私にとって五条さんとの訓練はいつも命懸けだった。もちろん彼は手加減してくれていたのだろうけれど、硝子さんが居なければ私はとっくに死んでいたと思う。常人が思う「そこまでやるか?」というラインを平気で超えてくる男が五条悟だということを、その時身を以て知ったのだ。
それでも出会ってすぐに何の見返りもなく私の指導を引き受けてくれた彼は、やはり昔から優しい人だった。そんなことを思い出した途端に恋しくなって、ここにいるはずのない彼の姿を探してしまう。
医務室で言葉を交わしたきり、しばらく五条さんと会えない日々が続いていた。けれどそれは特段珍しいことではない。特級である彼は本来私の部屋でサボる暇なんてないくらい忙しい人なのだ。それでも「会いたい」と思ってしまう私は身勝手にも程がある。この前は会いたくない、なんて思っていたのに。相変わらず忙しない自分の心に呆れながらも、五条さんがいない日常に寂しさを感じつつあった。
「あーいたいた! 綾さん!」
「……野薔薇ちゃん?」
グラウンドの外を歩いていると、ふいに名前を呼ばれた。どうやら私を探していたらしい野薔薇ちゃんは小走りでこちらへやって来ると、どこか困惑の色を浮かべながら口を開いた。
「ねぇ五条先生大丈夫? あれだけタフな男が休むなんて只事じゃないと思うんだけど」
「……休み? 任務じゃないの?」
「なんか伊地知さんに聞いたら、元々その予定だったけど急な体調不良で休んでるんだって。綾さんになら連絡してるかなと思ったんだけど……」
「た、体調不良……?」
五条さんとは無縁のように思える単語が聞こえて耳を疑った。私の記憶にある限り、彼はこの十数年間風邪一つ引いたことがない。無下限呪術を常時発動しているお陰で菌やウイルスも寄せ付けないのだろうと思っていた。そんな彼は『最強』も相まって常に健康体というイメージが周囲にも定着しており、医師である硝子さんにまで「馬鹿は風邪引かないって本当だったんだな」と言われていた。体調不良と風邪は別物かもしれないが、初めて聞く五条さんの『欠勤』という事実に驚きを隠せなかった。
「それは確かに只事じゃないかも……」
「でしょ? 甘ったれて綾さんに『看病しに来て』とか言いそうなのに連絡も無いなんて絶対に変よ」
「それは確かに言いそうではあるけど……」
「何その煮え切らない態度。喧嘩でもした?」
喧嘩なんてしていない。けれどこの前私が素っ気ない態度をとったので、五条さんは気を悪くしたのかもしれない。連絡をくれないのも長い間会えていないのも、もしかしたら彼に避けられているのでは……という最悪の事態まで想定せざるを得なかった。
どうしよう、やっぱり五条さんのことがよく分からない。堪らなく不安になって、無意識のうちに手を伸ばしていた。
「……前から気になってたけど、綾さんっていつもそのネックレス着けてるわよね」
手を伸ばした先にあったのは、私の胸元で光る石。
それを目敏く見つけた野薔薇ちゃんは、流石年頃の女の子と言ったところだろうか。
「もしかして先生から貰ったもの?」
「……うん。私が一級に昇級した時のお祝いにね」
「へぇ、先生にしてはセンス良いじゃん」
「まぁね。でも御守りだから毎日つけろって煩くて」
「束縛男の典型かよ」
若干引き気味の野薔薇ちゃんに苦笑いを返しながら、件のネックレスに視線を落とす。
改めて見ても本当に不思議な宝石だ。御守りだと言われていたせいか、この石からは時々不思議な力を感じていた。上手く言えないけれど、離れていても五条さんを近くに感じるような、いつも守られているような安心感があったのだ。
──『僕が守るよってこと』
なかなかどうして、その言葉も出任せではない気がした。ならば私だって、せめて彼が弱っている時くらい力になりたい。五条さんは私に見返りなんて求めてないと猪野くんは言っていたけれど、それでも何かを返したいと思ってしまった。
「……心配だから、様子見に行ってみようかな」
「それがいいと思う。先生によろしくね!」
「わかった。ありがとね、野薔薇ちゃん」
