——ナマエちゃん!
——ナマエちゃん?
——ナマエちゃん。

 真っ暗な夜道をひとり歩いていたナマエを呼ぶ声がする。微かに聞こえたそれがマックスの声だと、何故だかすぐに分かった。同時に、ああ、これって夢なんだと気付く。
 だって、マックスはこんな風に、感情豊かにわたしの名前を呼んでくれたことなんてないから——。

 ハッと目を覚ましたナマエの視界には真っ暗な天井だけが映っていた。マックスに別れよう、とメールを送ったあと、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寒々とした空気が肌に纏わりつき、ぶるりと身体を震わせた。
 いま、なんじ……?
 時間を確認しようと、ベッドに投げ出したままであろうピコポを探そうとしたところで左手の違和感に気付く。

「……え」

 そこにいたのは、ナマエの左手を握ったままベッドにもたれかかっているマックスだった。

「な、んで……」
「ん……? っナマエちゃん?!」

 驚いて起き上がったナマエの僅かな振動に身じろぎしたマックスは、聞こえた声にがばりと身体を起こし、そのままの勢いで彼女を抱き締める。
 ヘアセットした彼の少し硬い髪が、首元に当たってこそばゆい。マックス、と名前を呼ぶと一瞬の間のあと、ごめんと呟いて身体を離した。

「……俺、別れたくないよ」

 縋るようにナマエの腕を掴むマックスに、彼女の頭の中は困惑でいっぱいだった。
 本当にこの人はマックス?
 今まで見てきた彼からは想像もつかない行動と言動に、実は知らない誰かに身体を乗っ取られている、と突拍子もないことを言われても今なら信じちゃうんだろうな、なんてどこか他人事のようにナマエは思う。

「……もう、最後だから言うけど」
「……っ」
「マックスってわたしのこと、好きじゃないでしょ? やっぱり付き合うのって好きな人同士で……」
「っは?! 好きだけど?!」

 好き? マックスが?
 思いがけない言葉に、ナマエは耳を疑った。

「まってまってまって、もしかして好きじゃないのに付き合ってもらってる、とか思ってた?!」
「う、うん」
「そんなわけないじゃん! 好きじゃない子と付き合……ったこともないわけじゃない……いや好きじゃない子ばっかりか……? じゃなくて! とにかく今は違うから! ナマエちゃんのこと、ちゃんと好きで付き合ってる!」

 やんわりと解かせていたマックスの手が、今度はナマエの手を握った。言葉の勢いとは裏腹に、優しく、丁寧に。
 まるで大事なものに触れるかのようなそれに、彼女の頭は更に困惑でいっぱいになる。
 じゃあ、どうして——

「どうしてわたしとは話してくれないの……?」
「え」
「カートとはいっつも楽しそうに話してるのに、わたしといるときは無口で楽しくなさそうじゃん……デートも誘ってくれないし、メールも遅いし素っ気ないし、スキンシップもないし……好きって言ってもらったこともない……」
「は」
「そんなの、今更好きとか言われても、信じられないよ」

 カチカチカチ、と目覚まし時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
 黙ってしまったマックスに、ああ、もう本当にこれで終わりかな、なんてナマエはぼんやり考えていた。

「……ナマエちゃんが言ったんだよ……うるさい男はダメ、クールで寡黙な男がいいって……だから俺はそれになろうとして」
「え、い、言ってないよ。どういうこと?」
「言った!」

 突然顔を近付けてきたマックスに驚いていると、そのモニターに“再生”のマークが現れる。

『——ぺちゃくちゃ喋ってばっかの男はダメだよ! こういう男って信用出来ないもん。会うたびデート行こうってうるさいしベタベタ触ってばっかなのも嫌だし……やっぱりクールで寡黙なほうが良い!』

 マックスから聞こえてきた音声は、少しノイズ混じりだったが、明らかにナマエのものだった。
 唖然としている彼女を、マックスは見つめる。
 どうしてこんな音声がマックスに“ある”のかはもうこの際どうでも良い……厳密に言うと良くはないのだが。
 音声を聞いて、なんとなく思い出すことがあった。
 たぶん、これは、きっと。

「あの……あのね、マックス」
「なに? 思い出した?」
「……思い出した。それ、去年の忘年会でわたしがアリスちゃんと話してたときの音声でしょ」
「! ……そう、だよ」
「あのね、それ……ドラマの話だよ」
「…………え?」

 去年の秋から冬にかけて、ナマエにはハマっていた連続ドラマがあった。キャリアウーマンの主人公と、彼女を取り合う男たちがおりなすラブコメディ。一人は主人公の幼馴染で、イケてるチャラ男。もう一人はクールで寡黙、シゴデキな主人公の同僚。
 何からこの話に派生したのかは覚えていないが、同僚のアリスもこのドラマを見ていると言ったため、主人公に相応しい男は誰か、という話で盛り上がった記憶がナマエにはあった。

「…………ナマエちゃんの、好みじゃないってこと?」
「主人公の相手役として、誰がいいかって話だからね。わたしは別に、クールで寡黙な人が好きなわけじゃないよ」
「マジかぁ〜……」

 じゃあ俺の今までの努力は一体……と俯いてブツブツ呟いているマックスを、今度はナマエが見つめる。
 彼が無口だったのも、素っ気なく感じたのも、デートに誘ってくれなかったのも、スキンシップがなかったのも……全部全部、この発言に合わせようとしたから?
 思い返すと、辻褄が合う。結果として全て間違いで、逆効果も甚だしかったわけだが。

「……それにしても極端すぎるというか……クールで寡黙ってそういうことじゃないでしょ」
「そ、れは…………本当にそう。ごめん」

 珍しくマックスがしゅんとしている。
 その姿がなんだか捨てられた子犬のように見えたナマエは、そっと手を伸ばし彼の頭をゆっくりと撫でる。

「……ナマエちゃん。俺、ナマエちゃんのことが好き。今度は変なキャラ作りしないで、ちゃんとするから、もう一度最初からやり直させてください……」
「うん……」
「いっぱい話するし、デートも誘うし、メールも秒で返すし、寝落ちまで電話とかもしたいし」
「うふふ……うん……」
「いっぱい好きって言うから……ナマエちゃんが、信じられるまで……信じてもらえたあとでも、何回も言うから」

 電気をつけるのも忘れた部屋の中で、マックスの目だけがゆらゆらと揺れている。
 
「ナマエちゃんがもう聞きたくないって嫌になるほど言っちゃうかもしれないけど……」
「……いいよ。いっぱい聞きたい」

 マックスの言葉でぽっきりと折れてしまったと思った心が、その彼の言葉によって、また元に戻っていく。
 
「キスも、いっぱいしていい?」
「……う、ん」
「ナマエちゃんの唇腫れちゃうくらい?」
「……それは……ちょっと、加減してほしいかも」
「んふふ……わかった」

 こつり。マックスのおでこがナマエのそれに当たる。
 マックスの目って、近いとこんなに眩しいんだ。
 初めて分かった事実に胸を高鳴らせながら、そっとナマエは目を瞑った。
 
 そうして二人は、初めてキスをした。
 唇に触れたのは冷たい無機質のモニターなのに、何故だか温もりを感じる。触れるだけの、軽いキス。それでも、今までしたどのキスよりも心が満たされた。
 隙間なく抱き合い、角度を変えながら、何度も唇を触れ合わせる。二人のすれ違いを、埋め合わせるように。
 
 明けっ放しのカーテンの奥で、きらりとひとつ、星が流れた。