まさに救世主。同時に場の流れを変えるチャンスだと、南郷は驚きと同時に期待もしていた。ずぶ濡れの二人はまだ学生に見える。少年の方が幾つか若いだろうか。制服と思わしき白いシャツも、少女が着ていたセーラー服も絞れば水が出るくらいには濡れていた。
「ほらよ、とりあえずこれで頭拭けよ」
「ありがとうございます」
何も話さない少年の分も、少女はタオルを受け取ってタオルを手渡した。
少年の老人のように白い髪がやけに不気味だと感じたが、今はそんなことよりも、南郷は勝つことを考えるので精一杯。手牌に目線を移す。五筒を切るか二筒を切るか。対面が立直な以上、下手な手は打てない。
「……死ねば助かるのに」
手牌の左端で、手を行ったり来たりさせて迷っていた南郷に、そんな言葉が投げられた。落ち着きの中にまだ若干のあどけなさを感じるその声は先程入ってきた少年のものに違いない。衝撃的な言葉に南郷も周りの男たちも驚きを隠せなかった。南郷は冷や汗をかいた。
「また貴方変なことに首突っ込んで……!」
「ククク、まあ見てなって」
「……あんた、麻雀が分かるのか?」
いや、全然。淡々とそう答えた少年の瞳は狂気に満ちていた。裏世界を生きる者ならすぐに分かる。普通の人間ではありえない思考。狂った生き方。勝負のためなら命すらも賭けてしまう人間の瞳。
だが南郷はその言葉に鼓舞された。この竜崎との勝負、勝てば借金をチャラにして貰える一方で、負けた先にあるものは真っ暗な闇。博奕とはそういうものだ。引き分けなど存在しない。ならするべきことは一つだ。
(どうせ死ぬなら……強く打って、死ね!)
一か八かの五筒。……だが、通った。
その後無事一筒を引き当て、跳満で逆転トップへ。
「あんたら、名前は」
「アカギ。赤木しげる」
「笠城紗雪です」
つかの間の休息だった。勝負はまだ終わっていない。
あれから一言も口を開かない二人は声をかけられて目線を南郷の方へ向けた。
「てことは、姉弟じゃねえのか?」
「ええ。ただ色々訳があって一緒に住んでるんです」
紗雪が名乗る時に会釈したその律儀な様子。そして、制服やその校章から、南郷は紗雪が私立名門女子校の学生だということを知った。どう考えてもお門違いだ。そこら辺の高校とは違う。自分がやらかした訳じゃなくても、チンピラと関わっていただけで退学や停学になってもおかしくないのだ。そんな身分の彼女が、嵐の中この寂れた雀荘に現れたのだった。
「そうだ、アカギと言ったか。……あんたに頼みがある」
この頼みこそが、アカギの伝説の始まりだった。いや、この雀荘に足を踏み入れた時点でそれは始まっていたのかもしれない。
「次の半荘、あんたが打ってくれねえか」
「本気で言ってるんですか?……アカギくんはルールを知らないのに」
素人の中学生に打たせるなんて無理に決まってることなどは南郷も分かっていた。だが、流れを変えたかった。どうしても変えなければならなかった。
紗雪は心配するようにアカギの方を見たが、彼はむしろ麻雀に興味津々のようだった。アカギが了承すると、南郷は牌を十三枚並べて説明を始めた。役の説明をしている時間は無い。三元牌と風牌、鳴き、フリテン、リーチ。アカギは真剣に手元を見つめて、その一つ一つを心の中で復唱した。
(アカギくんが勝負事に強いのは知ってるけど、まさか初めての麻雀で勝てるはずがないわ)
アカギならできてしまうのではないか。そんな無責任な希望を隠すような心の声。
今夜は悪魔の夜だった。紗雪を立て続けに不幸が襲う。狂ったゲームの人質になったかと思えば今度は一人の男の人生がかかった麻雀に巻き込まれている。
濡れた体からは潮の匂いがした。肌寒さに震えそうになって、紗雪は自分の腕で自分を抱きしめた。それでもアカギを見つめることは止めない。信じているのだ。アカギの勝利、アカギの理と強運を。
「任せたぞ」
「うん」
竜崎たちが席に戻り麻雀は再開された。南郷と紗雪が後ろからアカギを見守っている。……だが、暫くは何も起きなかった。東場は和了なし。マイナス7200点。
南二局。紗雪たち二人が配牌を見る。白、中、發それぞれの対子。大三元の種。これなら勝てるかもしれないと二人は希望を持った。
だが何を思ったか、アカギは一枚目の中を見送る。大三元は門前である必要は無い。その場合は鳴きながら安全に役を組み立てていくのが一般的だろう。
そして白、發、二枚目の中も見送る。
