閉店間近の閑散とした総菜コーナーには、売れ残りのエースたちが隅のほうへ申し訳程度に集められ、くたびれたスーツ姿のサラリーマンや小さな子どもを連れた女性たちがそれを物色している。例に漏れず瑞季もそのなかの一人で、さっと適当なものをカゴに放ると足早に会計を済ませた。
文明の進化とは目まぐるしく、半額シールがたとえ何枚貼られていたとしても会計時に恥ずかしさを覚えることのないセルフレジの導入は、我々の生活に大きな安心感をもたらしている。と、いうのはいささか大袈裟な話だが、カゴの中に定価のものがひとつもないことにわずかの罪悪感ももたなくなってしまったのはまぎれもない事実だった。
賞味期限の近い味噌汁のカップと、黒くなったバナナと、値引き弁当。
ポリエステル製のエコバッグには今日の戦利品たちが詰まっているが、安かったなあ、という感動はもうない。どれを選んだとしてもすでに何度も手にとったものばかりだ。きんぴらごぼうのパサついた食感や、酸化した油を纏ってすっかりしなしなになったコロッケの味が、箸をつける前から手にとるように想像できてしまう。——それも今週、二度目。瑞季は小さくため息を吐いた。失敗した。まあ、この際食べられればなんだっていいんですけどね。
法に触れるラインぎりぎりまで残業をしていると自分はなんのために生きているのだろうと思うタイミングがあった。今もそうだ。
出ていくのは税金ばかりで使い道のない貯金が年々貯まっていく。少ない睡眠時間を補うために休日のほとんどを寝てすごしている。付き合いの悪い自分に特別なお誘いがあるわけもなし、おひとり様の毎日が果たして充実しているかと問われると苦しいものがあった。
転職、かあ。瑞季は本日何度目かのため息を吐いた。決められた業務を規定時間までにまともに片付けることもできない人間が、他でもやっていけるとは思えない。
二十五歳、独身。ここに無職という肩書きまでついてしまうのは、できればさけたかった。
現実逃避で「どこか遠くへいってしまいたい」、そんなことばかり思う。実行できる気は、しないけれど。
そんな暗澹とした気持ちで店の外に出ると、肌を切り裂くような冷たい風に彼女は思わずスプリングコートの前を合わせた。やっと暖かくなってきたと思ったのに一気に冬に逆戻りである。
瑞季は足元が凍っていないかおそるおそるつま先を滑らせてから重心をかけ、凍りがちな店先のタイルの上をさっさとクリアしてしまうと、足早に自宅に向かって歩き出した。
露出した手足が冷たい。とにかくあたたかい布団の中で一刻も早く寝てしまいたかった。
*
駅や商業施設への利便性の高い高層マンションが立ち並ぶ区画から少々離れると、古くからある戸建てと低層階のアパートが立ち並ぶ区画が広がっている。そこが瑞季の拠点だった。比較的安く借りられたアパートは、築年数は経っていたがリノベーションもされており、少し駅から離れているというだけで特段不便を感じたことはない。
彼女は住宅脇の細い道を抜け遊歩道へと歩を進めた。最寄りのスーパーから十分ほど歩くと遊歩道があり、そこを抜けることが自宅アパートへの近道となるのだ。
わずかな街灯の灯りがあたりを照らしていた。この時間ともなればさすがに人っ子一人いなかった。
土の匂いがむっと鼻腔を刺激し、つむじと頬をしっとりと濡らすわずかな冷たさに、彼女は足を止めた。ずっしりと重たいビジネスバッグとエコバッグで両手の塞がった状態では手のひらで確認する術はないが、気になって空を見上げてみる。雨、だろうか。道の端にある街灯の光に、霧のような雨粒を認める。
すると、視界の端になにかちらちらとしたものが映ったような気がして、瑞季はぼんやりと視線をうつした。ほうと吐いた息がわずかに白くなった。
