「あれ、猪野くん? 珍しいねこんな所まで。どうしたの?」
「うん。ちょっとお願いがあるんだけど……今大丈夫?」
今は学生もいないし、立て込んでないから大丈夫。そう答えると今度は「五条サンは?」と聞かれて一瞬どきりとしてしまった。
五条さんにキスされたあの日以来、私は一方的に気まずくて彼を避けている。それに対して向こうも無理に絡んで来ようとはしないので、かれこれ一週間ほど会話らしい会話をしていなかった。とはいえ彼の予定はいつも一方的にメールで送られてくるため概ね把握している。確か今日は出張で北海道へ行っているはずだ。そう伝えると、猪野くんはようやく安心した様子で部屋に足を踏み入れた。
「聞いてよ。俺最近忙しくてさぁ、ついつい報告書を溜め込んじゃったんだよね」
「お疲れさま。まぁ誰しもそういう事はあるよね」
「そろそろやらなきゃな〜と思って手つけ始めたんだけど、なんせ一週間も前の事だから記憶が曖昧でさぁ。全然進まないのなんのって」
「うん……まぁそういう事もあるよね」
「それなのにいきなり『今日の夕方までに提出しろ』だなんて酷くない? そんなの無理に決まってるでしょ」
とりあえず猪野くんの言い分を聞き終えた私は、自業自得でしょと言いたくなる気持ちを堪えてため息をついた。薄々自覚していたけれど、どうやら私は五条さんよりもよっぽど学生に対して甘いらしい。猪野くんは高専を卒業してから数年経つが、彼の在学中も私は相談員をしていたので未だに学生のように見てしまう。
「呪霊の特徴くらい覚えてるでしょ。それ以外はなんかこう適当に……適当に書いておけばいいのよ」
「あはは、綾サンならそう言ってくれると思った!」
「私は先生じゃないからね。例外として適当な先生もいるけど」
「そんな綾サンに一生のお願い!!」
このとーり! と大袈裟に顔の前で両手を合わせる猪野くんを見て、何を言われるかなんてすぐに分かってしまった。
「少し手伝ってくれない? 五条サンの報告書はよく手伝ってるんでしょ?」
「……ちょっと待って。誰からそんなこと聞いたの?」
「七海サン」
全く七海くんってば余計な事を……。おそらく最初に猪野くんに助けを求められた七海くんが、面倒事を私に押し付けようとして入れ知恵したに違いない。今じゃたった二人きりの同期なのに何気に酷いなあの人。
「ダメ? やっぱり五条サンだけ特別? 婚約者の特権?」
「……もう、しょうがないなぁ」
「やったー!」
そんな言い方されたら、断れないじゃない。しかも誰かさんのように捨てられた子犬のような目で見られては不可抗力だ。猪野くんのこういう所は少し五条さんに似ているなと思う。口が達者で上手く乗せられてしまう所とか、それが分かっていてもどこか憎めない所とか。根本的な人間性は全く違うのに不思議だなぁと思いながら、客人用のティーカップを二つ取り出した。
「ほら、さっさと終わらせるよ」
「うっす!」
「くれぐれも他の人には言わないように」
「わかってるって!」
私が五条さんの報告書を手伝っている、というのは少々誤解されやすい表現かもしれない。いつのことだったかはもう思い出せないが、あまりにも多忙な五条さんが報告書を山のように溜め込むものだから、見兼ねた私が「手伝いましょうか」と声をかけたのがきっかけだった。そこにあったのは単に彼を労わる気持ちだけではない。常に人手不足な状況の中、一級術師でありながらあまり任務に就かない自分に負い目があったからだ。おそらくそれを見抜いた五条さんは、私の思いを汲む形でたまに報告書の手伝いを頼むようになった。だから別に五条さん自身が楽をしようとしている訳ではない、と彼の名誉の為に心の中で弁明しておく。
報告書を手伝うといっても、出来ることは限られている。祓った呪霊の特徴など一番重要な部分は私には分からないし、流石にそこを捏造する訳にはいかない。ただし残りの部分をいかにも有りそうなエピソードを羅列して埋めるくらいは出来る。意外とこれが面倒臭くて時間がかかるということは、私も術師なのでよく知っている。猪野くんも言っていた通り、後日書こうとすると明確に覚えている訳でもないし。どうせ本人も覚えていないのなら私が多少捏造しても問題ないだろう。……いけない、適当な五条さんに付き合っていたら私まで適当な性格になってきた気がする。学長にバレたら私の信用問題にも関わってくるので、猪野くんには後でしっかりと口止めしておこう。
「終わったー!!」
かれこれ一時間ほど経っただろうか。普段はこういう作業に集中力を欠きがちな猪野くんも、随分と真剣に取り組んでいたと思う。二人で力を合わせたお陰で思ったよりも早く全ての報告書が完成した。嬉しそうに羽を伸ばす姿を見てこちらも笑みをこぼす。
「お疲れさま。間に合ってよかったね」
「綾サンのお陰だって! ありがとう今度何か奢るから!」
「いいよそんなの。ただし学長には絶対内緒だからね?」
「そっちこそ、くれぐれも今日のこと五条サンには黙っといてね」
「いいけど、どうして?」
「部屋で二人きりだったなんてバレたら殺されるからに決まってるじゃん」
「……あのねぇ。あの人を何だと思ってるの?」
確かにこの前は虎杖くんに少し嫉妬していたのかもしれないけれど、“殺される”なんて流石に大袈裟すぎる。何をそんなに怯えているのか「綾サンはあの人の恐ろしさを知らないからそんな事が言えるんだよ……」と呟く彼に首を傾げる。
「過保護で嫉妬深い彼氏を持つと大変だねー」
「彼氏じゃないけどね」
「あー俺も彼女ほしー」
「彼女? 欲しいの?」
「え、何その反応。当たり前じゃん」
呪術師は基本的に独り身が多く、恋人さえ作らないのが一般的だ。単に忙しくてそんな暇がないとか、危険が伴う仕事だからという悲観的な理由もあるが、そもそも恋愛自体に興味がない人も多い。そんな中でやはり猪野くんは術師にしては珍しい根明タイプなのだと感心してしまった。
逆にいえば、御三家のような名門家は一族の存続のためだけに婚姻を結ぶ。相手の基準は家柄、術式など様々であるが、本人の意思が尊重されることはまずない。愛のない政略結婚、そのような運命を辿る者は私の他にも大勢いる。
ただし『五条悟の婚約者』である私は、呪術界における扱いが他とは少し異なる。五条さんは保守派の人間を筆頭に一部からは良く思われていないものの、仮に最強である彼を失えばその影響は計り知れず、呪術界にとっても大きな痛手となる。そして最強の子孫を残すという使命がある私にも、簡単に死なれては困るのだ。私が前線に立たず高専に匿われているような状態なのも、公にはされていないがそういう理由もあった。もちろん私が死んだら代わりが充てがわれるだけだが、名家の当主がコロコロと相手を変えるというのはあまり体裁が良くないのだろう。
本来ならば五条家に軟禁されていてもおかしくない立場だという自覚はある。しかしそうならずに済んでいるのは、ひとえに五条さんのお陰だった。
──『綾の自由は僕が守るよ』
それは10年前、婚約時に五条さんが私に言ってくれた言葉だ。そして彼は律儀にその約束を今も守ってくれている。そのことに関しては本当に感謝しかないけれど、いつまでこの均衡が保たれるかは正直わからない。
一体いつまで、私は彼のそばにいられるのだろう。
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