13

 何故か毎回嫌な場面に遭遇する虎杖くんを見送り、すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。五条さんのせいで虎杖くんがこの部屋に寄り付かなくなったらどうしてくれるのか。そんな苦々しい気分で飲んだせいか、いつもより胃に悪そうな味がした。
 虎杖くんも帰ったことだし、テーブルの上を片付けて仕事に戻ろう。そう思って立ち上がろうとしたら、隣から目隠し越しでも分かるほどジトっとした視線を感じた。

「……何か怒ってます?」
「随分悠仁と仲良さげじゃん」
「嫉妬ですか?」
「他に何がある?」

 『嫉妬』なんて半分冗談で言ったつもりなのに、秒で肯定されて呆気にとられる。まぁそれもどこまで本気か分からないけれど、多少なりとも五条さんの機嫌を損ねたのは確かなようだった。しかし学生と親睦を深めるのは私の仕事の一環でもあるのに、それを咎めるのは勘弁して欲しい。

「異性と二人きりになるな、なんて無理だって分かってますよね? 大体虎杖くんは学生ですよ?」
「そんなの分かってるよ」
「だったら何が気に入らないんですか」

 少し語尾が強くなってしまうくらいには苛立っていた。虎杖くんの前で私の指にキスしたり頬を撫でたり、おそらくわざと誤解を生むような行為に及んだことは決して許せるものではない。それなのになぜ私が責められなくてはならないのか。そもそも私たちは嫉妬だの浮気だので騒ぐような関係ではないはずだ。
 しかし彼の口から紡がれたのは、全く予想だにしない言葉だった。

「触った」
「………え?」
「悠仁に、触っただろ。綾から」

 ……どういうこと? 私が虎杖くんの顔に触れていた場面を見られていた、ということは理解できたが……それが何だと言うか。まさかそんな些細なことが気に入らないとでも? 彼の言い分を全く理解できない私は、何か誤解をしていたのかもしれない。
 もしかしたら五条さんの私に対する執着は、私が思うよりずっと強かったのだろうか……? そう戸惑う私の前に、彼は決定的な証拠を突きつけるかのごとく事実を摘示した。

「僕には一切触れてこないくせに」
「! そ、れは……」

 吃驚した……まさか気付かれていたなんて。図星をつかれて言い淀む私を見た五条さんは、少しだけ傷付いたように見えた。しかしそれも一瞬のことで「言い訳があるなら聞くけど」と促されてすぐに、いつの間にか形成逆転していることを知り嫌な汗をかく。……本当に学習しないなぁ、私。この人に口で勝てるわけがないのに。

「……だって、五条さんには『無限』があるから……」
「だから何? 二人きりの時は術式解いてるの気付いてるでしょ」
「でも状況によってはそうとも限らないでしょうし。もし触れなかったらって思うと、その……怖くて」
「……怖い?」

 観念して正直に話すと、今度は五条さんが驚いていた。
 昔は普通に触れていたのに、それを躊躇うようになったのはいつからだろうか。初めは無意識だったと記憶しているが、今はその理由もはっきり自覚している。『怖い』だなんてくだらないと言われてしまえばそれまでだが、私にとっては無視できない理由だった。
 五条さんとそれなりに親密な関係だという自負はある。でもそれは、いつだって彼の方から手を差し伸べてくれた上で成り立っている関係だった。もしも自分から踏み込んで受け入れてもらえなかったら、きっと立ち直れない。それくらい私は彼に拒絶されることを恐れるようになっていた。
 けれど五条さんにとっては、私が彼を拒絶しているように感じられたのだろうか。私は自分の保身のために、ずっと彼を傷つけてきたのだろうか。

「嫌な気持ちにさせてたなら、ごめんなさい……」

 居た堪れなくなって俯くと、いつの間にか目隠しを取った五条さんが感情の読めない顔でこちらを覗き込んできた。戦闘中でもないのに彼が私の前で目隠しを取るのは、私の表情をよく見たいからだと以前言っていた。けれど最近はその頻度も増えてきて、単に自分の顔が良いのを利用して私を丸め込もうとしているんじゃないかという気さえしてくる。
 今もそう。私が謝ったのを良いことに、自分勝手な要求をしてくるのでは……と身構える私をじっと見つめて、真顔で爆弾を落とすのだ。

