手繰り寄せたラプソディー
風呂から上がった実井は未だ濡れたままの髪をタオルを緩くふき取った。後でドライヤーを使ってしっかりと乾かさなければ、寝癖がついてしまうだろう。三好ほど前髪にこだわりはないので、少々のハネならば無視してしまおうか。
ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらリビングに入ると、テーブルにて妹が宿題を広げていた。自室が与えられているにも関わらずこうしてリビングで宿題にいそしむのは、もし理解し難い部分があれば即座に兄である実井に聞いてしまえるようにという魂胆に違いない。とはいえ、実井の妹たる名前に、たかだか学校の宿題如きで答えに詰まるということはありえない。教師側の出題の仕方が悪くて理解に苦しむということならばありえるが。
実井は冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに注いだ。テレビの前のソファを陣取り、それを一口、二口と飲み込んでいく。
新しく生まれた先は、とても暖かいところだった。
両親も気の良い人達だった。毎日飢えることなく過ごせる。雨風凌げる屋根も必ずある。指先一つで多くの情報を見ることのできる端末は一人一人の手の中に。あの頃におきた大きな戦争はとうに終わり、スパイとして暗躍する必要も、なかった。
ただ単純につまらなかった。
生ぬるくて、このまま浸っていたら風邪をひいてしまいそうだった。
実井の記憶力であれば、このことを忘れてしまう、ということはないだろうがそれでも、語り合う相手が居なければそれは自然と下層へと沈んでしまう。だからだろうか、十も離れた妹に、夢物語のように話して聞かせたのは。
最初はただの気まぐれだったが、妹はいたく気に入った様子で何度も兄に話を強請った。良く似た顔が、大切な宝物を見るようにきらきらと輝いているのを見て、悪い気はしなかった。だから、強請られれば強請られるほど、たくさんの話をした。時には鍵開けや人の嘘を見抜く術なども教えた。
それらをするすると吸収していくその様に、教育を施す面白さを見出した実井は色々なことを教えた。使いもしない知識をただ貯め込んでしまうよりかは、誰かに伝授した方がよほど良い。もしかすると中佐も、そのような理由であの機関を設立したのかもしれない。……今となってはまるで意味のない考察だ。
実井が高校に上がり、そこで以前共に居た彼らと再開した時は少々驚いた。互いに顔を見合わせあっと驚いてから、一緒に過ごすようになった。
今までは、何でも一番だった。一番で当たり前だった。何故なら、実井は誰よりも優秀で、何事もそつなくこなすことができたからだ。否、自分にならばできなければならなかったからだ。
けれども再開してから、彼らと競い始めると簡単に一番を獲ることは難しくなった。彼らもまた、同様の能力を有していたからだ。自負心と自尊心が刺激され、一瞬の気の緩みが多大なる被害を生んだ。あの頃とは形を変えてはいたが、程よい高揚感と刺激を得ることができた。
小学校に上がったばかりの妹を彼らと引き合わせると、実に愉快な結果が得られた。スパイの話を実際にあったことなのだと思い込んでいた妹は、やはりあれは創作なのだと知った。その時ばかりは実井に対して風当りを強くしていたが、今ではすっかり良い笑い話だ。
それから、妹が中学生になった今でも彼らとの親交は続いている。成長期を経た妹は身長が伸び、兄である実井と同じ身長にまでなった。波多野は、小さいころからかわいがっていた妹に身長を越されたのが悔しいらしく、文句を言っていた。神永は大いに揶揄った。そして妹にも、ありえないくらいそっくりだのなんだのと揶揄いの言葉をかけた。
それが気に入らなかった妹は、ウェリントン型で少し大きめの黒ぶちの伊達眼鏡をかけるようになった。やぼったくて、けれども純朴そうに見えるそれを。恐らく、あの話を思い浮かべながら購入したのだろう。
そんな妹から、蒲生次郎の名前が出たのはある意味寝耳に水だった。
確かに、実井たちがこうして集っているというのならば、Dに敗北した彼らもまた、現代に生きていてもおかしくはない。
伊達眼鏡をかけた妹の姿は、白幡邸に潜入していた森島邦雄に見えなくもない。けれども妹は実井本人ではない。見間違えるなんて、やっぱり小物だ。
「兄さんのフリしてきちゃった。電話番号控えて来たけど、いる?」
「手駒にできるので、ぜひ」
「悪い顔してる」
妹の方も似たような笑みを浮かべ、11桁の番号を言った。それを頭の片隅に記憶する。
「電話がかかってきたら、どうしようかな」
「今度は僕が名前のフリをしますよ」
「なにそれ、面白そう」
うふふ、あはは、と笑いあう姿は非常に和やかだ。傍からなら、良く似た兄妹のかわいらしいワンシーンにしか見えないだろう。けれどもその中身は至極物騒なものだった。他人を陥れるだとか、他人を締め上げるだとか、そういった類いの。もし、すっかりツッコミキャラが確立した波多野がここにいたなら、大きなハリセンでも持ち出しているかもしれない。佐久間なら、胃に穴が開くことだろう。
妹に声さえかけなければ、そのまま平穏な一生を過ごせただろうに。
蒲生がどういった了見で妹に声をかけたのかは、今の所不明だ。成人男性よりも圧倒的に力の劣る”女子中学生である森島邦雄”に何か良からぬことを強いろうとでも思っていたのならばその時は、こちらとしても”相応の対応”をしなければならない。水面下で、ひっそりと、誰にも分からないように。