「な、南郷さん、風牌って点数に大きく関わるんですよね?」
「ああ。しかもあの三つが揃えば大三元という役になる。鳴かないなんてありえんだろ……」
「どうしちゃったの、アカギくん……」
小声でそう話しながら、七対子止まりの手牌に二人は焦っていた。南郷は素人の中学生に任せたことを後悔し始める。が、その時。
「誰かが階段を上ってくる」
雨音に混じって複数人の足跡が聞こえてきた。雨で濡れた床と靴が擦れる音が数回したところで、扉が二度叩かれた。
「夜分にすみません、警察の者ですが。実は昨晩ちょっとした事件がありまして……」
警察は話し始めた。チンピラ同士の抗争。崖の向こうの海に向かって車を全速力で走らせ、片方は数回岩にぶつかり重症で病院に搬送された。そしてもう片方はそのまま海に飛び出して、自力で泳いで逃げたという話だった。
紗雪は心臓が一際大きく鳴ったように感じた。追われているのは間違いなく自分たちだと分かっていたからだ。
「アカギくん、どうするの?」
「なんとかやる。紗雪さんは簡単な返事だけしていればいい…………南郷さん、取引しませんか?」
「えっ」
今にも警察が入ってきそうだというのに落ち着いた様子のアカギ。彼は取引内容を説明する。
「サツが入ってきたら、俺と口裏を合わせて俺らの身分とアリバイを証明してくれればいい」
「いい加減にしろ。第一、取引ってのはブツを持ってるもの同士で初めて成立するんだ」
アカギは手牌を見てクククと笑った。紗雪と南郷もそれにつられて牌を見た。白、發、中それぞれの刻子。……おかしい。先程まで彼の元にあったのは対子だったはず。二人は河を確認する。一枚ずつの白と發、そして中が二枚あったはずだが、それは見当たらなかった。そこにあったのは一枚の中。アカギは河から三枚抜いたのだ。
中牌に手を伸ばしながら、どうする?とでも言いたげにアカギは南郷を見遣る。だが今中を切られてしまう訳にはいかなかった。南郷は仕方なく頷いた。
二人の警察が部屋に入ってきた。
「いるじゃねえか。問題のガキがこんな所に」
「刑事さん、そりゃ勘違いですよ。こいつらは俺の兄貴のガキでね。ちょっと訳があって預かってるんですよ」
紗雪は目立たないように息を潜めた。だが、心臓の音がうるさく鳴っている。
「昨日は俺たち三人とも六時からこの雀荘にいました。そうだろ?竜崎さん」
「あ、ああ……」
「見たって奴がいるんだがな。それに階段に足跡もある」
刑事の安岡はアカギを見て言った。南郷や竜崎がここに来た時はまだ雨は降っていなかったため、その濡れた足跡は間違いなく紗雪とアカギのものということになる。
「ククッ、刑事さん。それはさっき叔父に頼まれて、姉さんと二人でたばこを買いに行った時のものですよ」
「そうよ。ちょうど一時間くらい前でした」
姉さん、という言葉に紗雪は少しドキッとした。
「こんな夜中にか?」
「僕もこんな夜中に無理だって言ったんだけど、どうしてもって言うから。それに、姉さんも麻雀に飽きたってうるさくて。ねっ?」
「あ、そ、そうだな」
安岡は未だに納得がいっていなかった。紗雪の長い髪はお風呂上がりかのように濡れているし、白髪の男なんてそうそう見かけるはずもないからだ。目撃情報は確かにあった。それに奥の男はどう考えても裏社会の男。見過ごすには怪しすぎた。
「さてと、始めましょうか」
麻雀は再開された。イカサマを誤魔化すには警察がいる内の方がいい。見られているという緊張で自分が何を捨てたかまで気が回らない可能性もある。南郷はアカギに感心していた。十三歳、しかも警察に追われている本人とは思えないほどの対応だった。
「ロン」
竜崎の西にすかさずアカギは声を上げる。大三元。が、下家の丸メガネの男はイカサマに気づいたようだった。アカギの胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「てめえ、なめとんのか!」
「よせ」
竜崎がそれを牽制する。いくらイカサマされたとはいえ刑事がいる前で暴力などする訳にはいかない。
(アカギくん、まさか、ここまで計算してやってたの?)
神がかった策に南郷と紗雪は恐怖すらも感じていた。本当に去年まで小学生だったのだろうか。前世の記憶でもあるんじゃないかと疑ってしまいたくなるほどの彼の頭脳と度胸。まさに天才。後に神域の男と呼ばれるアカギの伝説は、既に始まっていたのだ。