エドモン・ダンテス

崩れかけの映画館に、もはやただのゴミにしか見えないほど劣化したフィルムが落ちていた。拾い上げて光にかざしても、なんの場面かなんて全くもって分からない。だから意味なんてないのに、それでもしつこく覗きこんでいたら、背後から伸びてきた白手袋の手にフィルムを奪われた。
目を細めて、私と同じく光に透かしてそれを見ている。日焼けして劣化の激しいフィルムなんか、何が写ってるかなんて見れるわけもないのに。
「なんも見えないでしょ」
「いや」
くわえてた煙草をもう片方の手で口から離して、煙を吐き出したエドモンの顔を、驚いて見つめる。
「見えんの?」
「いや」
どっちだよ。肩を落として怪訝な顔をすれば、顔を背けて私から奪ったフィルムをポイ捨てした。ちょっと、と文句を背中に投げかけるも、素知らぬ振りでコツコツと靴音をたてながら奥の通路へ行ってしまう。仕方ないので、その背中を追う。
廃墟と化し、かつての賑わいを無くした映画館から抜け出す。これといって、現状に変化をもたらす発見がなかった。残念だが、昨日も一昨日も、そのまた前からずっと、私が崩壊した街で目を覚ました理由が分かるような物は、ヒントすらもらえていない状況だった。
心情をそのまま映し出したような空の色は、灰色に濁って青空などここに来てからというもの、拝めた試しがなかった。連なる廃墟に馴染む色合いをした唯一の話し相手は、何故かさっきから口を閉ざしてしまっているため、会話もなく、風に揺られて軋む錆び付いた鉄の音しか聞こえなかった。
少し前を歩くエドモンの背を追いながら、暇なので辺りを見回す。10メートル前と何ら変化のない、茶色と灰色の世界が広がっていた。絡んだ蔦さえ枯れている。飲食店の看板キャラクターが、涙のように目から錆を流しているのが見えた。
時折吹く乾いた風は、少し冷たくて埃っぽい。セーラー服の上に羽織ったダッフルコートのポケットに手を突っ込んで、身を縮める。
前にいたエドモンが、比較的劣化のマシそうな住宅の前で足を止めた。今日の宿はここにするらしい。住宅の戸を簡単に引き抜いて侵入したエドモンに続いて、冷えた空気の室内にお邪魔しますと足を踏み入れた。
埃っぽいバネの飛び出たソファ。割れた窓ガラスと、天井から落下したシャンデリアでリビングの床はガラスまみれだった。
まぁこんなのはいつものことなので、リュックからブルーシートを取り出してとりあえず足場を確保する。その上から、奇跡的に見つけることができた、保存状態のよかったブランケットを被せた。ブーツを脱いで、その上に座り込む。多少の凹凸は気になるものの、慣れたものなので胡座をかいてひと息ついた。
「今回もなんも見つかんなかったね。まぁそれはいいけど、食べ物がなかったのはツラいなぁ」
「1つ見つけた。まぁ、1つだが」
ポイっと放り投げて渡された缶詰をキャッチした。
「わーいつの間に!よかったー、もうレーションも缶詰も、残り少ないもんねー」
リュックの外ポケットから缶切りを取り出してさっそくキコキコと蓋を開けた。鉄の切れ端を硬い石で叩いて作った缶切りは、簡易なナイフにもなって便利だ。
「逞しいな」
フ、と笑って隣室へ行ってしまった。疲れて動けない私の分まで探索しに行ってくれたのだろう。サーヴァントと違いただの人間として、食事を必要とするこの身を悲しく思った。魔術師の端くれといえど、だからといって何が出来るという訳でもない。少なくとも今のところは、苦し紛れに微かに感じた霊脈に縋って、ヘタをしたらその場で命をなくしていたかもしれない召喚術を起動させることぐらいしかできていないのだから。
いつだか拾った鉄製のスプーンで、火をおこして温めた缶詰のスープを飲んでいると、エドモンが隣室から早足で戻ってきた。
「どしたの?なんかあった?」
そう聞いたものの、別に期待などしてはいなかった。こんなただの住宅に、この世界の全てを知ることが出来るものなど存在しているはずがないから。
「見ろ」
エドモンが私の隣に腰を下ろして、ばっ、と何か紙を広げた。随分劣化の少ない紙だな、と感動していたせいで、それが何なのかを理解するのに時間がかかってしまった。
「…地図だ…」
紛れもなく、地図だった。バスに乗った男の子と女の子が窓から手を振っているファンシーなイラストが、右上に薄ボケてあった。「遊んで学べる!豊かな複合施設のテーマパーク!」と書かれている見出しの下に、売りにしていたであろうパークが星マークで示されていた。その中に、「昔懐かし、ビデオフィルムシアター」の文字を見つけた。
「ここ、さっきのとこかな」
「おそらく。それと、ここを見ろ」
示された場所を目で追う。緑の枠線、その外側に、「月海」と書かれた海域があった。
「つき…かい?え、…そんな海域、あったっけ?」
「さぁな。俺は聞いた事がないが。地球ではな」
最後に不吉な言葉を付けて、エドモンが地図を私に手渡した。ポケットから煙草を取り出すと、ん、と言って火を要求してくる。
廃墟で拾った注入式のライターで火を付けてあげれば、満足そうに煙草を吸い始めた相棒を横目に、また地図へと視線を落とした。
ところどころはやっばり掠れて読むことができない。それでも、月海、という文字はかなりはっきりと残っていて、文字が掠れてできたものでは無いということは理解出来る。
ふと、右下に何か小さく米印で書かれているのに気がついた。「※こ■か■■の区■■、月の■■■の■■の領■の為、■入■厳禁で■。」……ほとんど掠れて読めない。ただ、また月という言葉が出てきている。嫌な予感がふつふつと沸いて、胸の中を支配しだした。
「んー!やめ!寝よ!今日は!」
リュックを枕にして、コートを脱ぎ布団がわりにかけて横になった。エドモンが煙を吐き出しながら、目を細めてこっちを見る。
「そうしろ。今日は歩きすぎた。だが明日の行動は決めてから寝ろ」
絵画みたいに綺麗な白い横顔を眺めながら、落ちてくる瞼に必死に抵抗して考える。いくら頭が否定しようとしても、先程からチラつく可能性のひとつを明らかにしなければいけない。殆ど閉じかけた目で、何とか声を振り絞って答えた。
「月海って、ところ、めざしてみよ…」
「いいだろう」
エドモンが、犬を褒めるように私の頭を3回手のひらで触った。よく出来ました、と言われているような気がする。安心感が身を包んで、すぅっと眠りに入っていく感覚がやってきた。
「エドモン、そばにいてね」
寝る前に、必ず言う言葉を口にして目を閉じた。あぁ。と聞き慣れた声がする。この声が聞こえる限り、私はきっとまだ、何とか生きていける。
眠ろう。起きたら見慣れた天井に戻ってるだなんて、見飽きた夢を見ながら。意識を失う数秒前、零れ落ちた涙を、拭ってくれた優しい指の感触を感じた。