全く普通の、真夜中のこと

 かりかりと、小動物が戸を齧る音がする。
 決して大きな音ではない。気にならない、どころか全く気にも留めないが故に聞こえない、という奴だって居るくらいの、些細なものだ。だが、俺にとっては何よりも恐怖を煽る音だった。
 お月さまだってうっかり眠ってしまいそうになるほどの真夜中。寝るのが遅いやつもすっかり寝入った頃。その小さな音を耳の奥で拾った俺は、すぐさま目を覚ました。
 ぱっと飛び起きて辺りを見渡すも、どこにも音を奏でる正体は居ない。それでも、かりかり、かりかり、どうにか室内に侵入してやろうという小動物の気配ばかりが濃厚に漂っている。
 あれが部屋に入ってきたら……。
 厭な想像に思わず身を竦め、その考えを振り払うように頭を振る。
 寝不足なのがいけないんだ、きっとそうだ、と、己を鼓舞したところで、もう幾日の眠れぬ夜を過ごしたかというところまで考えが及ぶと、やはり気が滅入る。
 もう何度お天道様とお月さまが入れ替わっただろう。しっかりと数えてはいなかったが、恐らく十は越したに違いない。
 奴がやってきたのはなんの変哲もない、全く普通の真夜中のことだった。
 初めは俺も気のせいだと思った。それほどまでに小さな物音だったのだ。俺の他に気に留めているものは居ないようだったし、ただ単に戸を齧るほど飢えている何者かが居たのだろう、と、それだけのことを思ったのだ。
 けれども、二日、三日、と続くと流石におかしい。
 もしやこれはただの小動物の仕業ではないな、と考えた俺は、奴らに気が付かれないようにそろりと聞き耳を立てた。
 ――ああ、嬉しや嬉し。もうぞろ境界は壊される。奴らはこの中に何があると言ったかな?
 ――なに、もう忘れたのか。相変わらずおつむの小さい奴よのう。何物にも代えられぬ馳走があるとのことじゃ。
 ――そうだそうだ。それを喰らえば我らは幾月生きながらえることができるであろ。
 ――どれほど美味なるものか、気になるのう。……それにしてもたった二匹ではなかなか骨の折れる作業じゃ。分け前は減るが、他のものを呼ぶべきじゃ。
 ――そうだなぁ。もたもたしている内に、どこかへ移動されては困るからな。姪御のところに曾孫ができたそうだ。姪御共々、呼び寄せよう。
 ――それは良い。儂も一族郎党に声をかけてみるか。
 声だけでも分かる。戸の向こうの奴らは気持ちの悪い喜色を含んだ面をしているに違いない。馳走を目の前に腹を空かせている奴らを想像すると俺は恐怖のあまり声も出なかった。まさかこんな、俺を喰らおうとしているだなんて思いもしなかった。
 無意識のうちに自身を抱きしめ、小さく蹲った。外に居る奴らに気が付かれてはならない。乱れる呼吸をどうにか整え、平静を努めた。
 それから、手を増やすというのは本当のことだったようで、夜毎に気配は増えていった。どうにも仲間から仲間へと情報を渡しているらしく、増える一方だ。その度にかりかりかりかりかりかりと、俺の恐怖心を刺激する音は大きくなっていった。
 いつ戸が破られるか……気が気じゃなかった。
 本当は逃げ出してしまいたかったが、そうもいかない。俺はここでの役割があって、それを勤めなければならない。一人で勝手に逃げ出すなんて、出来っこないのだ。
 だって俺は、自身の本体を抱えて逃げることすら叶わない、ただの、経の書かれた巻物なのだから。