五条さんの隣が居心地良くて、今の関係に甘んじていたことも。自分でも気付かないうちに、他の女の子に嫉妬していたことも。拒絶されるのを恐れながらも、本当は触れたくて仕方がないことも。頬にキスしたあの時、確かに自分の意思があったことも。──全部『好き』という感情だけで説明がついてしまう。
「……今の、本当?」
驚いたというよりは、確かめるような聞き方だった。
五条さんが簡単には信じられないのも無理はない。私だってずっと彼の好意に気付いていなかったのだから。けれどこれが一時の感情だとは思えないし、彼にもそう思って欲しくなかった。一体いつから……なんて自分でも分からない。それでも気付いた時にはとっくに、五条さんのことを好きになっていた。
どうやってこの気持ちを伝えれば良いのだろう。今まで異性を好きになったことのない私には正しい告白の仕方なんて分からなくて、逸る気持ちを抑えながらただ頷くことしかできなかった。
その時五条さんの顔が泣きそうに歪んで見えたのは、私の目に溜まった涙のせいなのか。慌てて目元を擦ろうとした私の腕を掴んで止めた彼は、私の顔に手を添えると親指でそっと涙を拭った。その優しい動作にかえって涙が止まらなくなり困っていると、五条さんは私の肩口に顔を埋めて深い息を吐き出した。
「──ようやく聞けた」
その呟きを拾った直後、全身が温かいものに包まれた。
「っ、……五条、さん……?」
彼は何も言わない。ただ不規則なリズムで繰り返される呼吸の音だけが私の鼓膜を揺らした。
暫くの間何かを噛み締めるように私を抱いた彼は、やがてゆっくりと顔を上げて私を見つめた。涙でぐちゃぐちゃになった顔を見られたくなくて俯こうとした私の頭を、しっかり両手で固定して愛おしそうに目を細める。それだけで私の心拍数は格段に上がり、呼吸もままならなくなってしまう。
……あぁ私はどうしようもないくらいこの人が好きなんだ。そう思い知った瞬間のことだった。
「一生綾だけを愛してる。だから僕のお嫁さんになって」
──吃驚して涙なんて引っ込んだ。
それは決して彼の口から出ることのないと思っていた台詞だったから。『好き』の延長線上に結婚があるなんて思ってもみなかった私は、ただ呆然と五条さんを見つめた。
「何その信じられないって顔」
「だっ……て五条さん、政略結婚はしないって言ってたじゃないですか。だから私と結婚する気はないんだって、ずっとそう思ってて……」
「あぁそんなこと気にしてたの? ていうか誤解だよ」
誤解……? そんなはずない。私たちが婚約した10年前、彼は私に「政略結婚なんてしないよ」と確かに言ったのだ。何より今日までずっと結婚せずに来たのだから、それが答えだと信じて疑わなかった。それが突然私の誤解だなんて言われても、当然理解が追いつくはずもない。
「綾には家に決められたから仕方ないって気持ちで結婚して欲しくなかったんだよ。だからちゃんと僕を好きになってくれるまで待ってたってわけ」
まさか10年もかかるとは思ってなかったけど、という台詞に息を呑む。
「10年って……最初から?」
「そうだよ。覚えてない? 10年前、綾が他の男と結婚するって話になったから僕が裏で手を回して奪ったんじゃん」
「…………え?」
一瞬思考が停止した。次々と私の知らない事実が語られて、もう私の頭はキャパオーバーだった。
しかし五条さんの話が本当なら辻褄が合う。確かに彼と婚約する前、私は別の男性と結婚する予定だった。そしてその話を五条さんにした数日後、突然私の結婚相手が変わっていて驚いた記憶も残っている。あの時は政略結婚なんてそんなものかと納得して深く考えもしなかったけれど、まさか彼の根回しだったなんて……。
この婚約が初めから五条さん自身が望んだものだったなんて思ってもみなかった。だって彼は今まで一度もそんなこと言わなかったから。10年越しの真実を知り愕然とする私に、彼は少しバツの悪そうな顔をしてこう言った。
「とにかく、綾じゃなきゃそもそも婚約なんてしてないってこと。わかった?」
政略結婚はしない、五条さんがそう言っていた意味がようやく分かった。
