ピコン、と新着メールを告げる音でマックスは目を覚ます。毎朝、出勤時間の大体2時間ほど前に届くこのメールを、彼は目覚まし代わりにしていた。
 部屋の中は昨夜消し忘れた間接照明のおかげでうっすらと明るい。
 あー、なんて幸せな目覚めなんだろう。
 ベッドに寝転がったままメールを確認したマックスは、送信元の名前を見て、んふふ……と笑みを漏らした。

 メールの送信元に書かれていたナマエという人物は、半年ほど付き合っているマックスの恋人である。同じ会社で働いている、同い年の可愛い女の子。ほぼ同時期に中途入社した彼女はとにかく一生懸命で、礼儀正しくて、でもたまにドジで、なんとなく放っておけない存在だった。
 いつだったか、廊下でナマエが書類を落とし、ばらまいてしまったところに出くわしたことがあった。通るのに邪魔だったから適当に何枚か拾って渡すと、うっすらと涙を張った瞳がマックスを見上げる。不安げだった表情が、彼を見た瞬間に笑顔に変わった。

「マックス、ありがとう」

 その瞬間、モノクロだったマックスの世界に色がついた。


《おはよう》

 あ、この絵文字、ナマエちゃんの笑った顔に似てるかも。
 メールの文末についていたにこにこ笑顔の絵文字を見て、マックスはまた、ふふ、と笑みを漏らす。 
 すぐに返信したい気持ちをぐっと堪えて、一度メール画面を閉じた。
 メールの返事はすぐにしちゃダメだって、どこかの誰かが言ってたような気がするし。これもナマエちゃんに好かれるために必要なことだから我慢我慢。
 とりあえず仕事に行く準備をしますか、とマックスは起き上がった。

 朝ご飯を食べ、顔を洗い、念入りにヘアセットをする。
 使ったものを片付けながら、ナマエへのメールの返事を考える。
 おはようだけじゃ素っ気ないか? 何か気の利いた一言を添えたほうがいい? 朝の気の利いた一言ってなに? これから出勤なのに長い文面って読むの面倒臭い? 絵文字は? 顔文字は?
 普段のマックスならサクッと出来ることも、ナマエ相手になると考えすぎてしまってダメだった。
 変なメールを送って嫌われたくない。
 そんな風にぐるぐると考えているうちに、あっという間に出勤する時間がきてしまう。余計なことをして変に思われるよりそのまま送ったほうがまだいいだろう、と「おはよう」とだけ入力して送信した。


 マックスは依頼主の情報を見て、げえと声を上げた。
 この日の依頼主は、世間からは“反社”と呼ばれているような組織だった。対応を少しでも間違えると面倒臭いことになるため、マックスはこういった組織相手の仕事があまり得意ではない。
 ……ま、俺らも仕事内容的に人のこととやかく言えないけどね。
 そう自嘲しながら、マックスは依頼書をぱらぱらと捲る。依頼内容は人探し。依頼書には若い男の顔写真が添付してあった。男の目撃情報は多数あり、そのどれもが同じ地域のため、潜伏場所を特定するのはおそらく容易だろう。ラッキー、と思いながら書類を読んでいくが特記事項に記載されている文字に一瞬動きを止める。
《必ず生きたまま引き渡すこと》
 どうかこの男が聞き分けのいい男でありますように。
 無駄な労力を使いたくないマックスは、そう思いながら会社を後にした。

 
 午後までかかると想定されていた人探しの依頼は、マックスの予想通り容易に終わり、昼前には帰社することが出来た。
 ターゲットの男は聞き分けがいいとは言えなかったが、物理的にかなり弱く、すぐに大人しくすることが出来たため、然程労力を使っていない。
 ほんと今日はラッキーだったな〜。
 独り言ちながらマックスは休憩室の電気をぱちりとつける。中に入ると空気がひんやりとしていて、今日はまだ誰も使用していないことを物語っていた。
 ソファにどかりと座った彼はポケットから1枚の紙切れを出す。映画特別完成披露試写会、と書かれたそれは、先程依頼主に引き渡した男から奪った——いや、貰ったものだった。

「んーと……なになに……? え! 当選倍率500倍?! この映画ってそんな人気あんの?」

 文字通り特別なものなんだ、価値あるものなんだ、と男が豪語していたため、本当かどうかネット検索をしてみるとまさかの結果だった。どうやら試写会の前に舞台挨拶があり、メインキャストの俳優と主題歌を歌うアーティストが登壇するらしく、双方のファンが殺到したためこのような倍率になったらしい。
 こういう場合で本当にそれなりに価値があることってあるんだ……などとマックスは思いながら、映画という文字を見て、彼の脳内にふとナマエの顔が思い浮かぶ。
 ナマエちゃん、こういう映画好きかな。
 当選倍率500倍って言ったら喜ぶかな。
 さすがにこういうレアな事情だったらデートに誘っても大丈夫じゃないか、と試写会の情報を見ていたが、登壇者の欄でピタリと止まる。
 コイツは——