少し急いでいるのか、野薔薇ちゃんは用件が済むとすぐに踵を返した。忙しいのにわざわざこんな所まで探しに来させて申し訳なかったな……と思いながら後ろ姿を見送っていると、突然クルッと振り返った。制服のプリーツスカートを綺麗に翻しながら。
「先生の一方通行かと思ってたけど、案外そんな事ないのね」
揶揄うわけでもなく、ニカッと屈託なく笑う野薔薇ちゃんにこちらも笑顔を返した。
◇
お見舞いに行くといっても突撃訪問する訳にもいかないので、事前にメールで連絡を入れておいた。仕事終わりに寄ってもいいかと尋ねるとすぐに返信があったが、見舞いに対して『嬉しすぎて死にそう』という本末転倒すぎる内容に笑ってしまった。その反応を見る限り、五条さんに避けられていた訳ではないと分かり溜飲を下げる。しかし次に『何か欲しいものありますか?』と送ったら『綾が欲しい』と返ってきたのには何だか笑えなかった。もちろん彼は私の心境の変化なんて知らないので、今まで通りの冗談のつもりなんだろうけれど。少し前なら軽く流せていた冗談も、今は私の罪悪感を煽るからやめて欲しい。
五条さんの家の所在はもちろん知っていた。けれど部屋にお邪魔するのはこれが初めてだ。少しばかり緊張しながらインターフォンを押すと、これまた初めて見るラフな部屋着姿の五条さんが姿を現した。
「わ、本当に綾だ」
「お、お邪魔します……」
サングラスをかけていないから、寝起きだろうか。少し声も掠れている気がする。五条さんのように初めて入る他人の家を我が物顔で歩くことはできなくて、案内されたリビングのソファに恐る恐る座った。だってこの部屋無駄に広いんだもの。隣に腰を下ろした五条さんに「何か飲む?」と聞かれたけれど丁重にお断りした。あくまで見舞いに来たのだから病人にもてなされる訳にはいかない。それに必要なものは全てここへ来る途中のコンビニで調達してきた。
「体調不良って聞いてたんですけど、思ったより元気そうで安心しました」
「だって昨日まで働き詰めで全然綾に会えないんだもん。いい加減疲れたから伊地知に頼んで休みにしてもらったの」
「……頼んだ? 脅した、の間違いじゃなくて?」
「人聞き悪いなぁ。アイツがそう言ったの?」
「言ってないけど表情が全てを物語ってました」
伊地知くんの青ざめた顔を思い出しながら言うと、五条さんは「綾はいつも伊地知の味方するよね」と不満をありありと示した。拗ねたような言い方が可愛くてつい笑みをこぼすと「笑い事じゃないんだけど」と今度は少し真面目なトーンで言われてしまう。
五条さんは疲労が溜まっただけだと言うけれど、熱はないのだろうか。気になって手を伸ばし、前髪に隠された額に触れると五条さんは一瞬身を固くした。私が躊躇いもなく触れたことに驚いたのだろう。
「あ、でも……少し熱もありそうですね」
「マジで? 測ってないから分かんなかった」
「連絡くれれば、もっと早く来たのに」
「だって硝子が、押してダメなら引いてみろって言うからさぁ」
「こんな時に何の話ですか」
でも効果あったじゃん、そう言って笑った五条さんに頭を撫でられる。よく分からないけれど今日はえらく機嫌が良さそうだ。熱といっても微熱だろうし、野薔薇ちゃんも言っていた通りタフな男なので今日一日休めば問題なく回復するだろう。
「それにしても、五条さんでも体調崩すことあるんだってみんな吃驚してましたよ」
「全く僕を何だと思ってるんだろうねぇ」
「もう若くないんだから、あまり無理しないでくださいね」
「ふふ、やっぱり優しいね綾は」
もう若くないと言ったことは気にしていないのか、それも気にならないくらい嬉しいのか。相変わらず上機嫌に私のおでこにキスを落とす五条さんは、間違いなく私を好いてくれているのだろう。それなのに……。
「大丈夫だよ。僕最強だから」
いつもこうだ。私が心配すると五条さんは決まってそう言う。
体調が悪い時くらい素直になればいいのに……。自ら『最強』を豪語し強がる姿は何だか痛々しくて、そっと頬に手を伸ばした。普段五条さんがよく私にする行為なのに、自分がされる側になると彼は驚いた顔をする。
「私の前では強がらないで、って言ったのに……」
