「お疲れサマンサー!」
……どうしてこの男がここにいるのだろう。部屋を間違えたかと思い扉の上をプレートを見上げたが、確かに『医務室』と表記されていた。よかった、やはり間違いではなかった……けれど何も安心できやしない。
仕事終わりに訪れた医務室にて、一週間以上避けていた五条さんと予期せず顔を合わせてしまい焦る。こんな所にいるなんてまさか怪我でもしたのかと思ったが、そういうわけでも無さそうだ。扉を開けたまま一向に部屋に入ってこない私を見て、五条さんと硝子さんが仲良く揃って首を傾げた。そこでようやく一歩を踏み出したがその足取りは重い。まだ彼とどんな風に接すれば良いのか私の中で答えが出ていないのに、突然窮地に立たされて思わず尻込みしてしまう。
「悪いな。もう少しで終わるから、そこで待っててくれないか」
「あ、全然! お構いなく」
硝子さんに言われて手近にあった椅子を引き寄せると、五条さんから少し離れた場所に置いて座った。そんな私を気に留めることのない彼は、私と硝子さんの会話に食いついてくる。
「何何? この後二人で飲みに行っちゃう感じ?」
「そうだ。お前はついてくるなよ」
「なんでよ。大体さぁ、僕だって綾と居酒屋でサシ飲みなんてしたことないのに、どうして硝子ができるわけ?」
「そういう事だろ察しろよ」
「はあ? 自惚れんなよ」
「お前がな」
漫才のようにテンポの良い二人の会話を聞きながら、黙って事の成り行きを見守る。ていうか、二人で居酒屋に行ったことがないのは五条さんがお酒飲めないからじゃない。かく言う私もお酒はそんなに強くないけれど。
「とにかく、こんな美女二人だけで行かせられないよ。心配だからついてってあ・げ・る」
「とかなんとか言ってるけど、この後もう一件任務入ってなかった?」
「そんなの僕の手にかかれば一瞬よ? 終わったら向かうから、店決めたら連絡してよ」
「わかったわかった。じゃあ会計の時に呼ぶから」
「それただの財布じゃんか」
硝子さんに軽くあしらわれた五条さんは、今度は標的を私に変えたようだ。椅子を移動させ物理的に距離を縮めると、先程から黙ったままの私を不思議そうに覗き込んできた。目隠し越しだがおそらく目が合ったことにドキッとする。
「ねぇ綾、」
「ダメです」
「……怒ってる?」
「怒ってません」
「じゃあキスしていい?」
「……良い訳ないでしょう」
軽々しく『キス』という単語を口にする五条さんに苛立ってしまった。彼のせいで私はあれほど真剣に悩まされたというのに、本当にデリカシーの欠片もない。あの時はしおらしく謝っていた気がするけれど、その記憶ももう朧げになりつつある。こうして普段通り振舞ってくるということは、あのキスさえもただの冗談だったのだろうか。……そう思うと胸が苦しくなるのは何故だろう。
──『五条サンがそこまで綾サンのことを大切にできるのは、本気で惚れた相手だからだと思うな』
猪野くんの言葉がどこまで真実なのかは分からない。もし全て真実だとしたら、私はどうしたいのかも。こんな状態で会いたくなんてなかったのに、五条さんはやはり自分勝手に私の心を掻き乱す。
「……綾?」
どうしたの、なんて優しい声を掛けないで欲しい。そんな気遣い他の人には見せないくせに。
やっぱり怒ってる? なんて不安げな顔をしないで欲しい。他人の機嫌を伺うような人じゃないくせに。
……あぁこの人は本当に私のことが好きなんだ。嫌でもそう気付いてしまうから。
途端に恥ずかしくなって彼の顔がまともに見れない。何も言えずに俯く私に戸惑いながら、五条さんが遠慮がちに手を伸ばす。壊れ物を扱うようにそっと頬に触れられて、それだけでビクッと体を強張らせてしまった。
「……五条。今日はもう帰れ」
「えーなんで」
「しつこい男は嫌われるぞ。もう手遅れかもしれないけど」
「は? そんな訳ないじゃん。綾は僕のこと大好きだし」
「いつも思うけど、何処から来るんだその自信」
私の異変に気付いたのか、助け舟を出してくれた硝子さんに心の中で感謝した。五条さんの興が削がれたことにホッとしながら二人の会話に耳を傾ける。