「あれ、マックス早くね? 今日の依頼、午後までかかるとか言ってなかった?」

 休憩室に入ってきた男はそう言ってマックスの隣に腰掛けた。ぼふり、とソファが揺れる。ローテーブルにゲーム機と昼食用のパウチを置いた男に、マックスは「カートくんお疲れ〜」と声を掛けた。
 隣に座った男——カートに、午前中の出来事を掻い摘んで説明する。試写会チケットの当選倍率について教えるとよほど驚いたのだろうか、猫のように目をまんまるにしていた。

「……それにしても、どうしよっかな〜コレ」
 
 休憩室のどこかの蛍光灯がもうすぐ切れそうだ。チカチカと微かに揺れている光にチケットを翳すようにして、マックスはそれをぴらぴらと揺らす。
 すかさずカートが「ナマエちゃん誘って行ってくればいいじゃん」と言うが、彼は少し考えてから首を横に振った。

「……んー、ナマエちゃんは誘わないかな」

 マックスの言葉に、カートはさっきよりも大きく目を見開く。

「は? なんで? デートに誘いたいって散々騒いでたくせに何言ってんの?」
「いやまあそれはそうなんだけどさあ」

 原因はコイツにある。
 そう言ってマックスはカートに試写会の登壇者の情報を見せる。そこに映っていたのは真剣な表情で前を見据えている生身の男性の写真だった。

「……だれ?」
「ナマエちゃんの多分好きな俳優」
「コイツも舞台挨拶? に、出んの?」
「出る」
「じゃあ丁度いいじゃん」
「良くない!!」

 突然大きな声を出したマックスに、カートは驚いてびくりと肩を揺らす。ビビった……と思わず呟いた彼を無視してマックスは続ける。

「この間ナマエちゃんの部屋でたまたまテレビ見てたらコイツが出てきたんだけどマジなの! 目が! 好きって目が言ってたの! 画面越しでそれなら生で見たらどうなると思う?! 無理。想像しただけで無理。吐きそう。無理。何が楽しくて他の男にメロついてる彼女見なきゃなんないわけ。絶対無理!」
「お、おう……」

 蛍光灯の光が一瞬消え、すぐに戻る。
 肩で息をするマックスを見るカートはなんとも言えない表情をしていた。
 
「……なんか調べたらコレ、高額転売されてるっぽいから、コレ売ってナマエちゃんにプレゼントでも買おうかなって」
「あー……まあ……いんじゃね」

 もう何も言うまい。
 密かにカートが頷いている横で、マックスが「あ」と声を漏らす。まだ何かあるのかとカートが眉根を寄せていたが、「ナマエちゃんからメールだ!」との声にほっと胸を撫で下ろす。

「なんだろうな。デートのお誘いかな?」

 さっきまでのピリついた雰囲気はどこかへ行ってしまったらしい。
 二重人格かよ……と白い目を向けるカートなんてお構いなしにウキウキとメールを確認する。

《別れよう》
《今まで付き合ってくれてありがとう》

「………………は?!?!」
「うお……今度はなに……」
「え、は、なに、え、どういう、え、なに?」
「それはこっちの台詞なんだけど」
「ナマエちゃんから別れようってメールきた……」
「は? お前何したの?」
「何もしてないよ! なにもしてないからビックリしてんじゃん!」

 マックスには心当たりが全く無かった。
 喧嘩もしたことがないし、今朝だっていつも通りおはようとメールを交わしたはずだ。別れを告げられる要素が見つからない。
 とにかく話をしなければ、と電話をかけてみるが、返ってきたのは可愛らしいナマエの声ではなく、無機質な機械音。

『おかけになった電話は電波の届かないところにあるか——』

 ダメだ。繋がらない。
 すぐに電話を切ったマックスはどうするかを瞬時に考える。
 今日、ナマエは午後から休みを取っている。そのことを彼は把握していた。事実がどうであれ、こんなメールを社内または外出先から送ってくる可能性は低い。それならば自室にいるのではないか。マックスはそう結論づけた。

「ちょっと俺ナマエちゃんのとこ行ってくる!」
「マックス・マカリスター」

 急いで駆け出したマックスを引き止めたのはカートの声、ではなく、この会社の社長——ジェーン・ドーズであった。

「今日はこれから私と仕事だろう。そんなに慌ててどこへ行く?」
「え、あー……っと」
「カート・クレイマー。車を頼むよ」
「……ッス」

 微笑みを湛えて、優しいとすら思わせるような穏やかな声色なのに、有無を言わせない迫力がある。社長は決して自分に従えと命令はしない。それでも、社長の言うことは絶対だと思わせる何かがあった。
 カートは何も言わず、黙ってマックスの肩を軽く叩く。流石のマックスでも、恋人との破局の危機だから仕事行きません、とは言い出せなかった。
 長い廊下に、社長のヒールの音だけが響いている。