私はどうしたいのか、なんて今まで一度も考えたことがなかった。少し考えてみても分からないのに、すでに私の答えを知っているかのような彼の口振りがどうにも気になった。やはり七海くんには私の心の中なんてお見通しなんだろうか。人の心が読めるなんて、呪術師よりも他に向いている仕事があるんじゃないかと思ってしまう。まぁ彼が高専から居なくなったらもちろん寂しいのだけれど。
色々と複雑な気持ちのまま、仕事部屋に戻って扉を開けた私はひゅっと息を呑んだ。
「おかえり、綾」
「五条さん……何してるんですか」
完全に油断していた私は危うく腰を抜かすところだった。五条さんは頻繁にこの部屋を訪ねてくるものの、私が不在の時に勝手に部屋に入ることは滅多にない。何か用があったのだろうと思ったが、いつものようにソファに寝転んでいる彼からはそのような気配は見受けられない。
「見て分からない?」
「サボりですね分かります」
「違う違う。任務前の精神統一」
「そうですか」
「綾こそどこでサボってたの?」
「七海くんの所です」
本当はサボりじゃないと否定したかったけれど、ただ雑談しに行っただけなのでそれも出来なかった。何の気なしにソファに近づくと、彼が起き上がって腰掛けたのでその隣に座る。この革張りのソファは学生との面談や気軽に談笑する場を設ける為に用意したものなのに、半分は五条さんの仮眠用ベッドと化してしまった。座り心地は気に入っているけれど、体の大きい五条さんが横になるには少し小さいだろうに。そんなことを考えていると、隣から不満げな声が聞こえた。
「へぇ浮気?」
「五条さんにとっての浮気の定義が知りたいですね」
「僕以外の男と二人きりになった時点で浮気だね」
「大変、今日もたくさん浮気しちゃいました」
何もしなくても浮気だなんて、どれだけ独占欲が強いのだろうと笑ってしまった。どうせいつもの冗談だと分かっているので適当にあしらうと、そんな私が気に入らないのか五条さんは端正な顔を歪めた。
彼の顔を見るのは今朝ぶりのこと、しかも場所は私のベッドの上だったなんて七海くんが信じないのも無理はない。私だって未だに信じられない気分だ。一緒に寝たのはもちろん、目元を隠していない彼の寝顔を見たのだって初めてだったのだから。七海くんに指摘され、この『婚約者』という関係を終わらせた方が良いのではと思う気持ちもあるが、逆に距離が縮まっている気がして参ってしまう。
婚約を解消して欲しい、そう言ったら五条さんはどんな反応をするんだろう。
「ダメだよ。綾は僕のなんだから」
──心臓が止まるかと思った。まさか心を読まれたのかと焦った次の瞬間、ぐるりと視界が回った。背中に衝撃を受けて思わず目を瞑ると、顔の横にダンッと何かを打ち付けるような音がして身を震わせる。何が起きたのか分からず、困惑しながら目を開けると、無表情で私を見下ろす碧眼があった。
「ご、五条さん……?」
やっと状況を理解した時にはもう手遅れだった。背中にはソファ、そして私の体に覆い被さる五条さんに挟まれ、逃げ場などなくなっていた。
いつの間に目隠しを取ったのだろう。悪ふざけの延長かと思いきや、どこか真剣な色を帯びた瞳に囚われ、ドクリと心臓が大きく脈打つ。
「少し自由にさせすぎたみたいだね」
その意味を考える暇も与えないまま、身を屈めた五条さんはグッと顔を近づけて私の動きを封じた。中性的な顔立ちに似合わない、獰猛な目つきに息を呑む。逃げるように顔を背ければ、露わになった首筋にさらりと彼の髪が落ち、柔らかい何かが触れた。それが彼の唇だと認識した時にはもう、ちゅう、と厭らしい音を立てて吸い上げられていた。
「やっ……何して……!」
吃驚して肩を押し返す。幸い術式を解いていた五条さんに触ることはできたが、見かけによらず逞しい体はピクリとも動かない。どうにか抵抗しようと動かした脚も、彼の長い脚に絡め取られて器用に封じられてしまう。
この時初めて、言いようのない恐怖と絶望を味わった。私が非力で彼が鍛えているだとか、私の体が小さくて彼の体が大きいだとか、そういうことじゃない。