やはりこの二人は仲が良い。私と七海くんの関係と似ているようで違う。昔から最強で不遜な五条さんと対等な関係を築ける硝子さんは、私よりもよっぽど五条さんと相性が良いのだと思う。それでも自分たちの関係を『腐れ縁』と呼ぶ二人の間に友達以上の感情はないのだから、恋愛ってよく分からない。
二人にバレないように小さくため息をついた時、五条さんのスマホが鳴った。まだ任務が残っていると言っていたから、相手はおそらく伊地知くんだろう。
「あまり伊地知を困らせるなよ」
「はいはい、分かったよ。またね」
珍しく素直に従い椅子から立ち上がった五条さんは、私の頭をぽんぽんと撫でて通り過ぎていく。
「何があったか知らないけど、元気出しなよ」
……本当に誰のせいだと思っているのだろうか。
◇
「で、五条と何があった?」
相談がある、と言って硝子さんを飲みに誘ったのは私だった。しかしまだ何も言っていないのに、まるで私の心を見透かしたような発言に驚く。
「どうして五条さん絡みだって分かるんですか?」
「見りゃ分かる。さっき様子が変だったろ、二人とも」
そう言われて、やはり先程は私を気遣って五条さんを追い返そうとしてくれたのだと思い知る。硝子さんは表立って面倒見が良い性格とは言い難いけれど、内に秘めた心は温かく優しい。いつも私の味方をしてくれる彼女に一生ついて行こうと思った。
しかし“二人とも”とはどういう意味だろう。五条さんはいつも通りだったと思うけれど……。それを伝えると「本当にそう見えたんなら、綾も相当参ってるみたいだね」と返されてしまった。
「ウケるよな。何でも持ってる五条が、惚れた女一人手に入れるのにここまで手を焼くなんて」
まぁ私は見てて楽しいからいいんだけど、と笑う硝子さんには一体いつから分かっていたのだろうか。
五条さんが私を好き。それも恋愛的な意味で。──それに気付いてしまった私はもう、硝子さんの言葉を静かに受け止めるしかなかった。確かにあの五条さんの手を煩わせていると思うとまるで重罪を犯している気分になるが、私の言い分も聞いて欲しい。
「……私ずっと、五条さんも私と同じだと思ってたんです」
真剣なトーンで話し始めた私に気付くと、硝子さんはメニューを見るのをやめた。
「結婚する気はないけれど、一緒にいると居心地が良くて。だから婚約を解消して他の人と結婚させられるぐらいなら、今の関係を続けた方が楽だって」
「……一ついい? あれだけ好き好き言われてて、アイツに本気で好かれてるって思ったことないの?」
「それは……。婚約してからいつもあんな調子だから、五条さんの言う『好き』はそういう恋愛的な意味じゃないって、ずっと自分に言い聞かせてきたんです」
硝子さんは苦笑いで「自業自得だなアイツ」と言うけれど、悪いのは五条さんの心を見ようとしなかった私だ。五条さんは昔から自分の心を隠すのが上手い人だけど、そんな彼のことはちゃんと理解していたつもりだった。
それなのに私が五条さんの心を見ないようになってしまったのは、おそらく彼との婚約が原因だ。
五条さんが私に優しいのは周知の事。私だけ、そんな特別扱いに今まで気付いていなかった訳じゃない。それでも私が彼の『特別』なのは、ずっと『婚約者』だからだと思っていた。いや、そう“思いたかった”のだと今になって気付く。
「けど最近ようやく分かったんです。五条さんが私のことを大切にしてくれるのは、何も婚約者だからじゃないって」
「気付くの遅すぎない?」
「で、でも五条さんだって、今までそんな素振りを見せなかったのに、その……」
頬を赤らめて言い淀む私を見て硝子さんが首を傾げる。
「? 何かされた?」
「えっと……急に恋人みたいに接してくるっていうか……」
「具体的に」
「だからそのっ……ちゃんとキ、キスされて……!」
恥を忍んで打ち明けると、硝子さんは小さく目を見張った。ちゃんとって何だろう、と自分でもよく分からないけれどとにかく恥ずかしい。
「へぇ、意外。アイツのことだからキスぐらいとっくにしてると思ってた」
……いや、驚く所そこじゃないんですよ硝子さん。
硝子さんといい猪野くんといい、五条さんに対する評価はなかなか手厳しいものだ。そんな事実はないというのに、そう思われていたことが恥ずかしい。
