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 彼女が欲しい、と言える猪野くんが少し羨ましい。もし私が五条さんと婚約していなければ、一度くらい彼氏が欲しいと思うこともあったのだろうか。試しにそんな想像をしてみたけれど、一瞬で「無いな」と否定した。
 私が恋愛に関して悲観的にしかなれないのは、生まれた時から決まっていた自分の運命のせいなのだろうか。……ううん、違う。ずっとその“運命”のせいにしてきた“自分”のせいだ。猪野くんのように楽観的になれたなら、同じ運命でももう少し明るい未来を望めたはずだ。
 猪野くんは凄いなと再度感心していると、彼は少々見当違いなことを言い出した。

「恋人がいる人には分かんないだろうねー独り身の寂しさは」
「だから私と五条さんは婚約者であって、恋人じゃないってば」
「だからさぁそれが変なんだって」
「変? ……何が?」

 猪野くんの言いたいことが全く理解できず頭の中に疑問符を浮かべる。しかし彼は私以上に不思議そうな顔をして、何の気なしに言い放つのだった。

「俺からしたら恋人同士にしか見えないのに、なんで綾サンは頑なに『婚約者』だって言い張るの?」

 思いがけない言葉に息を呑む。なんで、なんて聞かれても理由なんてないと思っていた。だって正真正銘の婚約者なのだから。
 でも気付いてしまったのだ。五条さんは私のことを『婚約者』とは言わないことに。私の思い違いでなければ、今まで一度だって彼の口からその単語を聞いたことはない。この前虎杖くんに私との関係を聞かれた時だってそうだった。
 ──その瞬間、堪らなく怖くなった。10年間も一緒にいて今更そんなことに気付くなんて。もしかしたら私は、もっと大事なことにも気付けていないんじゃないかって。それは最近の五条さんを見ていて思うことでもある。私に執着する彼の姿が、ずっと私が思っていた『五条悟』像からどんどん離れていくようで、私の知らない五条さんがいるようで……怖い。そんなことを思ったのは初めてだった。
 しばらく黙ってしまった私を見て、猪野くんが焦ったように小さく手を合わせる。

「ごめんごめん。別に深い意味はないんだ。忘れて?」
「う、うん……」
「それより俺もそろそろ彼女作っちゃおうかなって思ってるんだけどー」

 年下に気を遣わせてしまうなんて情けない。自分でもそう思うのだが、動揺して気の利いた言葉なんて一つも出てこなかった。一方人の嫌がる詮索をやめてさり気なく自分の話にすり替えた猪野くんは、本当に空気の読める良い子だ。そんな彼に甘えて、私も余計な事を考えるのはやめて今は雑談を楽しむことにした。

「猪野くんはどこで女の人と知り合うの?」
「基本合コンだね。来週も一件入ってるし」
「合コンかぁ……」
「あっ、七海サンには内緒にしてね」
「今度は七海くん? でも合コンは別に悪い事じゃないでしょ?」
「そうだけど、七海サンに知られたら『そんな暇があるならさっさと報告書を仕上げたらどうですか』とか言われそうじゃん」
「いやそれは私だって言いたくなるよ」
「えぇ〜」

 人懐っこくて茶目っ気のある猪野くんとの会話はいつも楽しい。明るいし性格も良いし空気も読めるし、きっと女の子にモテるんだろうなと思った。しかしそう言っても「現実はそんなに甘くないんだよ」と何故か悲壮感たっぷりに返されてしまう。

「結局顔なんだよね、顔。いくら性格が良くても顔が良いヤツには敵わないっていうか」
「いくら性格が悪くても顔が良ければいいってこと? 五条さんみたいに?」
「まさにそう! しかも顔が良いことを自覚してるから余計にタチが悪いよあれは」
「あははっ」

 絶対に本人の前では言えないくせに、五条さんが居ないのを良いことに好き勝手言う猪野くんが面白くて声を上げて笑ってしまった。もちろん私だって人の事は言えない。鬼の居ぬ間になんとやら、である。北海道出張と書いてあったけれど何時に帰ってくるんだろう……と一瞬不安になってスマホを確認したが、しっかり夜の便で帰ってくる予定らしい。新幹線と違って飛行機の便を変更するのは容易ではないから、時間を早めて帰ってくることもないだろうと高を括った私はホッと息をつく。