私が女で五条さんが男だということを、嫌でも認識させられたのだ。
「あれ、もう降参?」
抵抗をやめた私を見た五条さんがクツクツと喉奥で笑う。彼にとっては私を意のままにすることなど赤子の手を捻るようなもの。敵うはずがない、そう分かっていても悔しい。
そもそも今日の五条さんはおかしい。いくら性格が悪いと言われる彼でも、こんな風に私に意地悪する人じゃないのに。悶々とする私の沈黙を肯定と捉えたのか「それなら好都合だけど」なんて言いながら私のブラウスに手をかける彼にぎょっとした。
「……ちょっ、いい加減にしてください!」
制止の声も効かず、一番上のボタンが一つ外される。幸い胸元まで見える心配はないが、普段は服の下に隠れがちな鎖骨を見つけた五条さんが嬉しそうに笑った。つぅ、と優しく撫でられてぞわりとした何かが込み上げる。今度は鎖骨目掛けて顔を近づけてくる彼を見て、慌てて手を前に出して防いだ。しかし掌に柔らかい感触と生温い吐息がまざまざと伝わって、かあっと顔が熱くなる。
どういうつもりか知らないけれど、これは流石にやりすぎだ。そう非難するように睨み付けたが、彼はただ笑みを深くするだけだった。
「そんな顔で睨んだって逆効果だけど」
「……そんな顔って?」
「もっと意地悪したくなる顔」
「さっ、最低……!!」
「綾は本当に僕を煽るのが上手いよねぇ。もしかしてわざと?」
「そんなわけないでしょ!」
本当にこの男は……!! 思わず心の中で罵倒した。硝子さんがクズ呼ばわりする理由が今なら良く分かる。しかし私を追い詰めようとする言動とは裏腹に、どこか愛おしそうな目で見つめてくるものだから本気で怒れない。彼がそれを分かってやっているのだとしたら相当タチが悪い。
「ほら僕って好きな子に意地悪しちゃうタイプだからさ」
「知りませんもう退いてくださいよ」
「そんなこと言って、綾だって本気で嫌がってないじゃん」
「本気で嫌がってますけど!?」
どうやら五条さんの目は六眼ではなく節穴だったらしい。これでも本気で抵抗したのに、それをいとも簡単に抑えつけて私の心をへし折ったのは誰だ。あたかも私が悪いかのような口振りに憤慨し、責任転嫁もいいところだと声を上げる前に「よく言うよ」といつも通り自信たっぷりの声がその場に響いた。
「僕のこと好きなくせに」
──呼吸が止まった。今、なんて……?
私が五条さんのことを好き? それじゃあ彼を完全に拒むことが出来ないのは、この10年間ですっかり絆されてしまったからなの? 昨夜“五条さんだから”と初めて異性を家に上げたのも、すでに酔いの覚めていた彼を泊めたのも、本当は彼が私の『特別』だから?
何より五条さんの言葉を、どうせいつもの戯れ言だと笑って流せないのはどうして……?
不敵に笑う彼から目が離せない。頭の中がパニックになって、何か言わなければと焦って口を開いた瞬間──ガラガラ、と扉が開く音がした。
「綾さーん。借りてたDVD返し、に……」
我に返り、一瞬で血の気が引いた。私からは何も見えないが、聞こえてきた声は虎杖くんのものだ。おそらく彼の目に映るのは、ソファに押し倒されている私と覆い被さる五条さん。この状況はどこからどう見ても……マズい。どうにか弁明して欲しい、そんな願いを込めて五条さんの顔を見上げたけれど、彼はただ無言で虎杖くんの方を見ているだけだった。
「しししし失礼しましたー!!!」
逃げるように部屋を出て行く虎杖くんに今すぐ土下座して謝りたい。慌てて起き上がろうとしたけれど、五条さんが退いてくれないせいで上手く体を動かせない。言いたい事は山ほどあるのに、感情がごちゃ混ぜになって言葉すら出てこない。
はっきりしているのは、この状況が最悪だということと、目の前の男がこの状況を楽しんでいるということ。
「悠仁に見られちゃったねぇ」
……この反応、さては確信犯だな。
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