやすく、なんてことのないように、握りつぶしたのだ。
ぐしゃり。嫌な音を立てるそれ。あちこちに飛び散る残骸と血。目が痛くなるほどの赤。頭がついていかないだとか、現実味がないだとか。そんな生易しいレベルではない。普通の中学生である香穂が見るには、刺激が強すぎた。
死んだ。今さっきまで、ここで、目の前で、声を上げていた女が、死んだ。殺された。

「おーおー、商品が」

阿伏兎が呆れた様子でそう言ったのを、微かに捉えたがそれどころではなかった。胃からこみ上げるものを無理矢理押し戻し、息を落ち着かせようと努める。気持ち悪い気持ち悪いと、本能的に吐きそうになり、心臓がどくどくと、嫌な音を大きく立てる。動悸がおさまらない。次は、自分だ。トラック事故よりも不運な状況だということがやっと理解できた。目を開けてすぐに飛び込んでくるのはトラックの方がまだ良かった。
二コリと返り血を浴びながらも微笑む彼に、寒気がする。恐怖で気絶できればどんなに楽だろうか。本当に死を目の前にしたとき、人はあまりの恐怖に気すら失えない。近付いてくる彼を、震えながら見るしかなかった。

じぃ、っと団長は香穂を見て声を上げる。

「ちょっと茶色がかってるけど黒髪だし、歳もそこまで変わんないよね」

「よし!」団長は満足げに笑い、香穂へと向き直る。

「今日からあの死んだ女の代わりだよ。頑張ってね」

気を失ってはいけない。しっかりと意識を持て。今日から、つまり、まだ私には明日がある。今はまだ、生きながらえる。瞬時に理解できた香穂は、なんとか、震えながらなんとか、こくりを頷いた。

後書き

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