12

 ぐぅ、と腹の虫が鳴ったことで空腹に気づき顔を上げれば、すでに時計の針は14時を回っていた。いけない、事務仕事に没頭していて昼食を摂るのを忘れていた。これから食事をするには中途半端な時間だし、部屋にあるお菓子で済ませてしまおうか。そう考えながら席を立ったところで、コンコン、と扉をノックする音が聞こえた。どうぞと返事をしたにも関わらず、訪れる静寂に首を傾げる。気のせいだったかと思いつつも足を運べば、ドアに手をかける前に自ずとそれは開いた。

「わっ、……虎杖くん!」
「ども、綾さん。入って良い?」
「もちろんよ。どうぞ」

 虎杖くんの手には、以前私が貸した洋画DVDが握られている。彼が映画好きだと聞いたので、仲良くなるきっかけになればと思って貸したものだった。

「借りてたDVD返しに来たんだけど、その、この前は……」
「あ、あぁ! あの時は本当にごめんなさい」
「いや謝んなくていーよ! ノックもせずに開けた俺も悪いし」

 いやどう考えてもアレは私……じゃなくて五条さんが悪い。あんな場面に遭遇した虎杖くんはただの被害者だ。自分の担任教師が職場で同僚女性を押し倒している姿なんて、誰だって見たくないだろう。

「けどマジでビビった! 五条先生と綾さんが付き合ってるなんて知らなかったから」
「えぇと、付き合ってる訳じゃないんだけど……」
「そうなの? じゃあ先生の片思いかー」

 どうやら虎杖くんは私と五条さんが婚約していることを知らないらしい。五条さんから聞いていないのかと少し不思議に思ったが、わざわざ言うことでもないかと納得して黙る。あんな場面を見られておいて恋人ではないと言ったのはマズかったかと五条さんの体裁を気にしたが、これ以上訂正するのも面倒なのでまぁいいかと思うことにした。

「虎杖くん。お詫びって訳でもないけど、お菓子食べていかない?」
「え、いいの?」
「うん是非。五条さんが毎回出張のお土産買ってくるから一人じゃ消費しきれないのよ」
「マジか先生。俺たちには滅多に買ってこないくせに、綾さんには必ず買ってくんだね」
「まぁ半分くらいはここへ来た時に自分で食べてるけどね。コーヒーでいい?」
「うん、ありがと!」

 元気の良い返事に笑顔を返して、コーヒータイムの準備を始めた。この部屋は来客が多いこともあり、コーヒーや紅茶の種類を豊富に揃えてある。加えてお菓子もいつも大量にあるため、こうしたお茶会を目当てに遊びに来てくれる学生も少なくない。

「綾さん映画めっちゃ良かったよ! アクションが爽快なのは勿論だけど、主人公の心理描写が細かくてラストの展開は胸熱だったな」
「でしょ? 私最初見た時泣いちゃったもん。あと所々で挟んでくるブラックジョークが好きでね」
「わかるわかる! クスッと笑えて飽きないんだよね」
「こういうの好きなら、他にもオススメあるよ。今度持ってくるね」
「マジ? やった!」

 特に虎杖くんの趣味に合いそうなものを選んだのではなく、ただ私の好きな作品を貸したのだが気に入ってもらえて良かった。これは以前五条さんとのデートでDVDショップに寄った際、彼にオススメされて買ったアクションものだ。体術が苦手な私に「こういうの観るのも参考になるかもよ」と言っていた彼は、大人になった今でも私の先生なのだとしみじみ思う。まぁ単に自分の趣味を共有して欲しかっただけかもしれないが。この作品がきっかけでアクション映画をよく観るようになった私は、間違いなく彼の影響を受けていた。
 返却されたDVDのパッケージを撫でながら「本当は映画館で観た方が迫力あって良いんだけどね」と笑う私を見て、虎杖くんは少し意外そうな顔をした。

「? どうかした?」
「あ、いや伏黒がさ。綾さんは生粋のお嬢様だって言ってたけど、あんまそんな感じしないなーって思って。あっもちろん良い意味で!」
「そうかな?」
「うんうん! めっちゃ話しやすいし!」
「そっか、ありがとう。虎杖くんもいつも気さくに話しかけてくれるし、こうして仲良くなれて嬉しい」

