さよならより遠いところへ




「ここ、どこ……?」
 全く記憶にない景色を目にした私の口からこぼれたのはそんなシンプルな台詞だった。
 目が覚めたら妙に体が湿っていた。そこで自分が土の上に寝そべっていることに気付いた。そして慌てて起き上がると目の前にはうっそうとした森が広がっていたのだ。
 都心にこんな立派な森なんてあっただろうか。そもそもどうして私はここに? お酒を飲んだ記憶はない。
 意識が途切れる前のことを思い出そうと腕を組んで唸る。今日は大学で講義を6コマまで受けて夕方からは家庭教師のバイトに向かったはずだ。
 生徒の親との話し合いが少し長引いて、普段乗っている電車に間に合わせるため駅まで足早に歩いていた。
「あっ……」
 思い出したのは目の前に迫る車のことだった。
 そうだ。道路で正面衝突した車が弾みで歩道に乗り上げて、そして私に——
「臨死体験……!?」
 たまらず叫ぶ。思わず出た自分の声の大きさに驚き、すうはあと何度も深呼吸した。落ち着け。
 歩道に乗り上げた車はかなりのスピードだった。あれに当たれば死んでもおかしくない。むしろ生きていれば奇跡だろう。
 とはいえ。
 私はこうして意識も体もある。死んだとは考えづらい。死後の世界にしては随分と冴えない景色だし先人や案内人のお出迎えがあってもよさそうなのに誰もいないので多分違うだろう。
 臨死体験だとすると私は死の淵にいるはずだけど、いかんせん今の私は元気そのものだし私がここで何か出来ることなさそうだ。せめて三途の川なら川を渡らないという選択がとれるのに残念ながら私がいるところは緑深い森なのだ。
 (暇だし歩こうかな……)
 だいぶ呑気な考えだとは自覚しつつも暇であることは事実なので仕方あるまい。
 のそのそ立ち上がり服についた土を払う。顔にへばりついていた髪を耳にかけようとして指先にこつんと何かがぶつかった。
 耳のやや上に指を滑らせぶつかったものを探る。なにやら小さくて硬いものが頭にくっついているらしい。倒れていたので石でも髪の毛に絡まったのかもしれない。しっかり掴むとぐいっと強めに引っ張った。
「いったぁ…!」
 メキッと音とともに頭皮が引き剥がれそうな痛みが走った。その場でしゃがみ込み丸くなる。
(石じゃない……!?)
 悶絶しながら頭に浮かんだのはそれだった。頭皮が剥がれそうな感覚。石が髪の毛に絡まっただけでそんな痛みがするはずもなく、どうにか痛みが弱まったころ再度私はおそるおそる指先で痛みの原因となっているものに触れた。
 ゆっくりと端から端までなぞってみるとどうも後ろに行くほど細くなっているようで、鏡がないので確かめようはないけど、まるで小さなツノみたいだった。
 反対側も触ってみるとやはり同じような形のものがついていた。
 臨死体験で人にツノなんて生えるんだろうか。どんな臨死体験?
 臨死体験ってもっと天国みたいな綺麗なところで「このままずっとここにいたい」と死の世界へ誘われたり手術している自分を俯瞰するみたいなイメージがあったけど、臨死体験も十人十色で誰もいない森にツノが生えた状態で待機する地味なものもあるらしい。生き返ったあかつきには家族や友人に話そうと決意する。
 今度こそ私は立ち上がり、目の前に伸びる道に歩を進めた。





 20分ほど道なりに歩いてみたものの、相変わらず目に入るのはもさっとした木々と真っ直ぐ伸びる道のみで私は変わり映えのない景色を見続けていた。
(まさか延々に続いたりして)
 臨死体験中の世界なので現実世界の道理が適用されているとは限らない。ここが終わりのない森ならば現実世界の私が目が覚めるか死なない限りここの私はひたすら歩くことになるだろう。
 立ち止まってふうと息を吐く。都会の20分ならば景色も目まぐるしく変化して飽きもこないが何ひとつ変わらないこの景色は早々に飽きてしまった。心なしかお腹の空きも感じる。
 さすがにこの世界で餓死はしないだろうが、空腹感があるとなんともひもじい気分になる。ぐうとお腹が鳴くので手でさすっていると、茂みから葉擦れが聞こえ体が飛び上がった。
 遅れて音の出どころを確認すると、バチリと目が合った。
「えっ、あ…うそ……」
 人がいた。それも若い男の人が。
 他の人の登場をなかば諦めかけていたので急遽現れた男性の存在に私の心は踊った。ひとりじゃなくなる…!
「こんにちは」
 笑みを携え軽い口調で挨拶をする。ここは私の臨死体験世界、言わば私がマスターなわけだからここではこちらから声をかける方がスマートだろう。
 相手もにこりと笑い返してくれるだろうと疑いもしなかった私に反して、男の人は目を大きく見開いたあと鋭い視線を向けてきた。
「貴様、なぜここにいる」
 マスターに向かってかなり厳しい口調だ。臨死体験の世界とはいえ、見知らぬ人がいきなり軽い口調で話しかければ警戒されるのは世の常なんだろうか。
「ええっと、ここって臨死体験の世界なんですよね? 私、事故に遭ったのでそれで」
「リンシタイケン? 何を言っている」
「え、知らないんですか?」
 この世界の人は自分が臨死体験の世界の住人だって知らない設定なの? めんどくさいな。
「死にそうだからここで待機してる感じって言えばいいのかな」
「死にそう? お前がか?」
「いや、別の世界の私がです」
「別の世界?」
 臨死体験の概念を知らない人にわかってもらうのは難易度が高すぎない?
 面倒になって口を閉ざしていると、男の人が茂みから出てきて私の目の前に仁王立ちする。
「なぜエリン領にいる? どこの家のものだ」
「エリンりょう? 家?」
 どこの家と問われればミョウジ家と名乗るけど、名乗るほどの名家ではない。




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