「僻んだって仕方ないのはわかってるけどさぁ」
「でもわかるよ。私も街で逆ナンされてる五条さん見ると、イラっとするもん」

 そう言うと、てっきり共感してくれると思っていた猪野くんは目を丸くした。意外そうな顔でジッと私を見たかと思えば、唐突にとんでもないことを言い出す。

「それは嫉妬じゃなくて?」
「………へ?」

 嫉妬、と言われて今度は私が驚く番だった。そんな訳ないのに、次第にニヤけ顔に変わる猪野くんに少しムッとしてしまう。

「違うよ。世の中不平等だなって思うだけ」
「またまた〜。てか綾サンだってモテる側でしょ」
「何言ってるの、全然だよ」
「それ気付いてないだけだって」

 それか五条サンが裏で揉み消してるかだな、と呟く猪野くんに心の中で否定する。いくら五条さんでもそこまでする訳ないでしょう。

「あ、でもね。この前初めて男の人に連絡先をもらったの」
「マジで? とんだ命知らずがいたもんだな」

 どんな人? と前のめりで聞いてくる猪野くんは、私の浮いた話が珍しいからか完全に面白がっている。そういえばお茶が無くなったなと思いティーポットを持って席を立つと「そんなのいいから」と話の続きを急かされる。そうは言っても楽しいお喋りに紅茶はつきものだから少し待って欲しい。

「普通の人だよ。個人でやってる小さなカフェの店長さん」
「そりゃ一般人か。歳は? 格好良い?」
「私と同じくらいかなぁ。普通に格好良いと思うけど」
「へぇやるね〜。それで、連絡したの?」

 好奇心を隠しきれない目で尋ねてくる猪野くんがなんだか可愛い。クスリと笑みを零しながら彼のカップに紅茶を注ぐと、ほんのり甘い香りが広がった。確かこれは五条さんがイギリス出張のお土産として買ってきてくれた茶葉だったなと思い出す。

「流石にそれは良くないと思ってしなかったよ。けど穴場的なお店で気に入ってたのに、そんな事があったから行きづらくなっちゃって」
「あーまぁそうだよね」
「でもね、一週間くらい前かなぁ。偶然仕事帰りに彼と会ったの」
「え、どこで?」
「高専の前」
「それ絶対偶然じゃないじゃん」

 どういう訳か、さっきまであんなに楽しそうに聞いていた猪野くんの顔つきは心なしか不安そうなものに変わっている。私の身を案じているようだが「五条サンに言った方がいいんじゃない」と言われても何を言ったら良いのか見当もつかない私は構わず話を続けた。

「自分のことは気にしなくていいから、またお店に来て下さいって言われてね」
「待って。そもそも告白されてたってこと?」
「あぁ、うん。でもちゃんと断ったし」
「振られてそのメンタルの強さは異常だって。……え、まさか綾サン行ってないよね?」
「そこまで言われて行かないのも悪いかと思って、この前行ってみたんだけど……やっぱりダメだった?」
「ダメっていうか、大丈夫だったの? 変なことされてない?」

 大丈夫かと聞かれれば、大丈夫ではなかった。あの日のことを思い出し表情を曇らせた私を見て、猪野くんは焦ったような顔をした。しかし変なことって何だろう。何か勘違いしていそうな彼に私はただ事実だけを伝えることにした。

「それがね、お店が無くなってて。だからそれ以来会ってないよ」
「マジで消された!?」

 何やら物騒なことを叫ぶ猪野くんにいよいよ不審の目を向けた。さっきから所々会話が噛み合わない気がしていたけれど、最後のリアクションはどう考えてもおかしい。どういう事かと説明を求めても「消された……店もろとも……」と青い顔でブツブツ呟くだけで謎は深まるばかりだ。

「いや、綾サンが無事で良かったけどさ……マジでおっかねぇあの人……」
「無事に決まってるでしょ。もう、何なのさっきから」
「でも今の話聞いたら、過保護になる五条サンの気持ちも分かるわ」
「五条さん? どういう意味?」
「綾サンってやっぱお嬢様育ちだよね〜」
「うん。馬鹿にされてるってことはよーく分かったよ」
「いやいや! そこが綾サンの魅力だって」

 何が魅力よ、どうせ私が世間知らずだって馬鹿にしてるんでしょ。
 もう二度と猪野くんにこういう話はしないと固く誓って、少し温くなった紅茶を啜った。





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