文字どおり氷みたいにぴんと張りつめた、なにもかもを冷たく包み込むような空気を吸い込んだ。寒いのは大嫌いだけれど、今の季節の、陽が昇るより少し前のこの空気だけは大好きで、お気に入りだったりする。
「ぷーかぷーか、ぷーあぷあ〜」
そんな自作のうた(以前、姉にセンスが無いと言われた)を歌いながら、ひょこひょこと跳ねるように足を進めていく。目的地は、もう少し先にあるコンビニだ。ほかほかのあんまんで暖まりながら、冷えた空気が太陽によって少しずつ解けていくのを肌で感じるのが、最近の楽しみになっていた。友人には「そんな時間に出歩くのは危ない」だとか「いつか後ろから刺されたりしそう」という注意を受けたけど、楽しみがひとつ減ることにくらべたら、多少痛かったり怖い思いをするほうが、私はずっと良い。そのせいで仮に命を落とすことになったとしても、後悔することは無いのだろうと思う。
「………うん?」
なにかが暗がりで動いたような気がして、ふ、と視線を正面からそらせてみる。それにあわせて、もう一度、何かが動く気配。野良猫ちゃん、だろうか?
普段ならまあ良いか、気のせいかもしれない、で済ませるのに、今日は何故だかとても気になってしまって、進行方向から少し脱線してみることにした。危ないと思ったら全力で逃げよう。そう思いながら何かが動いた辺りへと近づいて行くと、そこに居たのは、どうやら人のようだった。だんだんと暗さに慣れてきた目が捉えた大きさからすると、たぶん、男の人。ぴくりとも動かない様子からは、意識があるのか無いのか、そもそも生きているのか死んでいるのか、そういったことがまるで分からない。
「っとと、のんびりしてたら陽が昇ってきちゃう!」
その前に、あんまんだけは確保しなければ。生死不明の男の人に関わるのは、無事にあんまんを手に入れてからでも遅くはないはずだ。きっと、たぶん。この寒さだから、手遅れになる可能性は充分にあるけれど。
「んん、ん………おにーさーん、大丈夫ですかー?」
できる限りそばに近付いて、とりあえず、声を掛けてみた。見つけてしまった以上、置いて捨てていくわけにはいかない。もしもーし、と続けてみるも、返事はない。それなら、と今度は肩を少し強めに叩いてみれば、目蓋が僅かに動いたような気が、した。良かった、手遅れではなさそう。
改めて、じっ、と姿を見てみれば、あちらこちらに怪我をしているようだった。出血は止まっていそうだけど、傷口を洗い流すくらいはした方が良いかもしれない。コンビニまで行ければお水は手に入るけれど、怪我の範囲がどのくらいか分からないから、この寒さの中で全身に冷水を浴びせることになんてなったら風邪を引くどころでは済まない気がする。そう考えると、家まで来てもらって、シャワーなりお風呂なりに行ってもらうのが良いんだろうけど…
「おにーさーん、おーきーてー!」
朝ですよー!なんて言いながら、まだ陽の昇らないこんな時間に肩を揺するのも変な話だけれど、まずは目を醒ましてもらわなければ何も先に進まない。本当なら、意識が無いのだろう相手にこんなことをしてはいけないんだろうけど………いや、寧ろまずいのでは?脳の病気の時は揺すっちゃいけないって、聞いたことがあったような無かったような………
「ど、どうにもならなかったら救急車呼ぼう、うん、そうしよう!」
半分くらい現実逃避をしながら五分程声を掛け続けていると、ゆっくりゆっくりと、目蓋が開かれた。まだ意識がはっきりとしないらしく、ぼんやりと揺れる朝焼け色を覗き込んでみれば、数回の瞬きの後にくあり、と大きなあくびがひとつ。………あれ?もしかしてこのお兄さん、意識が無かったわけじゃなくて、ただ寝てただけ!?
あの後、再び眠りにつこうとしたお兄さんの腕を引っ張って起こして、お兄さんが眠気で左右にふらふら揺れるたび一緒に転びそうになりながら、何とか家まで帰り着くことに成功した。帰ったら入るつもりでお湯を張っておいたため、ぽかぽかにあたたまったお風呂場へとお兄さんを押し込んで、浴槽で寝てしまわないように脱衣場から声を掛けながら、吹きこぼれないようお粥さんを見張りつつ、救急セットをテーブルの上にぶちまけた。そして一瞬の隙をついてうたた寝を開始したお兄さんに「寝ちゃだめだよ!」とお叱りを飛ばし、自分用の折りたたみのテーブルを引っ張り出してきてお粥さんとお椀を並べる。そうこうしている間に、同居人がサイズを思いきり間違えて買った長袖の服を着たお兄さんが、髪がずぶ濡れのまま脱衣場から出てきた。眠たげだった朝焼け色はぱっちりと開かれていて、それにほっとすると同時に慌ててバスタオルを被せる(というより、投げ付ける、に近かったかもしれない)と、お兄さんから、わぷっ!という声が上がった。
「びちゃんこのまんまじゃ、風邪引いちゃうでしょー。こっちこっち!」
ぽすぽすと救急セットがぶちまけられたテーブルの前を叩くと、私と向かい合う形でお兄さんはそこに腰を下ろした。弟が出来たらこんな感じなんだろうか、と思いながら、バスタオルでわしわし髪の毛の水気を拭き取っていく。私が拭きやすいようにしてくれているのか、きゅうっと身体を縮める姿にちょっとだけ、猫ちゃんみたいだなあと思った。
「んーと、とりあえず拭くのはこれくらいにして…次はドライヤー!」
ててーん!とドライヤーを掲げてスイッチを入れれば、おおー!とお兄さんもそれに乗って声を上げてくれた。ぶおーっと大きな音を立てて出てくる温風を当てて髪を乾かしていると、なあ、とお兄さんから声が掛かった。
「あれ、おまえが作ったのか?」
あれ、と指さされた方向にあるのは、お粥さんとお椀が並んだテーブル。あ、梅干しとかつお節を出し忘れてるや。
「そー!ちなみに、お鍋の中身はお粥さんでーす!…もっと美味しいものが作れたら、良かったんだけど……」
「でも、俺のために作ってくれたんだろ?」
心底嬉しそうな表情に乗ってそんな言葉が返ってきて、思わずぽかんとしてしまった。びっくりして何も言えないでいると、お兄さんはするりと私の手にあったドライヤーのスイッチを切って、お粥さんの前に移動した。そしてくるりと振り返ると私に手招きをして。
「早く食おーぜ!」
にかっ、と笑ってお椀を差し出してくるお兄さんに、なんだかお兄さんのペースに呑まれているなあ、なんて思ったけれど、そういえば誰かとご飯を食べるのは久しぶりだと気がついて、じんわりあたたかい気持ちになった。