 虎杖くんは本当に明るくて良い子だ。恵くんが肩入れするのもよく分かる。しかし虎杖くんのように素直で真っ直ぐな子ほど、この世界では生きづらく心を痛めやすいものだ。彼は今まで呪いとは無縁の生活を送って来たので尚更だろう。そんな彼を気に掛けているのは五条さんも同じで、実は編入初日に「悠仁は色々と特殊だからね。注意して見てあげて」と頼まれていた。真希には気色悪いと言われたが、五条さんはあれでいて学生のことをよく見ているし大切に思っているのだ。
 そんな私たち大人の心配を杞憂だと笑うように、虎杖くんはどこまでも真っ直ぐだった。周りのサポートのお陰もあるのだろうけれど、一番は虎杖くん自身の強い正義感によるものと確信していた。両面宿儺の器という運命を背負いながらも立派な呪術師として日々成長する姿を見ていると、とても頼もしく感じる。

「え、これめっちゃ美味しい」

 しかしこうして談笑している時の彼は等身大の15歳の姿でどこかホッとする。そんなに急いで食べる必要なんてないのに、口いっぱいに頬張る姿はリスみたいで可愛い。そしてある事に気付いた私は思わず笑みをこぼした。

「ふふ、ちょっと虎杖くん」
「ん?」

 ちょいちょいと手招くと、素直にこちらに身を乗り出した彼に手を伸ばした。

「ついてる」
「……っ?! ちょっ、綾さん自分で取るって……!」

 口元についたクッキーのカスを指で取ってあげると、虎杖くんは顔を真っ赤にさせて飛び退いた。その反応を見て、しまったと思ったがもう遅い。昔から恵くんに同じような事をするといつも嫌がられていたのを思い出し、慌てて「ごめんね」と謝った。ついつい学生のことを子ども扱いしてしまうけれど、彼らの言い分としては“もう子どもじゃない”のだ。虎杖くんの場合そこまで気分を害したわけでは無さそうだが「あんま男にそういう事しない方がいいよ……」と言われて無遠慮に触れたことを反省した。

「そっか、虎杖くんも立派な男の子だもんね」
「え、何それ馬鹿にしてる?」

 虎杖くんだけでなく、私にとって学生は守るべき存在。つい甘やかしてしまう部分もあるが大目に見て欲しい。この部屋で穏やかに流れる時間が、学生たちに少しでも安らぎを与えられたらいい。そう思って私はこの仕事を続けている。
 不貞腐れたように「そりゃ綾さんから見たら俺はまだまだガキなんだろうけどさ」と言う虎杖くんは確かにその通りで、可愛いなぁと破顔したその時だった。

「また浮気? 悪い子だね綾は」

 突然耳元で聞こえた声に驚いて、びくりと大きく体を揺らした。声の主には心当たりがあるものの、全く気配を感じなかった。恐る恐る背後を振り返ると、案の定五条さんがソファの背もたれに手をつき身を屈めて立っていた。唖然とする私を見てニッコリ微笑んだが、何となくその笑顔に違和感を覚える。その違和感の正体を突き止めようとした刹那──。

「……えっ」

 クッキーを摘んでいた右手を掴まれて、パクリと指ごと食べられてしまった。私たちの正面に座っている虎杖くんも驚いて言葉を失っている。しかもそのままクッキーの残りカスを舐め取るように指にキスされて胸が騒つく。学生の前だというのに、一体どういうつもりなのこの人。内心気が気でなかったが、ここで大袈裟に反応したら彼の悪戯心に拍車をかけることになる。もう一個食べさせて、という要求は無視し、近くにあったウエットティッシュで指を拭いて平静を装った。

「吃驚させんなよ先生。つか何しに来たの?」
「何って、言わせるなよ」
「ただのサボりよ、虎杖くん」
「はぁー分かってないね二人とも」

 全く悪びれる様子のない五条さんは、ソファの前に回り込んで私の隣に座った。長い足を窮屈そうに折り畳んで踏ん反り返る姿は、彼の性格をよく表している。
 それにしても、学生が居る時に五条さんがこの部屋に入って来たのは初めてかもしれない。どういう風の吹き回しかとジッと視線を向けても、ヒラリと躱されてしまう。

「僕は人より脳を使うから、糖分不足は致命的なワケ」
「だからって、わざわざここで補給しなくても……」
「ここに来たら綾に会えるし一石二鳥でしょ」
「先生もしかして、いつもここでサボってんの?」
「サボりだなんて人聞き悪いなぁ。睡眠学習って言ってくれる?」
「この前は精神統一とか言ってませんでした?」
「結局サボりじゃん」

