その言葉で急に現実に引き戻されたような感覚に陥った。今はあまり五条さんの事を考えたくなかったのだが、そういう訳にもいかないらしい。猪野くんの問いかけに肯定を返したものの、私の表情が曇っている事に気付いた彼に「何か不満でも?」なんて言われてしまう。
不満なんてない、少し前の私だったらそう即答出来たのに。今は五条さんの気持ちが分からない、それがこれほどストレスになるなんて思ってもみなかった。
どうしてキスしたの? なんで謝ったの? 気になって、イライラして、夜もあまり眠れなくて。何より彼とまともに会話もできない日々が続くのは、これ以上耐えられそうになかった。
『答え』が欲しくて、藁にもすがる思いで猪野くんを見つめた。いや実際は綱くらいには頼りにしていた。6つも年下の子にそれはどうかと思ったが、それでも彼の力を借りればこの状況の打開策が見つかるかもしれない。そう信じるに足る根拠があった。
だってさっき彼が言ったから。“五条さんの気持ちが分かる”って。
「……猪野くんは、彼女ができたらキスとかエッチな事とかしたい訳でしょ?」
「ぶふっっ!!」
私の唐突な質問を耳にした猪野くんは飲んでいた紅茶を盛大に吹き出した。咄嗟に猪野くんよりもテーブル上の報告書の心配をしたが、ギリギリかからなかったようでホッとする。そういえば彼が報告書を手伝って欲しいと言ってここへやって来てから随分経つが、時間は大丈夫なのだろうか。苦しそうに咽せる彼の背中を摩りながら、頭の片隅でそんなことを思った。
「だ、大丈夫?」
「ごめん……まさか綾サンの口からそんな言葉が出るとは思わなくて……」
「答えたくなかったら答えなくてもいいけど……」
「いや、そういうんじゃないけどね! キスもエッチもしたいに決まってるけどね!」
「胸を張って大声で言うことじゃないけどね」
しかし猪野くんの主張は年頃の男性ならば真っ当なものだろう。恋愛経験がほぼ無い私でもそれくらいは分かる。でもそういうのは普通、好きな人とするものではないのか。
五条さんにキスされたから彼が私のことを好き、と考えるのは短絡的だしその仮説はあまり現実的ではない。もちろんこの場合の『好き』は恋愛的な意味で、だ。だって10年間も一緒にいて今更彼が私を好きになるタイミングなんてどこにあっただろうか。それにあの時彼は謝ったのだ。本当はキスするつもりなんて無かったと言わんばかりに。私にはよく分からないけれど、一時の気の迷いというやつだろう。男の人は好きな相手じゃなくてもキスくらいできると聞くし……とそこまで考えて心がズンと重くなる。
五条さんがそういう人だとは思わなかったな、なんて言うのは私だけなのだろうか。彼のことを遊び人だと思っている人もいるようだけど、私は周囲のイメージほど不誠実な人だとは思わない。いつか彼が本気で愛する女性が現れたら、それを理由に婚約解消されても仕方のないことだと思っていた。
けれど本当は、彼のことを何も分かっていないのは私の方だった……?
「普通そうだよね……」
「……あのー。俺からも一ついい?」
「ん? なに?」
猪野くんは好きじゃない女の子ともキスできる? とは失礼すぎて聞けないし、どうしようかと悩んでいると今度は猪野くんから私に質問があるらしい。好奇心に満ち溢れた目を向けてくる彼を前にして、ティーカップに指をかけた私は完全に油断していた。
「お二人の間ではそういう事、すでに済ませちゃってる感じですか?」
今度は私が動揺する番だった。ガチャン、と大きな音を立ててソーサーの上に置かれたカップの端から少しだけ中身が溢れた。“お二人”が誰を指すのかなんて聞くまでもないし、何故か丁寧な口調で尋ねてくる彼が余計に恨めしく感じられて思わずジト目を向けた。
「そんなの聞いてどうするの……」
「いやー普通に気になるっしょ! 実際どこまでいってるのかって、若い術師の間じゃ結構噂されてるし」
聞き捨てならない言葉に耳を疑った。……噂? 何それ、下世話もいいところだ。そう猛烈に非難したいが今この場には猪野くんしかいない。彼は社交的な性格で飲み会にもよく参加しているので、自然とそういった話も耳に入ってくるのだろう。彼自身が噂を流している訳ではないと信じたい。……いや、だからって面と向かって聞くのもどうかと思うが。ここで馬鹿正直に「キスはしたけどエッチはしてません」なんて言える訳がない。ますます酒の肴にされる。
「……ないよ。ないない。私たちはそういうんじゃないから」
「うーん全然説得力ないなー」
「そんなこと言われたって本当だもの」
「だってさ、あの五条サンが手出してないなんて俄かに信じられないっていうか」
「どの五条さんかは知らないけれど、事実は小説よりも奇なりって言うでしょ」
