ロジカルメトリ
抜けるような青空の広がるとある日の午後。昼食を摂った後、近場を散歩していた佐久間は大通りから少し外れたあたりで妙な人だかりを見つけた。さほど大きくはないが人目につく、そんな人だかりだった。
おそらくは野次馬だろう、後ろの方に居る人は首を伸ばして中心を覗こうとしている。何か、喚くような声が聞こえるので喧嘩かもしれない。あまりにも酷くなるようであれば、誰かが警察を呼んでしまうだろう。
そうなる前に自体を収束させなければ、と佐久間は正義感に駆られた。人だかりを裂くように中心部へと近づくと、二人の青年……いや、一方は少年と言っても差し支えないだろう。ともかく、二人の男性が対峙していた。
小柄な、未だ少年ともいえる年代の方が、それよりも大柄な青年に胸倉をつかまれている。少年の仕立ての良いシャツはくしゃりと歪み、真白なそれは所々土埃が目立った。幸い、流血沙汰にはなっていはいないが青年の激高した様子に、それも時間の問題だろうと検討をつけた。
「そこまでだ」
佐久間は少年の胸倉を掴んでいる手首を握った。ぐ、っと圧をかけると突然のことに怯んだらしい青年の力が緩み、少年は解放される。いきなりのことだったので、少年は後方に倒れ込み、尻もちをついた。
「んだよオッサン! 放せ、放せよ!!」
「これ以上続けると警察が来る。あまり、大事にしない方が良いんじゃないか」
青年も、少年のものとは趣が違うものの素材の良い服を着ている。そういったものを用意できるということはつまり、彼もまた金のある家の子供なのだろう。そういう家はえてして醜聞を嫌う。例え子供のしでかしたことでも、事業に差し障りが出るからだ。そうした時たいてい親は揉み消そうとするか縁切りをするかのどちらかだ。
佐久間の言葉に、多少なりとも冷静さを取り戻したのだろう。青年は捨て台詞を吐いて居なくなってしまった。
佐久間は周りの野次馬に、これ以上ここに居ても何もない、出来る限り他言無用、と釘を刺してから解散を促した。
「助かりましたぁ、佐久間さん」
ふと名前を呼ばれ振り向くと、先ほどの少年が服に着いた土を軽く払いながら立ち上がるところだった。先ほどは騒ぎのさなかだったこともあり気が付かなかったが、彼には見覚えがある。いつかの日、佐久間の好奇心を突いた彼――名字名前その人であった。
「彼に忠告をしたら、怒られてしまってぇ。少し、見誤ってしまいましたぁ」
そう言って、あの日と同じように彼は笑う。
あの日――個室を訪れた佐久間を待っていたのはただの少年ではなかった。自身の過去を言い当てられ、正直、あまり良い思いはしなかった。佐久間でさえそうだったのだから、訓練生の彼らは余計にそうだっただろう。消したはずの過去を取り出されたのだろうから。
これは予想だが、佐久間は彼らよりもショックは少なかったはずだ。己は別に、過去を捨てたわけではないし、スパイにもならない。
「何を、忠告したんだ」
「それはやめておいた方が良いかも、って言ったら、そうしたら、この考えのすばらしさが分からないのか! ってぇ。続けてたらその内、本当に警察が来ちゃうからぁ。うぅん……ひとの考えには手出ししない方が丸く収まりますよねぇやっぱり」
うんうん、と一人納得したように名字は頷いている。青年は危険思想を持っているのだろうか。しかしそれは本当に危険なのだろうかと、疑いを一瞬持ってしまった。そんな頭が、彼らと共に過ごすうちに出来上がっていた。
「良いんじゃないですかぁ、佐久間さんはそのままでも」
人を見透かすように名字は目を細める。釣り上げられた口の端が、なにかの動物のようにも見えた。佐久間はそれにどこか野生的なものを感じて、華奢でいかにも箱入りそうな彼が浮かべるには不似合いなような、そんな気がした。……迫力はいささか、足りないようだが。やはり彼は、ただの、一般の、少年に過ぎないのだ。
「今後は、ああいったことも増えそうですねぇ。誰かの考えに誰かが口を出して、否定して、その否定に誰かが同調して……それから、」
それ、が当たり前になって。
名字の口の中で秘めるように紡がれたそれに、佐久間は、それ以上はいけない、と思った。同時に、思ったことが彼の言葉そのままであることにも気が付いた。他者の思想を否定する。批判する。揶揄い、仕舞には取り囲んで排斥する。人と人とが相互に分かりあうための、話し合いよりも苛烈で下劣なもの。弾圧。抑制。苛斂。圧制。誰も口に出しはしないが、そういった風潮が近ごろ、漂っている。先ほどの青年は本当に危険思想の持主なのだろうか。訓練生たちは天皇に対して不敬であるし、佐久間自身そのことに対して良い感情は持ち合わせていないが、彼らは腹を切る必要はなかった。
「あんまり深く考え過ぎちゃうと、疲れてしまいますからぁ。何事も中庸が肝心ですよぅ」
思考の檻に囚われかけていて佐久間の意識を戻したのは、名字の声だった。自然と俯いていた顔を前へ上げると、先ほどとはまた少し違う、至極柔らかい笑みを浮かべた彼と目があった。
「もしかしたら佐久間さんには、これからも助けてもらうことがあるかもしれません」
「あまりそうはならないよう、心掛けてほしいものだな」
「そうですねぇ。佐久間さんはこれから忙しくなりそうですし、気をつけることにしますねぇ」
ぜひそうしてくれ、と佐久間が返すと、名字は再度礼を言った。そしてにこりと笑うと、またいずれお会いしましょう、と一言残し路地裏へと姿を消した。
濃密な時間を過ごしたような気がするが、太陽はまだ天高く輝いている。もう少し歩いていてもよさそうだ。そう判断した佐久間は、大通りへと足を向けた。