少し拗ねたように言うと、宝石のような瞳が零れ落ちそうなほど見開かれた。
“あの時”──夏油先輩が離反して少し経った頃、初めて五条さんの『弱さ』を見た。孤独に怯える彼の姿はとても『最強』には見えなくて、でもそれがとても人間らしくて、私を安心させてくれたのを今でもよく覚えている。
「……それってまだ有効だったの?」
予想外の反応が返ってきて戸惑う。確かにあれはまだ私たちが婚約する前だから、10年以上も前の出来事だけれど……まさか五条さんの中ではもう無かったことにされていたのだろうか。自分は『ずっとそばにいて』と言ったくせに、私の『そばにいたい』と願う気持ちは受け取ってもらえないのだろうか。そう思うと心の奥がモヤモヤした。
そんな私の心は露知らず、五条さんはすぐに相好を崩すと、頬に触れたままだった私の手に大きな手を重ねた。至極嬉しそうな表情を見ていると次第にモヤモヤも晴れたが「じゃあいっぱい我が儘言って良いってことだよね?」とニンマリする彼を見て失言だったと気付く。少々身の危険を感じたが、一応お見舞いに来たことを思い出した私は「今日だけですよ」と念押して甘やかしてあげることにした。ところが私の心配を他所に、彼の口から出た我が儘は案外可愛らしいものだった。
「じゃあ病人らしくお粥が食べたいな」
「あぁそれなら……そう言われると思ってコンビニで買ってきましたよ」
「えぇ綾の手作りがいい〜」
「私が料理苦手なこと知ってるでしょう」
「綾の手で死ねるなら本望」
「失礼な。そこまで酷くないですよ」
育った環境のせいにはしたくないが、料理に不慣れな私は当然お粥なんて作ったことがない。しかし体調不良にはお粥だろうという安直な考えに至り、抜かり無くレトルト食品を購入してきたのだった。他にもゼリーや栄養ドリンクなど色々買って来たので、食べられる時に食べてもらおう。食欲があって良かったと安堵しながら「じゃあお粥温めますね」と言ってキッチンへ向かおうとすると、それを制するように後ろから抱きすくめられてしまう。
「嘘。何もしなくていいから、ここに居て」
「え? でも……せっかく来たのに意味無いじゃないですか」
「あるよ。僕の部屋に綾がいるってだけで興奮する」
「…………」
どういう訳か、冗談がどんどんエスカレートしていて困る。ちゃらんぽらんな五条さんの冗談にはすっかり慣れたはずなのに、何も返せなかったのはこれが初めてだ。戸惑う私を察したのか「あ、間違えた。“元気が出る”」と言い直した彼は私の耳元に口を寄せた。
「……ねぇ、どうして来てくれたの?」
──一瞬で空気が変わった気がした。
五条さんの少し熱い吐息が耳を掠める。なんだか色っぽい声に聞こえてしまって、彼の熱が伝染したかのように身体が火照った。
「僕のこと、そんなに心配だった?」
「……当たり前じゃないですか」
「どうして? 婚約者だから?」
『婚約者』──初めて五条さんの口から聞いたその単語に、心臓が抉られるような痛みが走った。同時に、それは散々自分が言い訳にしてきた単語だと思い知らされる。
私はこの10年間、この人は『婚約者』だからと常に予防線を張っていたんだ。結婚する気がないのだから、好きになってはいけない。そう必死に言い聞かせてブレーキをかけていた。
どうして、と繰り返す五条さんの真意は分からないけれど、今ならはっきりと言える。
違う。“婚約者だから”じゃない。
「──綾」
会えない日々を寂しく思うのも。頼まれてもいないのにお見舞いに来たのも。
名前を呼ばれるだけでこんなにも胸を焦がすのも。こんなにもそばにいたいと願うのも。
全部、“五条さんだから”──。
「……、き……だから……」
小さな呟きを拾った五条さんがピクリと反応したのが背中越しに伝わった。僅かに力の緩んだ腕の中で、ゆっくりと身動いで正面を向く。
──想いが溢れる、とはこういう事なのか。
人を好きになるってもっと幸せな事だと思っていたのに。
こんなにも切なくて、涙が溢れるなんて知らなかった。
「五条さんが……好きです」
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