 綺麗に虎杖くんのツッコミが入ったところで、五条さんがテーブルの上を見渡した。私と虎杖くんのマグカップに入ったコーヒーを見るや否や、さも当然のように私へ向かってこう言った。

「僕もコーヒーがいいな」
「飲みたいならご自分でどうぞ」
「え、なんか怒ってる? 僕何かした?」
「よくそんな不思議そうな顔できますね……」

 心当たりがないとでも? なんて言ったところで、この男が反省するとは思えない。テコでも動く気配のない五条さんを横目で見て、仕方なく腰を上げて簡易キッチンへと向かった。つくづく私は彼に甘いなぁと他人事のように思いながら。
 戸棚から五条さん専用のマグカップと、この部屋に置いてあるコーヒーの中で一番甘みが強いものを取り出す。これは当然甘党の五条さんの為に置いているもので、少し癖が強いので他の人に出した事はない。その二つの『専用』を揃える私を見た彼が嬉しそうに笑う。

「綾が淹れてくれた方が美味しいんだよね」
「インスタントなんだから誰が淹れても一緒だと思いますけど」
「なに言ってんの。愛情という名のスパイスでより一層甘くなるの知らない?」
「そうですか。じゃあ砂糖は要りませんね」
「いやそれは違うじゃん。砂糖は愛情を引き立たせるためのスパイスじゃん?」
「また訳の分からないことを言って……」

 スパイスソムリエにでもなったのだろうかと呆れつつ、結局いつも通り角砂糖を4個溶かしたものを出してやった。満足そうに飲み始める五条さんを見て何だか気抜けしながら再び隣に腰掛ける。糖分を摂取したいのならわざわざコーヒーなんか飲まずに最初から甘い飲み物にすればいいのに。いつもそう思うのだが、本人に言うと必ず「だって綾と同じのが飲みたいから」と返されるので口には出さない。初めてその台詞を聞いた時に、ちょっと可愛いなと思ってしまったのは内緒だ。

「……あのさ、二人って本当は付き合ってるの?」

 しばらく私たちのやりとりを傍観していた虎杖くんが、学生らしく小さく挙手をして質問してきた。彼がそう思ったのは私と五条さんが使っているマグカップがペアという事に気付いたからか、それとも他の理由からなのかは分からないけれど。ちなみにこのカップは私ではなく五条さんが用意して置いて行ったものだが、デザインが気に入り愛用させてもらっている。
 虎杖くんの問いに何て答えるべきか悩んでいると、五条さんが先に口を開いたので委ねることにした。

「付き合ってるも何も、綾は僕の未来の奥さん」
「それって先生の妄想?」
「あれ悠仁ってそんな辛辣なこと言う子だっけ」
「だってどう見ても先生の愛が重いじゃん」
「そうは言っても事実だからね」

 とっくにプロポーズもしてるし、と虎杖くんの勘違いを助長するような発言をする五条さんに白い目を向けた。やはり彼に任せたのは間違いだった。結婚する気もないのに適当なことばかり言わないで欲しい。素直な虎杖くんのことだから、このままでは五条さんに騙されてしまうと思った私は見兼ねて口を開いた。

「家同士が決めた婚約者ってだけよ」

 そう補足すると、虎杖くんは信じられないというように目を丸くした。非術師の家系で育った彼には、政略結婚なんてものが身近に存在するとは思わなかったのだろう。彼は術師になって日が浅く、この業界の内情にもあまり詳しくないので驚くのも無理はない。

「だけってことないだろ。あーんな事やこーんな事までしてる仲なんだし」
「学生に誤解を招くような発言はやめてください」
「誤解って何? この前だって綾が『泊まって行って』って可愛く誘っ」
「五条さん!!」

 ……本当にこの男は口が上手い。可愛く誘ったつもりは無いが虚偽とも言い難いので、あの日のことを持ち出されるのは分が悪かった。このままでは何を言い出すか分からないと焦って五条さんの言葉を遮ったが、かえって逆効果だった気もする。これでは彼の言葉が事実だと言ってるようなものだ。満足顔の五条さんに「本当に可愛いね、綾は」なんて言いながら頬を撫でられて顔を赤くする。虎杖くんが気まずそうに視線を逸らす。……もう最悪消えたい。

「あー……俺もうお腹いっぱいだから帰るね綾さん」
「う、うん……ごめんね本当に……」
「よし帰った帰った」
「めっちゃ邪魔者扱いするじゃん……後から来たの先生なのに何この扱い……」

 シッシッ、と学生を手で追い払う仕草をする男が教師だなんて世も末だと思った。





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