(桜、咲いてたんだ)
少々世俗から離れている自覚はあった。ましてこのあたりは、入学時期に桜の開花が被るかどうかだった。仮にネットニュースを見ていたとしても、頭に入っていなかった可能はおおいにありえる。
それが、まさか毎日歩いているはずの帰り道にも桜があるなんて。
疲労で重い足を、興味に駆られて伸ばす。ごつごつとした幹の桜の大木は遊歩道沿いの公園を見守るように根を生やしていた。いつも自分のつま先ばかり見て歩くから、花弁が落ちてくるまで気がつかなかったのだろうか。
月の見えない暗い夜。雨に混じって花弁が舞い散る様子は、そこだけ切り取ってしまいたいくらい幻想的に見えた。
見ごろを逃してしまったのか花の中心が赤く染まっている。木の根元はまるで地面を覆いつくす淡紅色の絨毯のよう。あと数日もすれば、若芽が顔を出し、やがては新緑の季節へ移りかわっていくのだろう。
物悲しさはない。どんなものでも、終わりはあっけないものだから。
この雨でさらに勢いを増して散っていくのであろう桜を見上げる。けれどすぐに不毛だと首を横に振った。どんなに記憶を掘り返そうとしたって、いい思い出なんてありはしないことを彼女は知っていた。
——すると、まるでそんな瑞季の思考を遮るようにコートのポケットに入れていたスマホが震えたような気がした。
彼女はほの明るく画面を光らせると、苦虫を噛みつぶしたような顔をしてマイクつきイヤホンを耳に突っ込んだ。
(間が悪いというか、なんというか……)
深呼吸をして、通話ボタンを押す。
「もしもし——」
『あ、もしもし? 瑞季ちゃん?』
着信は伯母からだった。
数年前に彼女のもとへ賃貸の保証人を頼みに訪れたとき、瑞季が中高生のときよりもよっぽど痩せたように見えたらしく、こうしてたまにきちんと食べているのかと問い詰める電話をかけてよこすのだ。やんわりと成長期の食欲のまま今も生活しているとは思わないで欲しいと言っているのに、残念ながら彼女は聞く耳をもたない。
『今日はいっそう寒いから気になっちゃって。瑞季ちゃんも身体にいいものをちゃんと食べて、あったかくしてね』
「おばさんこそ。そっちはもっと寒いでしょう?」
『そうなの。雪でも降ってきそうよぉ。……たまには、実家にも顔を出しなさいよ。もう何年も帰ってないんでしょう?』
顔も見えないのに顔色を窺うような声色で言うものだから、瑞季はつい苦笑してしまった。
「……ええ、まあ。仕事が落ち着いたら、そうします」
適当に諌めて、明日も早いからと早々に通話を切り上げた。
大きく息を吐いた。雫が髪を伝い落ち、肩を濡らしている。ずいぶん降られた後でいまさらだったが、一応折り畳みの傘を開いた。
(疲れたな……)
じっとりと濡れた紺色のコートがとても重く感じる。どうせ季節の合間にしか着ないものだからと安くなったものを選んだが、こんなことならばちゃんとしたものにすればよかった、と鈍った頭が思った。
そうしている間にも春の雨は徐々に雨脚を強くしていった。傘に打ちつける雨音と、コツコツという自分の靴音が耳元でいやに大きく反響している。重たい疲労感に、急かされるように足が動いた。つま先が凍えるように冷たい。
この角を曲がれば、やっと二階建ての古いアパートが見えてくる。
——そんなときだった。
「……?」
なんだか周囲がいつもと違うような気がして、瑞季は立ち止まった。
どちらかといえばそういう第六感的なことに対して自分は鈍いほうだと思う。ぼうっとしているとよく言われるし、実際に聞いていないこともままあった。
なのに——妙な胸騒ぎがして、心臓がばくばくといやな音をたてる。背中をつうと汗が伝い落ちた。この違和感は、なんだろう。