自由な彼のことだから、結婚なんてものに縛られるのが嫌なのだと思っていたけれど逆だった。彼が私に結婚を強制しなかったのは、ずっと自分の運命に抗って自由を求めていた私の為だった。10年間もずっと私のことを好きでいてくれて、10年間もずっと待っていてくれた。私が自分の意志で五条さんとの結婚を望むまで。
そんなこと普通じゃ考えられないのに、それでも彼の言葉が真実だと信じられる根拠ならもう十分過ぎるほど揃っている。その一途な想いがどうしようもなく嬉しくて、どれだけ自分が大切にされているのかを思い知って、目からまた涙が溢れた。
「……それで、プロポーズの返事は?」
私の頬を伝った涙を拭うようにキスしながら五条さんが囁く。まぁYESしか聞く気は無いんだけど、という台詞に思わず笑みがこぼれた。
「はい。お嫁さんにしてください」
ずっと言うつもりの無かった台詞は、すんなりと私の口から出た。あれほど『結婚』に対して後ろ向きだった自分とは思えないくらいに。
愛してるから結婚しようだなんて、そんな夢みたいな話が本当にあるのかと未だに信じられない気持ちもある。けれど幾度となく私の願いを叶えてくれた五条さんの言葉はやはり魔法のようで、この幸せが永遠に続くのではないかと、そんな前向きな気持ちにさせてくれる。
さっきまで余裕そうに見えたのに、私の返事を聞いて安心したように表情を緩ませる彼が愛おしい。幸せを噛み締めながら笑うと、今度は唇に優しいキスが降ってきた。
「任せて。僕が綾を世界一幸せな花嫁にしてあげる」
「ふふ、世界一?」
「宇宙一にしとく?」
気障な台詞が恥ずかしいのにそれ以上に嬉しくて、堪らなくなって目の前の胸板に顔を埋めた。すぐにギュッと抱きしめてくれる五条さんの愛の深さを身を以て知り、底知れぬ安心感に包まれる。
“この人がいれば何があっても大丈夫”──そう思ったのは決して彼が『最強』だからじゃない。
「……ありがとう。五条さん」
「何が?」
「今までのこと、全部」
「……別に全部が全部、綾の為だったわけじゃないよ」
「え?」
「まぁでも……ずっと我慢してきたんだから、そろそろ我が儘言ってもいいよね」
我が儘、そういえば先程もそんな事を言っていたけれど、結局何も叶えてあげていなかった。可愛らしい我が儘ならいくらでも……そう思って頷いた私は考えが甘かったらしい。
「今すぐ抱きたい」
「………いきなり節操なくなりましたね」
「だってもう限界」
「だ、だめですよ今日は。病人なんだから」
「綾の顔見たら治ったよ。寧ろ元気になった、ほら」
ほら、じゃない。五条さんに釣られて視線を落とした私は、ズボンの中心で不自然に隆起し存在を主張している“それ”から慌てて目を逸らした。
「もう、ふざけないで……」
「それはこっちの台詞。ここでお預けなんてどんな拷問?」
「だってお見舞いに来たんですよ私」
「でも『綾が欲しい』って言ったよね僕」
覚悟して来たんじゃないの、そう言われて固まる。
それはここへ来る前のメールでのやり取りを指していることは明白だったが……あんなのただの冗談だと思うじゃない。六眼を以てしても未来予知なんて出来ないはずだから、あくまで私を丸め込む為の口実だとは思うけれど。何も言い返せないうちに、五条さんの腕が私の膝裏に回った。
「ま、待って……」
「無理だよ。言ったでしょ、もう10年も待ってんのこっちは」
もう一秒だって待てない。そう言いながら私を横抱きにした五条さんは、リビングを出て寝室へ向かった。これから起こる事を予期して心臓の鼓動が速くなる。プロポーズしてくれた時はうんと紳士的だったので完全に油断していた。スイッチが入ったようにいつもの調子に戻った五条さんは、大きなベッドの上にそっと私を降ろすと早急に組み敷いた。
そんなつもりはなかったのに、なんて建前に過ぎなかったみたいだ。私の髪を梳くように頭を撫でる手つきは優しくて、もっと触れて欲しいと思ってしまう。私を見つめる眼差しはどこまでも甘いのに、時折見せる切なげな表情が私の胸を焦がす。おでこに、こめかみに、頬に……至る所にキスを降らせる彼にキュンと胸が疼いて仕方ない。
