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 お布団でぐっすり眠って、次の日。お母さんに優しく揺り起こされた私は朝食を食べた後、お仕事に行くという彼女を見送った。
 さて。昨日は家の中を見て回ったから、今日は庭の方を見てみようと思う。家の中の構造もなんとなく理解してきたし、もう迷うことはないだろうしね。
 俺は一度部屋に戻った。ここを起点として庭を探索しようと思ったからだ。
 縁側で靴を履いて庭に降りたつ。
 相変わらずよく手入れされている庭だ。名前は知らないけれど、かわいい花がたくさん咲いている。本当に、天気が悪いのだけがもったいない。今日も曇りだなんてなんなのそういう季節なの?
 花を踏まないように気をつけながら更に奥の方へと足を進めていくと、池が見えて来た。へぇ、結構大きいんだな。
「鯉だ」
 池の近くで姿勢を低くして池の中をのぞき込むと、綺麗な鯉がいた。赤とか白とか、カラフルな鯉は錦鯉だろうか。近所の公園に居た鯉は真っ黒で、人の気配がすると貪欲に餌を求める奴らばっかりだったなぁ。あんまりかわいくなかった。
「あ、川がある」
 池のふちを目線で辿っていくと、池に流れ込む小さな川があった。この川の向こう岸に、彼女の仕事場があるのだろうか。
 近くに行ったら、怒られちゃうかな? ああでも、気になるなぁ。
 好奇心がちらちらと湧き出してくる。彼女に怒られたくはないけれど、ちょっとだけ、少しだけなら、という驕り。それに、仕事中ならどうせバレやしないだろうという、慢心。
「大丈夫、だよね」
 私は好奇心に負けた。
 池のふちを辿り、川沿いに歩く。川の流れは穏やかだが濁っていて底が見えない。川幅もそれなりにあるみたいだ。だって、向こう岸は霧がかってしまって、あまりよく見えないのだ。たぶん、向こうもこっちと同じような景色だと思うけど。
 上流はどうなってるんだろう。湧き水みたいになっているのか、それとも山の上まで行かなきゃならないのか。川の始まりなんて見たことなかったから、分からないや。
 さくさくと、むき出しの土を踏みしめる。息を吸い込んでみると、胸いっぱいに湿った土の匂いが満たされた。久々に嗅いだ匂いだ。小さいころは外でたくさん遊びまわって、これと同じような匂いにいつも包まれていた。最近は自宅と会社の往復ばかりで、自然の匂いなんてとんと嗅いでいなかった。
「……泥遊びとかして服汚しても大丈夫かな。ん……?」
 川の向こう側に、人影が見える。
 一瞬、お母さんかと思って身構えたけれど違う人だ。霧が濃くて、シルエットくらいしか分からないけれど彼女より背が高い、たぶん、男の人。こちら側に手を振って、何か叫んでいるみたいだけど、霧に阻まれて聞き取れない。けれどもなんだか、懐かしいような声だ。なんていうかこう……お兄ちゃん! って感じだ。俺は一人っ子のはずなんだけど。
 この体の内から来る感覚、とでも言えば良いのだろうか。あの声の主に今すぐにでもハグを強請りたい気持ちになるのは。私自身は、全く知らない声なのに。
 不気味に思った私は探索を取りやめて、そっと川辺から姿を消した。