ふと、視線が吸い寄せられるように動いた。
車通りのない片側一車線の車道の向かいには、ロールカーテンで閉めきられた中の見えない歯医者の大きなガラス戸があった。繁盛しているのかよく清掃の手が入り、いつもピカピカのガラス戸だ。部屋に大きな鏡のない家だったので朝アパートを出るときはそこで寝癖がついていないかを確認するのにちょうどよく、彼女は癖でよくそこに視線をやってしまう。
今は硬直して動かない身体が、綺麗に磨かれたガラスに反射してやけに間抜けに映っていた。紺色のコートを着て傘をさした自分はひどく疲れた顔をしていた。頬がわずかに引き攣っていて、目玉だけがうろうろと彷徨っている。
よく見ると、そのわずかに後ろに影があった。
妙な感じがした。街灯のぼんやりとした光によってできたシルエットにしては、やけにはっきりとしている。黒く、まるで巨大なカラスのような——。
——それが人だと気がつくまで、少々時間を要した。
「ひゅっ」と、恐怖で息が漏れる。
瞬間、彼女は違和感の正体がわかってしまったような気がした。
耳元で反響していたと感じていた靴音。果たして、あれは本当に一人分だったのだろうか、と。
足が縫い止められたように動かなかった。指先ががたがたと震えだして、手にしていた傘を取り落とす。自分のものではない足音。鈍く光るカサカサとしたウィンドブレーカーのような衣服の擦れる音。ゆっくりと這うように近づいてくる気配。生温かい呼気が首筋にまとわりついてくるような錯覚さえ覚えて、瑞季は声を出すこともできずにただ恐怖が過ぎ去るのを待った。——待って、しまった。
気がつけばざあざあとそれまで続いていた雨音が鳴りやんでいた。自分の心臓と背後の荒い呼吸音だけが響いている。すぐ後ろでつばを飲み込むごくりという音がした。
「っおまえが……おまえが悪いんだからな」
低く、震える冷たい声が耳奥に届いた。——言葉を理解する前に、風を切る音とともに「どんっ」と背中に大きな衝撃が走る。瑞季の視界は前のめりになったまま濡れたコンクリートの上に叩きつけられた。
何が起きているのかわからなかった。
ただ一瞬だけ、銀色に光る「なにか」が、胸の中心から飛び出しているのが見えた。引き抜かれたせいで、すぐには見えなくなる。外気だけではない、急速に訪れた寒気にガチガチと合わさる歯、こみ上げる吐き気に思わず咳き込むと生温かい液体が口からドバッと溢れた。自分の中に納まっていたはずのおびただしい量の液体と、冷たい雨とが混じりあって、地面が黒くぬらぬらと光っている。引き攣ったように浅い呼吸を繰り返し、吸っても吸っても薄い酸素を求めようとしているのにまだ足りそうにない。暗くぼやけていく視界。血の気を失い外側へ硬直していく指先。心臓が変な鳴り方をしている。痛みは、ずっと後からやってきた。
(これは、もうダメかもしれない)
勢いよく仰向けに転がされる。その様子を、瑞季は文字通り虫の息で呻きながら、まるで他人事のようにぼうっと見ていた。
馬乗りになった男の目深に被ったフードの隙間から、血走った目が見えた。その頭上には、雨粒のカーテンが広がっている。暗く光る刃がゆっくりと振り上げられた。
(死にたくない)
手を伸ばそうとするも、硬直した手はぴくりともいうことを聞いてくれない。
目尻を伝い落ちたものが、彼女にはもう何なのか確認する術がない。
何度も、何度も、血だまりのなかで壊れたテレビみたいにぶつりと意識が途切れるまで、それは続いた。どこかで聞いたことのある声が、半狂乱になって叫んでいた。
そう。あの花冷えの日、たしかに私の命は花弁とともに散ったのだ。
(2023.01.15)
最終加筆修正(2025.05.29)
[♥拍手]