ボーイ・ミーツ・ガール


母に会いに、今日も病院へ行く。
体育祭や職場体験。それらを経て俺は変わった。いや、変わろうとしているところだ。何が正しくて何を信じるべきなのか、それはまだ分からない。ただ一つ言えることがある。雄英というヒーローの学び舎での出会いは俺にとって転機だった。この出会いを信じていい。それだけは、間違いない。

「焦凍?ぼんやりして、どうかした?」
「ああ、すまない。折角見舞いに来てるのに考え事しちまって」

母は優しく笑う。窓から射し込んだ夏の昼下がりの暖かい陽がそんな母の輪郭を浮かび上がらせていた。

「いいのよ。体育祭が終わったあとは休む間もなく職場体験だったんでしょう?冬美から聞いたわ。大変だったんですってね」
「ヒーロー目指してるからにはこれくらいで音を上げてられねえよ」
「ふふ、ストイックなのね。ああ、そうだ。焦凍知ってる?この病院には屋上庭園があるのよ」
「屋上庭園?」

母の言葉を繰り返すと母は「ええ」と微笑んだ。その名の通り屋上で植物を育てているのだろうか。この病院は最新鋭の医療設備はもちろん病棟に入院する患者に配慮した生活設備が整えられている。母のように精神面がきっかけで入院している患者も多くいるためその一環として屋上庭園なんてものを用意していてもおかしくない。

「とても綺麗でね。焦凍も疲れているようだから行ってみるといいわ。きっと心が癒されるはずだから」

花を見て癒されるような柄じゃないんだけどな。そう思いながらも母の病室を後にした俺の足は屋上へ向かっていた。母が綺麗だと思うものを見てみたい。母が見ている世界を俺も見てみたい。そう思ったからだ。エレベーターで最上階へ上がる。このあたりに来たのは初めてだ。辺りの様子は見たところ先ほどまでと変わらない病室。屋上はまた別の所にあるのだろうか?とりあえず散策だ。そう思ってとりあえずエレベーターを降りたところから続く廊下を歩いてみる。そしてある病室の前で足を止めた。
扉が半分開いている病室があったのだ。病室はプライベートな空間であるため扉は閉ざされている部屋がほとんどで、ずらりと閉ざされた扉が並ぶ廊下の中でその病室は異質だったのだ。処置を施している最中ならば扉が開いていることもある。しかしその病室に医師や看護師がいる気配はなく病院ならではの静けさがあるだけだ。何となく気になって病室のネームプレートに目を移せば「苗字」と書かれている。それを目にした瞬間、胸の内で何かがざわりと音を立てた。なんだ、今の。心なしか脈打つ速度が上がった気がする。一人で首を傾げた後、よく分からない衝動に掻き立てられるがまま病室の中に目を移した。

「(……誰もいねえ)」

どうやら個室らしいその病室にはベッドが一つとそばに医療器具があるだけで人の姿はない。開け放たれた窓からはそよ風が吹き込み静かにカーテンを揺らしていた。
なんだ、誰もいないのか、と何故かがっかりしている自分に気付いてまた首を傾げた。俺は何をしているんだ。他人の部屋を覗き込むなんて。
気を取り直してその場を離れた。屋上を探して廊下を歩いていく。突き当たりを曲がったところで廊下の先に空が見えた。お、と声を上げる。おそらくあれが屋上だ。廊下から地続きになっている緩やかなスロープの奥にその空は見えた。扉が透明なガラスになっているためその向こう側の空が見えたのだ。近づいてみれば扉は自動で横にスライドする。更に一歩踏み込めば一気に視界がひらけた。そよぐ風が心地よい。

「確かに悪くはねえかもな」

そう独り言ちて辺りを歩いてみる。横長な屋上は母が言っていた通り庭のようになっている。こうして空から近いところに花や植物が生い茂っているのはなんだか不思議な感じだが空の青と植物の緑、それから花の赤や黄、橙。これらの色が織り成すコントラストは見ていて飽きない。母もこれを見ているのか。そう思うと心が一層穏やかになるようだ。俺の他にいる人もベンチに座って談笑を楽しむ老人や花のそばで昼寝をする子供など、病院服を着ている人がほとんどだが皆思い思いにこの空間を満喫しているようだった。ふと庭園の方ではなく柵の向こう側へ目をやる。当たり前だが屋上だから地面が遠い。
そういえば、と思考を巡らせた。中学ん時もこんなふうに学校の屋上へ度々足を運んでいた時期があった気がする。そうだ、確かにあった。一年前だ。あのときもちょうど今のように蝉が鳴き始めたばかりの季節だった。夏の間だけそれを習慣にしていた。そんな事実を思い出したが引っかかることがある。何故そんなことを続けていたのか、それを思い出せない。しばらく考えてみたがそれらしい答えには行き着かなかった。まあ大した意味はないのかもな。受験生だったあの時期は今より幾分かやさぐれでいたし、こんなふうに風にあたって気分転換したかったのかもしれない。確か学校の屋上へ足を運んでいた頃の俺はまさしく今のように柵の向こうの景色を眺めて、それから、