やはり彼女から見ても五条さんは遊び人なのかと軽くショックを受けながら「意外と誠実な人ですよ」とフォローしたが、そういう事ではないらしい。まさか「そりゃそうだ。アイツは綾以外の女を女とも思ってないだろ」なんて返って来るとは思わなくて面食らう。流石に大袈裟な気もするけれど、何度も五条さんの気持ちを否定してきた私には、硝子さんの言葉を否定することは出来なかった。
これ以上罪を重ねないように、ちゃんと彼の心と向き合いたい。そして私自身の心とも。
「それにしても、五条さんの中で何か心境の変化でもあったんでしょうか……」
「んー、私からすれば五条はずっと変わらない気がするけどな」
「え……?」
「変わったのは、綾の方なんじゃない?」
そう言われて思い当たるのは、忙しない私の心模様。最近の私は五条さんに心を乱されてばかりだった。ドキドキしたり、イライラしたり、こんな風に頭を悩ませたり。そんなこと今までなかったのに。それは私が、彼を恋愛対象として見ているという証拠なのだろうか。
この感情を『恋』と呼ぶのには些か納得できないまま、硝子さん同様に人の心を見透かしたような発言をしていた友人のことを思い出す。
「……この前七海くんに聞かれたんです。五条さんとのことで、私はどうしたいのかって」
「相変わらず核心をついたような物言いだなアイツは」
「そうなんですよ。そんなこと考えたことなかったので、その時は何も返せなくて」
「で、考えてみた?」
どうしたいのか、という問いへの答えはおそらく二択だ。五条さんと結婚したいのか、したくないのか。より端的に言えば、私は五条さんのことが好きなのか、そうじゃないのか。
「私……きっと五条さんと出会わなければ、こんな風に悩むことすらできなかったんだろうと思います」
五条さんと出会って私の人生が変わった。もっと自由に、自分の好きなように生きたいと願うようになった。
そしてそんな願いを叶えてくれたのも、他ならぬ五条さんだった。10年間今の関係を続けてこられたのも、いつだって彼の優しさに守られていたから。それなのに私はずっとそれに甘えて、大切なものを見ようとしなかった。
五条さんは『最強』だけど、痛みを感じないわけじゃない。失って取り戻せないものもある。大切なものも、守りたかったものも、何度もその手から零れ落ちて行った。
それでも彼は、自らを『最強』と称す。その鎧の下にどれだけの苦悩を抱えているかなんて、誰も知らない。放っておくと上手に隠されてしまう彼の心は、“あの時”確かに悲鳴を上げていた。
自ら背負い、人から課された『最強』のせいで五条さんが傷付く姿はもう見たくない。誰よりも強くて繊細な心を、私だけは大切に守りたい。
今までずっと気付かないフリをしていただけで、本当はとっくに答えは出ていた。
「でも今は、自分の結婚相手は自分で選びたい……そう思っています」
至ってシンプルで当たり前の答え。しかしそれを聞いた硝子さんは綺麗に笑った。
「そうか。それを聞いて安心したよ」
「硝子さん……。いつも話を聞いてくれて本当にありがとうございます」
「大したことじゃない。可愛い後輩……いや、大切な友人の為だからな」
「えへへ、硝子さん大好きです」
「おー五条に聞かせてやりたいね」
録音するからもう一回言って、という冗談なのかよく分からない頼みは何とか断って、乾杯してから全く口をつけていなかったビールを喉に流し込んだ。
硝子さんも七海くんも、とっくに私の心を知りながらずっと見守ってくれていたのだろうか。私に大事なことを気付かせてくれた猪野くんにももちろん感謝しているけれど、やはり二人は私にとって特別な存在だ。私のことを私以上に理解してくれる人がいる、それがどれほど幸せなことかを思い知った。
ようやく答えを出せた私の心は、驚くほど軽かった。
“あの時”五条さんが放った言葉は今も私の心を締め付けて離さないけれど、それは『呪い』なんかじゃない。
──『ずっとそばにいて』
独りにさせたくない、なんて彼の為じゃない。全部自分の為。
ただ私が、あの人のそばにいたいだけ。
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