「キスしてくれたら許す」
「………はい?」

 ちょっと待ってよ。本当にとんでもない要求をしてきた五条さんは冗談のつもりなんだろうけれど、こちらは全く笑えない。一瞬にして焦り出す私を見て意地の悪い顔つきに変わった彼は、至極楽しそうに言葉を続けた。

「仕方ないな、とりあえずほっぺでいいよ」
「どんな譲歩ですか」
「ずっと僕に触りたかったんだろ?」
「そんなこと一言も言ってないですよね?」
「いいからいいから」

 何もよくないんですが。私の言葉を無視して迫ってくる五条さんは寧ろ自分からキスしそうな勢いだ。言ってる事とやってる事が違う、と心の中で非難しながら慌てて胸板を押し返す。難なく触れたことに安心しながらも、当然これで彼の気が済むはずが無いことは分かっていた。するりと腰に腕を回されて呆気なく逃げ場を奪われる。……いよいよマズい事になった。こうなった五条さんを大人しくさせるには、素直に言うことを聞くしかない。それは今までの経験則から嫌というほど分かっていたが、今回ばかりは流石にハードルが高すぎる。
 往生際が悪いと言われても、そもそも私のせいではない。どちらから触れたかなんて最早どうでも良いことではないか。そう訴えるように、半ば恨めしい気持ちで五条さんを見上げた。……が、そんな抵抗も彼の前では全く意味をなさなかった。

「なに? そんなに僕からキスして欲しい?」

 可愛くおねだりできたらそれでもいいけど、という台詞に言葉を失う。……そうだ、この人はそういう人だった。諦め半分、悔しさ半分でヤケになった私は「……一回だけですからね」と捨て台詞のように呟き、意を決して五条さんの腕に触れた。少し屈んで欲しくてクイッと弱い力で引っ張れば、小さく驚きながらも素直に顔を寄せる彼に羞恥が募る。
 どうしよう……どうしたらいい? 自分からキスなんてした事がないし、ましてや相手は件の五条さんだ。正解なんて分からない。何で私がキスしなきゃいけないのかも、何でこんなに自分が緊張しているのかも。何も分からないけれど、とにかく一刻も早くこの状況から逃れたい。その一心で勢いに任せて身を乗り出した。大丈夫、少し頬に触れるだけ。そう自分に言い聞かせて唇を寄せた時、ふと思った。

 “普段五条さんが術式を解いているのは私の前でだけ。
 ならば彼にキスできるのも私だけ”

 そんな馬鹿みたいな優越感に浸ったが最後、気付いた時には引き寄せられるように彼に口付けていた。
 けれどもそれはキスなんて甘いムードの漂うものじゃない。本当に軽く触れただけ。きっと彼が望むものには到底及ばなかっただろうけど、私にはこれが限界だった。
 視界いっぱいに広がっていた横顔から少し距離を取り、これでいいかと窺うように視線を送れば、今までにない至近距離で目が合う。慌てて逸らしたものの、改めてこの状況を顧みるとかなり大胆な事をした気になってさらに羞恥が込み上げる。何も言わない五条さんが気掛かりではあるが、とにかく急いで身を引こうとした刹那──後頭部に大きな手が回った。

 ──唇に柔らかい感触。
 それが何かを理解するのにそう時間はかからなかった。
 けれど次に襲ってきたのは『困惑』。どうしてキスなんか……その理解が追いつかないうちに、触れていた熱がそっと離れていく。しかしすぐに角度を変えてもう一度、形を確かめるように重なった。それが何度も繰り返され、合間に漏れる吐息が甘く溶け合う頃には、もう何も考えられなくなっていた。

「……ぁ、っ」

 熱に浮かされて小さな声が漏れると、薄く開いた口の隙間から彼の舌が入り込む。ぬるり、とした感触に思わず身震いし、手近にあった彼のシャツをギュッと握りしめた。もうダメ、限界なんてとっくに越えている。言いようのない不安に襲われ、目にはうっすらと涙が滲んだ。
 シャツを掴んだままの拳で胸を叩けば、ようやく私の異変に気付いた五条さんが唇を離した。目の前で惚ける私を見て、焦ったように眉尻を下げる。

「……ごめん。綾がいじらしいから、つい」

 我慢できなかった、という呆れた言い訳に対し、怒る気力は残されていなかった。
 ただ一つ気になったのは、滅多なことでは謝らない彼にしては珍しく、少しバツの悪そうな顔をしていたことだ。






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