「(空を……見ていたな)」

そうだ。空を見上げていた。そう思ってあの時の再現のように天を仰ぎ見れば目に飛びでくるのは夏の青。そして顔を上げた拍子にすぐそばにある給水タンクが目に付いた。否、人影が目に入ったのだ。屋上に設置されている給水タンク、そしてそれが置かれている屋上の床より高い位置に設けられた足場。そこに少女が立っている。あんな所で何してんだ?そう不思議に思って彼女を見つめる。何故かその横顔から目が離せない。彼女を見上げたままその場に立ち尽くす。
目の前を風が横切った。少女の髪が揺れる。
年齢はおそらく俺と同じくらい。派手な髪色で耳には複数のピアス。とても患者には見えない身なりだが身に纏っているものは確かにこの病院の病院服だ。彼女は何をするわけでもなくただ景色を眺めているようだった。遠くを見つめるその横顔は凛としていてしかしどこか品がある。
その時だった。視線を感じたのだろうか、ふと少女がこちらへ顔を向けた。視線がぶつかる。俺は息を呑んだ。長い前髪から覗く彼女の瞳はまるで宝石をそこへはめ込んだかのようだった。思わずその輝きに魅入ってしまい動けない。胸の内でまた何かがざわざわと音を立て始めた。彼女もまたじっと俺を見つめて動かない。どれくらいそうしていただろうか。時間にして数秒かもしれない。でも俺にはそれがとても長く感じられた。

「名前ちゃん!」

突然誰かを呼ぶ怒鳴り声が背後で響いた。その声で現実に引き戻された俺は少女から目を外しそちらを振り返る。そこには屋上の出入り口で腕を組み仁王立ちしている若い看護師がいた。

「名前ちゃん、ここにいるのは分かっているのよ!観念して出てきなさい!」

看護師は更にそう続けると辺りを見回す。しかし看護師のもとへ進みでる人影はない。

「また名前ちゃんいなくなったのかい?」
「そうなんですよ!この辺りで見かけませんでした?」
「さあ、私は見てないねえ」
「私も今日は見かけてないですよ」

出入り口のそばのベンチで談笑していた老人たちが看護師に声をかけるも手がかりはなかったらしい。看護師は大きな溜め息をついた。なんだか大変そうだな。そう思いながら何気なくもう一度給水タンクを見上げた。

「……?」

そこに少女の姿はなかった。いつの間にいなくなったんだ?そう思って首を傾げると給水タンクの陰から先ほどの少女がそろりと顔を出した。まるで何かから身を隠しこちらの様子を伺っているかのような仕草だ。目が合った途端彼女は人差し指を立てそしてそれを自分の口元へ持っていく。必死にしーっと訴えかけてくる様子を見てなるほどなと思い当たった。おそらく彼女が看護師の探している人物なのだろう。

「もう!この病棟の患者さん達みんなして名前ちゃんの味方するんですから!ここにいるはずなのよ!」
「え〜本当だよ」
「いいえ信じられません!誰か患者さんじゃない人に聞くわ!」

屋上にいる一人一人に聞き込みをしていた看護師は痺れを切らしたようにそう言うと再度ぐるりと周りを見回した。そして俺に気付くとずかずかこっちに向かって歩いてくる。

「あなた轟さんの息子さんですよね?」
「ああ」
「お尋ねしたいのだけど、ここら辺で女の子を見なかかったかしら?そうね、歳はあなたと同じくらいですごく派手な髪色をしているの。病院では極力外しなさいって言ってるのにピアスもすごくて……前髪も切りなさいと言っているのに伸ばしっぱなしで目にかかってて……そんな感じでちょっとやんちゃしてそうな見た目だから一度見たら分かるはずなんだけど」

話を聞く限りめちゃくちゃ心当たりがあるんだがやはり彼女がそうらしい。この場合、彼女を庇った方がいいんだろうか?しかし看護師が探しているということは診察や治療措置の時間なのかもしれないし、本当に彼女のためを思うなら看護師に引き渡した方がいいんじゃないか?

「見てねえ」

迷ったがすぐにそう答えた。看護師から逃げていることには彼女なりの事情や理由があるのかもしれないし、それを知らないまま看護師へ引き渡すのも酷な気がしたのだ。

「あらそう?無関係な轟さんが言うなら本当なのかしら……」

そう言って看護師は屋上を後にした。その背中を見送って「もういいぞ」と給水タンクの方へ声をかける。すると陰から少女がひょっこり顔を出しニコッと笑った。そして彼女ははしごに足をかけ下へ降り四、五段を残したところで壁を蹴って軽やかに地面へ着地した。とても病人には見えない。猫みてえな動きだ。そのまま彼女は俺の元へ駆け寄ってくるとぐいっと顔を近づけ目を覗き込んでくる。

「助けてくれてありがとう。轟焦凍くん」

それだけ言い残すと彼女は微笑んでそのまま先程の老人たちの元へ走っていってしまった。「おばあちゃんたちもいつもありがとね」「名前ちゃんのためだからねえ」そんな会話が聞こえてくる。よく見れば何故か裸足だし、見た目は不良っぽいのに中身はそうでもないのか病院の人からは好かれているようだし、不思議な奴だ。

「なんで俺の名前……?」

今度は小さな子供たちとじゃれ合い始めた少女を見つめ首を傾げる。
掴み所のない風のような、そんな少女だと思った。