今、ここからとびおりたら、空を飛ぶことができるだろうか?
そんな事を思いながら、ぐっ、と歩道橋の欄干に置いた手に力を込める。慣れない仕事でミスばかり、上司には強い口調で責め立てられ。庇ってくれる先輩はおらず、同僚には陰口を叩かれる。そんな生活が続いて、半年。半年間頑張って耐えてきたんだから、もう、良いよね。半ば自分に言い聞かせるように呟いて、欄干に乗り上げようとした瞬間、「危ない!」という男の人の声がして、同時に、身体を引っ張られる感覚。
「う、わっ」
突然の事で踏ん張ることもできず、そのまま後ろへと倒れ込んでしまった。それが結構な勢いだったらしく、私のことを受け止めきることができずに、身体を引っ張ってくれた人も一緒に倒れ込んだみたいだった。その証拠に私はどこも痛くはないし、そのかわり、倒れ込んだ瞬間に後ろからゴツンという鈍い音と、小さな呻き声が聞こえたから。
「………大丈夫、ですか?」
顔だけ後ろを向いて声を掛けると、弱々しい声で「だ、だいじょうぶです…」と返ってきた。音からして頭を打ったのかな、と思ったから、声が返ってきてほっと胸をなでおろす。自殺しようとして、他人さんを巻き込んでその人を死なせてしまいました、なんて事になったら笑えない。きっと死にきれないしだろうし、後悔の気持ちから、蘇ってゾンビになってしまうかもしれない。…なんて、ゾンビは言い過ぎか。いつまでものしかかっているのは申し訳ないな、と慌てて飛び退けば、いてて…と後頭部に手を当てながら、私を助けてくれた人が立ち上がった。スーツを着て、社員証と思われるものを首から提げた、男の人。声からして男の人だとは思っていたけど、この格好はサラリーマン、だろうか。スーツの男の人は会社で嫌というほど見たなあ。なんて頭の片隅でぼんやりと考える。
「本当は受け止めるつもりだったんですが…すみませんすみません!」
「あっ、いえ、こちらこそ、お怪我をさせてしまったみたいですみません!」
ぺこぺこと頭を下げながら、お互いにすみませんの言葉を交換しあう。周りからの視線が少しだけ痛いような気がしなくもないけど、歩道橋のど真ん中で謝りあっていたら、あいつら何してるんだ?と思いたくもなるか。うんうん。一人で納得しつつ、お礼を伝えたらこの人とはお別れしよう、それからもういちど死ぬんだ、とぐるぐる考えていると、周りからの視線に気づいたらしいお兄さん(とりあえずこう呼ぶことにする)が「場所を変えませんか、」と提案してきた。いえ、と断ろうとしたものの、お兄さんの瞳に浮かんだ不安や心配といったこちらを気遣う色に、思わずはい、と返してしまった。…何をやっているんだろうなあ、私。

近くの喫茶店に移動して、数分。オーダーはまだ?と言いたげな雰囲気の店員さんに負けてそれぞれコーヒーとミルクティを注文すると、気付かれないように小さくため息を吐いた。
「さっきはすみませんでした…本当に。あ、その、僕はこういう者です」
どうぞ、と差し出された名刺を受け取って、目を通す。名刺には観音坂独歩、と名前が書かれていた。お兄さんの名前は、カンノンザカさん、と言うのか。私も渡さなきゃ、とリュックを漁り始めたものの、名刺ケースが見つからない。そういえば、必要が無くなったから、と部屋に丸ごと置いてきた、覚えが。今朝の私のばーかばーか!
「名刺、丸ごと家に置いてきたみたいで。せっかく頂いたのに、返せなくてごめんなさい…」
「い、いえ、大丈夫です!気を遣わせてしまってすみません!」
歩道橋の上の時と同じように、頭を下げながらごめんなさいとすみませんを投げ合う。なんだこいつら、と言いたいのをぐっと堪えている様子の店員さんがおまたせしました、とコーヒーとミルクティをテーブルの上に並べて去っていくのを目線だけで見送ると、お兄さん、カンノンザカさんが「話を、聞かせてもらえませんか。」と零した。話というのは、たぶん、死のうとしていたこと、について。
「………初対面の人にこんな話をするのも、アレなんですけど。うんと、どこから話そうかな…」
んんん、と首を傾げては、ひとつひとつ話を吐き出していく。上司のこと、友人のこと、先輩のこと、家族のこと、同僚のこと。バラバラになったパズルのピースみたいなそれらが、積もり積もってひとつに併さっての行動だったこと。それから、この世界に未練なんてこれっぽっちも無いことも。聞いていて気持ちの良い話ではないだろうに、カンノンザカさんはうん、うん、と真剣に話を聞いてくれていた。………彼になら、見せても大丈夫、だろうか。
「これは、こんな所で見せるべきものじゃないんだろうけど、」
そろそろと袖をまくって、左腕が見えるようにする。何度も何度も自傷して傷跡だらけになった、隠しておくべきであろう、私の一部分。カンノンザカさんは、なにも言わない。…そうだよね、いきなりこんなものを見せられてしまったら、黙るしかないよね。見せてしまったことを後悔して、慌てて袖を元に戻した。カンノンザカさんの顔を見るのが怖くて思わず俯いてしまうと、ふわり、てのひらがやさしく私の頭を撫でた。
「へ、」
ぱっと顔を上げればカンノンザカさんはとても優しい顔をしていて、その表情を目にした途端、涙がぼろぼろと溢れてきてしまった。
「っ、ごめ、なさ…っ」
慌ててポケットからハンカチを取り出して、目元を拭う。否定するでも肯定するでもなく、ただ、いいこいいこ、と頭を撫でる優しいてのひらと表情に溢れてくる涙は、まるで止まることを知らないみたいだ。情けないほどに降り続く雨とは反対に、私の心はぽかぽかとあたたかくなっていく。カンノンザカさんは、春を告げる雲雀だったのかもしれないな、と思った。