必死に平静を装いながらも、猪野くんの発言にどこか納得してしまった。こう言っては失礼かもしれないけれど、もし五条さんが私のことをそういう目で見ているのだとしたら、もっと早くに手を出すなり結婚するなりしていたはずだ。別に性的な事に関わらず、何事においても自分の欲に忠実な人だから。そんな当たり前のことを失念していたなんて、私は五条さんにキスされたことでよっぽど錯乱していたらしい。
でもあのキスに深い意味なんてない。五条さんが私を好きなんてやっぱり有り得ない。何もなかったことにして今まで通りの関係に戻ればいい、それだけの話だ。
これで一件落着のはずなのに、どうして私の心は晴れないんだろう……そう思った時だった。
「ハァー……やっぱスゲェなあの人」
次元が違うわ、と呟く猪野くんに首を傾げる。凄いとは一体何のことか。
「男はさぁ、キスもエッチも別に好きな相手じゃなくてもできたりするじゃん。……いや俺は違うよ? 俺は違うからね綾サン!!」
猪野くんの言い分は頭では理解しているつもりでも、やはり心が納得できずに冷やかな目を向けてしまった。途中でそれに気付いた猪野くんが慌てて弁解するがどこか説得力に欠ける。いや別に彼がそうだと疑っているわけではないのだが、それにしてはあまりにも必死だから。一応「大丈夫、わかってるよ」と言えば猪野くんはホッと息をつき、気を取り直したように口を開いた。
「でも自分よりも相手を優先するなんてそう簡単にできる事じゃない。ましてや“あの”五条サンがだよ?」
そう言われて、私の求める『答え』は他にあることに気付かされた。自分の出した答えにどうも納得がいかない理由にも、本当は薄々勘付いている。核心に迫るように語る猪野くん見ていると「もしかしたら私は何か大事なことを見落としているのでは……」と、そんな気がしてならないのだ。五条さんのことなら猪野くんよりも私の方がよく知っているはずなのに、彼は私の知らない五条さんを知っているかのような口振りなのだから。……いや、それは少し違うか。
やはり私は五条さんのことを何も分かっていなかったのだろう。素直にそう認めてしまえば、猪野くんの言葉はすんなりと私の心に届いた。早く『答え』を知りたくて、気付いた時には聞き返していた。
「五条さんが私を優先してるって言いたいの? 自分のことよりも?」
「そりゃそうでしょ」
即答されて思わずたじろぐ。もちろん彼が私を大切にしてくれていることは理解していた。でも猪野くんの言う通りだとすれば、五条さんは今までずっと私の為に何かを犠牲にしてきたのだろうか。そんなこと考えもしなかった。だって“あの”五条さんが、そこまで献身的な人だなんて誰も思わないだろう。
「どうして……」
どうして彼は私の為にそこまでしてくれるのか。
いつも自分のことばかりで、五条さんの気持ちなんて考えてこなかった自分が恥ずかしい。この10年間、誰よりもそばにいたはずなのに。彼の心の支えになりたいと願っていたはずなのに。いつだって貰っていたのは私ばかりで、こんなにも大切にしてくれる彼に私は何も返せていなかった。そのことにようやく気付いて自責の念に駆られる。
けれど猪野くんは、そんな私の懺悔など取るに足らないことだと言うように「それ本気で言ってる?」と笑う。
「五条サンがそこまで綾サンのことを大切にできるのは、本気で惚れた相手だからだと思うな」
あの人は見返りなんて求めてないでしょ、そう言われて泣きそうになった。
どうして五条さんは私のことを大切にしてくれるのか、ずっと疑問だった。結婚する気もない婚約者のことを気にかけて、自由を守ってくれる。そんなの彼にとって何のメリットもないはずなのに、“どうして”と。
──『好きだよ』
そんなはずはないと何度も否定した仮説が、猪野くんに諭されて急速に現実味を帯びていく。それと同時に、妙に納得している自分もいる。寧ろそう考えた方が自然だと思えるくらい、今まで五条さんが幾度となく私に言った『好き』が、何の抵抗もなくストンと胸底へと落ちていった。
「私……ずっと勘違いしてたのかな」
「まぁ俺はあの人とそこまで親しくないから憶測でしかないけど……」
そう言うわりには迷いの無い口振りだった。私がいくら考えても分からなかった『答え』をいとも簡単に導き出してしまった猪野くんの言葉は、今度は私の心に重くのしかかる。
「手出さないのも中々結婚しないのも、全部綾サンのためでしょ?」
その想いに酷く胸が締め付けられて、嬉しいのか悲しいのかもよく分からなかった。
私の心は未だ答えを出せないまま。
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