しかしその形の良い唇がそろりと首に降りてきたところで、真希の呆れ顔を思い出した私は慌てて身を捩った。
「だ、めっ、見える所は……」
「見えない所なら良いってこと?」
言うが早いか、片手で器用にブラウスのボタンを外される。露わになった胸元に五条さんの顔が迫ると、熱く湿ったものが触れた。ちくりとした痛みが走るほど強く吸われて、思わず小さな声が漏れた。口元に弧を描いた彼に「肌が白いからよく映えるね」なんて言われて見下ろしてみると、確かに綺麗に赤い花が咲いているようだ。味を占めた五条さんはまたすぐに次の場所へと舌を這わせ、吸っては離れてを繰り返す。何度か痛みが走った頃、体はすっかり火照ってしまっていた。
「ご、じょうさん……」
「悟」
「……え」
「いいかげん名前で呼んでよ」
もうすぐ綾も五条さんになるんだし、と言われると擽ったい気分になる。今更この呼び名を変えることに抵抗はあるものの、そうも言っていられなくなったらしい。
かねてから彼に下の名前で呼んで欲しいと言われていたが、いつか婚約を解消するのだと思うとどうしても呼べなかった。隠しておかなければならないこの想いが、伝わってしまうような気がして。現に今「綾」と優しく名前を呼ぶ声が、心の底から私を求めているように。
「悟さん…………すき」
名前を呼ぶだけのつもりだったのに、溢れる想いと一緒になって言葉が口を突いて出た。もう隠す必要のなくなったそれはとめどなく溢れ、本能のまま目の前の男を求めるように手を伸ばす。そんな私に小さく目を見張った彼が、ゴクリと喉を鳴らすのが分かった。
「堪んないね」
………そんな顔、初めて見た。
恍惚とした表情を浮かべながらも、宝石のような眼にはギラついた欲情を孕んでいるように見える。そこに理性の色は無く、危険な香りがするのに何故だか目を逸らせない。
「僕も好きだよ。大好き。愛してるでも足りないくらい」
そんな台詞に全身を震わせた直後、呼吸と共に唇を奪われる。今まで与えられたキスなんてじゃれ合いに過ぎなかったと言わんばかりの、煽情的なキス。唇を割って入り込んだ舌が縦横無尽に動き回り強く舌を吸われる。その激しさを経験したことのない私は上手く呼吸が出来なくて、苦しくて切なくて堪らなくなる。どういう原理なのか、空気を取り込もうともがけばもがくほど深くまで受け入れてしまい、ますます自分を追い込んでいく。
「っぁ……ん、……んんっ」
「っ、は……綾」
色気を含んだ吐息に、切なげに私の名前を呼ぶ声に、耳だけでなく脳内まで犯されて次第に思考が形を無くしていく。縋るように首に腕を回すと、それが合図だったかのように欲をこらえきれない手が私の体を撫でた。中途半端に乱されたままだった服を乱雑にスカートから引っ張り出すと、待ち侘びたように中に侵入してくる。しかし直に肌に与えられた熱に驚いて思わずその手を掴むと、案外簡単に動きが止まった。
「……嫌?」
不機嫌になるかと思いきや、気遣うように優しい視線を投げられてたじろぐ。ここで嫌だと言っても本当にやめてくれるのかは怪しいが、私の緊張を解すのに多少の効果はあったと思う。
「そ、そうじゃないですけど、心の準備が……」
「煽っといてよく言うよ」
初めての事にいっぱいいっぱいの私を見たせいか、いつものように余裕を取り戻した悟さんが可笑しそうに笑った。優しく頭を撫でられるとそれだけでキュンとしてしまう。
「安心して。今日は手加減してあげるから」
「……悟さんの『手加減』はあまり信用できません」
「あ、そういうこと言う? わかったよ」
最初から言っとけばいいんでしょ、と開き直った彼は今まで通りの冗談を言うかのような口振りだ。
しかし悟さんの言葉はもう冗談には聞こえなくて、いとも簡単に私の心を奪ってしまう。
「綾の全部、僕に頂戴」
そう耳元で囁かれて、全身に甘い痺れが走った。
“心だけじゃなく、全てを奪って欲しい”──自分の思考とは思えないほど大胆なことを本気で思った私は、大人しく彼の首に腕を回して全てを委ねた。
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