春台詞:亜久津

亜久津くんに見据えられると、その場から逃げ出したい衝動に駆られる。

「おはよう、亜久津くん」

クラスメイトだから、隣の席だから、学級委員長だから。いろいろな理由をつけては自分を奮い立たせて、畏怖を悟られないように亜久津くんに話し掛ける。ありったけの勇気を振り絞っても返ってくるのは鋭い視線だけで、私の全てを見透かされているんじゃないかと怖かった。

「亜久津くん後ろ困ってるよ、プリント回さないと」

HR中にプリントが回ってきても微動だにしない彼を、周囲の誰も指摘したがらない。指図するな、それが彼の口癖だった。

「ウゼェ」

予想はしていたものの、罵倒を吐き捨てたあと乱暴な動作で席を立った。

「あっ、待って。またね!」

慌てて声を掛けたものの返事があるはずもなく、その姿が見えなくなると教室中に安堵した空気が立ち込める。教師も、生徒も、誰もが亜久津くんを恐れていた。春休み中羽目を外しすぎないように、という担任の声はとてもか弱い。このクラスとは、……亜久津くんとは、今日でお別れだ。

私たちは春から三年生に進級する。





貼り出された大きな模造紙に書かれた文字のなかで、真っ先に目に飛び込んできたのは亜久津くんの名前だった。自分の名前を確認したのはそのすぐ後のことで、今年も同じクラスか、と小さく息を吐く。

「今年も同じクラスだね、隣に座ってもいい?」

クラスオリエンテーションでは自由に座るように指示されていたので、彼の隣に座ることにした。怖いくせに関わろうとするのは、偽善的な自分という負い目をひた隠しにしたいと思っているからにすぎない。

「勝手にしろ」
「うん、ありがとう」

微笑みかけても返ってくるのは当然のように鋭い目付きだけで、仕上げに舌打ちまでされてしまった。ここまでくるともう笑うしかなくて、オリエンテーションを真面目に聞こうと開き直った。

今年も学級委員長をすることになって、早々に手伝いを頼まれる。重さはさほどないのに、大きくて背の高い荷物を抱えるのはなかなか大変だった。早く終わらせるために近道である外階段を使おうと考え、肘と足を器用に使って重たい非常ドアをゆっくりと開ける。

「おい!こっちこい!」
「う、わっ」
「死にてぇのか!?」

大きな怒号とともに制服を強く引っ張られて、冷たい廊下へと尻餅をつく。外階段は腐食が酷くて補修が終わるまで使用禁止だったことを、キープアウトと書かれた黄色と黒の派手なテープによって思い出した。

「ごめん、ありがとう」
「……イイコチャンすんのも横着すんのも大概にしとけ。で、どこに持ってくんだ」

亜久津くんはそう言って荷物を私から取り上げ、憎まれ口を叩きつつも手伝ってくれた。彼とこうして会話らしい会話をするのは初めてで、たったそれだけのことで彼を見る目が変わる。自分の単純さに呆れてしまったけど、もしかすると彼自身にも変化があったのかもしれない。逞しい肩に掛けられた見慣れないラケットバッグは、今日も砂埃で汚れていた。

伴田先生が彼をテニス部にスカウトしたらしいと聞いたのは、先の件のすぐあとのことだった。



都大会があった翌日、テニス部の決勝戦敗退はすぐに全校生徒が知ることとなった。亜久津くんは自暴自棄になっていないだろうかと心配になりつつ、平静を装って声を掛ける。

「亜久津くん、おはよう」

おう、という声が確かに聞こえた。驚いてじっと見つめると、心なしかいつもより表情が穏やかな気がする。

「何かいいことでもあった?」
「……みょうじは頭のいい馬鹿だな」
「馬鹿?あはは、初めて言われた」

吹き出すように笑い声をあげると、亜久津くんは訝しげに眉をひそめる。それがおかしくて、ますます歯止めが効かなくなった。

「亜久津くんはいつも全力で頑張り屋さんだよね」
「まだイイコチャンしてんのかよ」
「良い子っていうか、ただの偽善だよ」

知っていたはずだという意味を込めて見上げると、知ったことかと言わんばかりの視線で跳ね返される。彼のそういうところに魅せられている自分に、ようやく気付き始めていた。

「死ぬまで貫きゃ、本物になんだろ」

揺るぎない信念が込められた言葉を聞くと、やっぱり少しは萎縮してしまう。私はどこか誓いを立てるような気持ちで静かに頷いた。

「亜久津くんのそういうところ格好いいよね」
「そうかよ」

いつもと変わらない、燃えるような瞳が私を真っ直ぐに見下ろしている。亜久津くんの芯の強さに、激しく惹かれてやまない。




秋:春:「お前は頭のいい馬鹿だ」「こっちおいで」
あまもよう:蓮見あんり


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