酒は飲んでも
喉元を過ぎればかぁっと熱さが過ぎり、胃の腑へ落ちれば頭がぼやりと浮き上がり気分も上がる。視界に涙が混じり、手足の感覚が薄くなる。酒気にあてられた鼻はそれでも肴の存在を感じていた。
例によって名字が酒類を多量に貰って来たので、今日は何回目かの酒宴だった。飲み口の良い酒に杉元もつい、杯を満たす手を止められなかった。山間の小屋の中。囲炉裏の火で肉や魚を炙りながらつまむ。小屋の中はこんなに暖かくて明るいのに、外では月明かりに照らされながらしんしんと雪が降り積もっていることだろう。
アシリパも白石も、しこたま酒が入ったためか横になって静かに寝息を立てている。そして珍しいことに、普段はあまり酒を飲まない名字もまた酒瓶を空けていた。彼は未だ起きていて、魚を炙ったものを食べている。上手く噛み切れないらしく、もごもごと口を動かし、なんとか飲み込もうとしていた。
「珍しいよな名字が酒飲むなんてさぁ〜」
「うん、あんまり嗜まないんらけどねぇ、いっぱい貰ったからぁ。三人だけじゃあ飲み切れないと思ってぇ」
名字はそう言って笑った。なんだろう、いつもの笑みと少し違う。文字にするなら、にぱーとか、そんな感じの、何かこう、花が舞ってる感じ。それに、酒に酔って呂律も若干回ってない。話をした瞬間に、噛み切れなかった魚が口の端から零れ落ちた。やけにゆっくりと落ちたような気がしたそれを、杉元は思わず拾い、名字に向かって差し出した。
不思議そうにきょとりと首を傾げた名字は、眠たげに垂れた瞳でぼんやりと眺めたかと思うと、ぱくり、と魚を銜えた。
その時杉元の脳裏に、母熊を亡くした子熊の姿が蘇った! 見つかったら食われる、そう思って服の下に隠したあの子熊! あやしながらおもちゃを与えた! あの子熊!!
「よ〜しよしよしよし!! いっぱい食べて大きくなれよ〜!!」
杉元は名字の頭を抱え込んで、思い切りわしゃわしゃと頭を撫でた。力の強い杉元に抱え込まれた名字は碌な抵抗もできずにされるがままだ。
小屋全体に漂っている酒気は杉元さえも酔わせていたのだ!
名字も名字で戸惑ってはいるもののまるきり嫌という訳ではないようで、どことなく嬉しそうに頬を緩ませている。
気を良くした杉元は名字に、もっと飲め、食え、とあれこれ差し出していく。あまりにも手あたり次第出していくので、流石に名字も腹に収まる分だけを選んで受け取っていく。そして、美味しいねぇ、とにこにこ食べていくものだから、杉元はなんだか餌付けをしているような、はたまた、子熊に汁物を与えた時のような、そんな気になっていた。
ひたすら眠りながらも時折寝言を漏らすアシリパと白石。あれもこれもと、名字に食事と酒を上機嫌で渡す杉元。与えられるがまま、普段はとらない量の食べ物と酒をひたすら良い笑顔で飲み食いし続ける名字。
そこにあるのは混沌。しかしそれこそ酒席というもの。
顔は赤らみ箍は外れ、ひたすら笑い、意味のない会話を呂律の回らない舌で繰り返す。
「佐一くん、流石にもうお腹いっぱいだよぉ」
「い〜や、いいんだ、お前はもっと太った方が良い! そしてでっかい男になるんだ!!」
「えぇ〜? なにそれぇ、母親みたぁい」
くすくす、と声を上げて愉快そうに笑う名字。笑ったことにより自然とあふれ出た涙もそのままに名字は杉元を見上げる。瞳の縁に溜まった涙が、きらりと煌めいていた。
ああ、子熊もそんな瞳をしていた。杉元はますます、このこどもをなんとしても育てなければなるまいと思った。まずは食事を与え、それから一人でも生きていけるよう戦う術を教えるのだ。戦闘力はお察しとはいえ、危険を察知する能力はそれなりにあるのだから、きっと大丈夫だ。
「お母ちゃんはお前が野生に帰っても生きていけるようにしてやるからな〜!」
杉元は喉を潤すために酒を呷り、再度抱きすくめるようにして頭を撫でる。するとどうだろう、今度は名字の方からも、おずおずと、拒絶されやしないかと少し怯えるように、それでも確実に、杉元を抱き返した。
「……おかあさま」
消え入りそうなほど小さく零れた言葉は、はたして杉元の耳に届いていただろうか。
大人の男が二人、息子よ母よと抱きすくめ合う光景は、実に難解で、奇抜だった。日常的にはあまり見かけることはない光景だ、ということだ。
そう。酔っている。酔っているのだ。二人とも。杉元は言わずもがな。名字も、表面上は少し顔が赤くなって呂律が怪しい、というだけの、酔っ払いとしては至極当たり前の特徴ではある。けれども、普段から酒を嗜まない名字にとって、今回は少しばかり酒気を取り込み過ぎたのだ。恐らく彼は、この場に居る誰よりも酒にあてられている。独自の理論に基づいて整然としている彼の思考が、杉元の発言により幼き日のことと現在が混ざってしまうほどとても深く、それでいて決して意識を飛ばしてしまわないが故の喜劇だった。どちらかが寝てしまうか、寝ている二人のどちらかが起きさえすれば幕の引かれる喜劇だ。
静かな雪はとうに空へと帰っている。囲炉裏の火は見る者が居なくなって随分と小さくなっている。それでもこの宴は終わりそうになかった。誰かが幕を引くまで、終わりはしないのだ。