真綿にて手を掛ける
結城中佐が連れて来た、Kと名乗る少年に対面した時小田切は、生きた心地がしなかった。
故郷でのこと、軍でのこと、D機関に入る際全てを無に帰し捨てたはずのそれらをまざまざと見せつけられた。彼の口から放たれた言葉は小田切を容易く混乱へと貶めた。
結城中佐は、訓練生に関する情報はKには与えてはいないと断言していたがそれすらも訓練生を翻弄するための嘘かもしれない。けれども。小田切の持ち得る技術や知識を駆使しKから情報を掠め取った結果、Kは本当に事前情報を得ていなかったらしい。……Kが小田切や他の訓練生すらも欺くほど嘘を隠し通すのが上手い場合を除いてだが。
他の面々も、小田切のように己の過去と向き合わされたらしい。例の訓練が終わって以来、今のカバーを更に完璧に仕上げることに腐心している。
Kの素性を調べてみよう。
そう言いだしたのは、誰だっただろうか。
誰が誰でなくとも言いだされたであろう言葉に、皆頷いた。結城中佐は彼のことを教えなかったし、調べるなとも関わるなとも言わなかった。つまりは、そういうことだ。
手すきの者が各々捜索にあたった結果、一人の人物が浮上した。
――名字名前、十七歳。それなりに有力な家の、三男坊。一年程前、とある事件により家族も財産も全て失ったという。
長兄と次兄が争った際、両名とも死亡。両親とも姿を晦ました。多額の賠償を支払った故に金はなくなった。名字名前本人も、他の証人が全て居なくなったために持て余され扱いに困った警察が、ひとまずは殺人教唆の罪で捕らえようとした。
だがここで、待ったをかけた人物が居た。
名字の家に時折……数年に一度あるかないかくらいの頻度で出入りしていた好々爺。名字名前の父と交友があった元教職で、若者への教育の重要性を説いていた人物。教え子の中に様々な伝手があり、無実の罪で閉ざされようとしていた名字名前の未来を憂い、方々へと掛け合った。今現在名字名前は彼の斡旋によりとある邸宅で書生として過ごしている――。
これが、訓練生の集めた情報だ。
彼の情報については結城中佐が一枚噛んでいることは間違いないので、全てが真実正しいとは限らなかった。それでも、ひとまずは良しとする他なかった。
そしてもう一つ、名字名前に関して面白い情報が得られた。
なんでも、彼は他人の懐に潜り込むのが上手いらしく、初めて会った他人だとしても何かしらを彼にプレゼントすることが多いのだという。
彼の生活範囲は既に把握していたし、もし偶然的にその現場に居合わせでもしたならば彼と接触してみようか、と思っていた。思っていたよりも早くその機会は訪れることになったが。
久々の休日。小田切は本を買うため本屋へと足を向けていた。その道すがら、老婆と会話をしている名字名前を見かけたのだ。
あまりにも不意だったため、一瞬ぎょっとしたがすぐさま取り直し小田切は彼に声をかけ、カフェーに誘うことに成功した。
少し埃の匂いがする薄暗い個室と違って、電気に照らされたコーヒーの匂いや喧噪が渦巻くカフェーの中で見る彼は、あの時とはまた印象が違った。
にやにやと笑いながら薄気味の悪い話なんぞ一切せずに、紅茶を嗜みながら時折甘味に手を伸ばす様は、彼をただの少年に見せた。
武術とはまるで縁のなさそうな薄い体。幼い顔つき。どことなく舌足らずな話し方。実年齢である十七歳よりもいくらか年下に見える。訓練生の中の小柄な者たちは、年齢の分かり難いように敢えて子供らしく振る舞う場合もあるが彼の場合は天然だろう。
「何か聞きたいことがあるんじゃないんです?」
甘味をひとしきり食した名字名前が笑っている。
聞きたい事、どうやって過去を知り得たのか、経歴は本物なのか、結城中佐との関係は−−。
「……何故、Kと名乗っていた?」
小田切の頭の中をさまざまな疑問が駆け巡ったが、一番初めにまろび出たのはそれだった。
訓練生が片手間に調べても数々の情報が漏れ出ていた名字名前に、偽名やイニシャルをわざわざ名乗る必要はまるで感じられなかった。
名字名前はその質問が出たことに、少々面食らったようだ。彼の笑みがわずかに傾いだのを小田切は見逃さなかった。
「そうですねぇ……つい先日、夏目漱石を読みましてぇ」
「お嬢さんに会いでもしましたか」
「まさかぁ」
面白かっただけですよ、宮沢賢治ならジョバンニで、芥川龍之介ならカンダタでした、とこともなげに名字名前は笑って見せる。額面通り、大した意味はないのかもしれない。
名字名前は紅茶を飲み一息つく。そして通りがかったウェイトレスに甘味のおかわりを所望した。お金ならいくらかは持っているんですよ、とまた笑っている。
「俺たちのことを事前に調べでもしたのか」
「いいえぇ、先日お会いしたのが初めてですよぉ。……もし小田切さんも他人の本を読みとく事が出来るお人でしたら、ご理解頂き易いですかねぇ」
馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことは簡単だ。しかし、一点の曇りも無いと断ずることが出来ない場合はあらゆる事象を考慮しなければならない。
小田切は今回付き合ってくれたことに礼を言い、財布からきっちり二人分の料金を取り出した。これ以上会話を重ねても、彼は確信的なことは一切口にしないだろうということが予測できた。誤魔化しでもはぐらかしでもなく、ただ彼の頭の中は彼だけの法則性において積み上げられているのだということが伺えたためだった。
人ごみに紛れて掻き消えようとしている小田切に名字名前は、試験頑張ってくださいね、と声をかけた。変わらぬ笑みを浮かべながら。