下心

 綾と出会ってから、いくつか季節が巡った。
 彼女との昼休みの訓練は変わらず続いていたし、最近は街へ一緒に出かけるようにもなっていた。生粋のお嬢様育ちの綾は俺も驚くほど俗世間を知らない。何事にも新鮮な反応を示す彼女を見るのが面白くて、ゲーセンやバッティングセンターなど色んな場所へ連れて行った。ハンバーガーにかぶりつく俺を見てカルチャーショックを受ける綾の顔は今でも忘れられない。あれは傑作だった。
 出会った頃と比べて綾は明るい性格になったと思う。俺の性格や口の悪さにも慣れてきたようで、一々こちらの発言を真に受けることがなくなったのは大きな進歩だ。気を遣わなくて済む、というだけで一緒に居るのが随分楽になった。最初は渋々付き合っていた訓練もいつの間にか苦ではなくなっていたし、俺の指導のお陰で綾の体術が日に日にマシになっていくのを見ていると、達成感のようなものさえ感じる。
 そして今日、綾との訓練は新たな佳境を迎えようとしていた。

「なぁ、綾ってなんで領域展開使わねーの?」
「えっと……使わないんじゃなくて、使えないんです」
「……使えない?」

 俄かには信じられなくて、バツが悪そうに笑う綾を凝視した。それだけ結界術の才能があって使えないというのはおかしな話だ。領域展開の要は結界術。いくら強い術式を持っていても、そのセンスがないヤツには習得不能と言われている。一応俺も領域を使えるには使えるが、まだ実戦で役立つレベルには達していない。そもそも領域を展開するにはメリットも多いが、その分リスクもある。あえてそんなリスクを取らなくても、俺には術式さえあれば困ることもないからだ。
 けれど呪術戦の頂点とも言われる領域展開にロマンを感じないわけではない。東雲の中でも優秀な綾にとっては造作もないだろう、という期待を込めて聞いたのだが、それを裏切る答えが返ってきて拍子抜けする。

「やり方が悪いんじゃね?」
「わ、私だって必死に練習しましたよ。でもいくらやってもダメなんです」
「宝の持ち腐れだなぁ、何のための東雲だよ」

 家の名前を出したのが不愉快だったのか、小さく睨みつけてくる綾を見て目を丸くする。彼女がこんな顔をするのは珍しい、と新たな発見が俺の悪戯心を擽った。こんなだから俺は性格が悪いなんて言われるのだろう。いやでも、綾に対してはかなり優しくしてやってる方だと思う。それが『後輩』だからなのかと聞かれると、どこか違うような気もするが。

「いいからちょっと見せてみ?」
「嫌ですよ、どうせヘタクソって笑うんでしょ」
「お前俺を何だと思ってんの」
「五条先輩」
「散々面倒見てもらっといて失礼なヤツだな」

 せっかく人がアドバイスしてやろうと思ったのに。そう言うと慌てて立ち上がる綾は良くも悪くも素直だ。

「じゃあ……いきます」

 それは一瞬の出来事だった。ゆっくり一呼吸した綾が印を結んだ直後、俺は未知の空間に閉じ込められた。……やはり彼女の結界術は素晴らしい。しかしその未完成の領域を見て、あぁ成る程なと頷く。
 領域を展開する場合、通常は結界と術式をほぼ同時に発動させる。しかし綾の場合、結界だけが先行してしまい術式が上手く付与されていないようだった。術式とは生まれながらに体に刻まれているもので、深く考えなくても使用は可能だ。しかし領域を展開するとなると話は少し変わってくる。自分の中に術式を0から構築しなければならない。術式をどう使えば最も効率的か、という一種の創造力が求められるのだ。

「おそらく、お前は術式への理解が足りてない。こういうものだって決めつけて、自分でその可能性を潰してる」

 まずはその固定概念を捨てろ。そう言うと、綾は分かったような分からないような微妙な顔をして頷いた。自分としては良いアドバイスをしたつもりだったのだが、イマイチ響いて無さそうだなと苦笑いする。……仕方ない、アプローチを変えるか。

「綾は縛られすぎなんだよ。……色んなことに」

 その言葉は図星だったのか、術を解いた綾はぎゅっと拳を握った。
 領域展開とは、術式を付与した生得領域を呪力で具現化すること。生得領域とは言い換えれば術師の精神世界。──そこに巣食う根深い『しがらみ』こそが、綾の領域展開を妨げている原因だろう。強くなりたいという覚悟は本物だろうが、彼女は今も家のしがらみに縛られたままだった。16歳の誕生日を迎えた時、ほんの少しだけ暗い顔をしていたことを俺は知っている。高専に入りこの世界の厳しさを知った彼女は、自分の運命を変えるのがどれだけ大変なことかを理解していた。入学時に比べれば確実に強くなっているが、きっとまだ自信が足りないのだろう。
 そしてそんな彼女の背中を押してやれるのは、俺しかいないと思った。


「もっと自由に……やりたいようにやってみれば?」


 それを聞いて、いよいよ綾の顔つきが変わった。“自由に”……そう小さく呟いた後、再度両手を合わせて印を結ぶ彼女に目を見張る。
 凄まじい量の呪力を体に纏った直後、一瞬にして綾の『領域』が俺を飲み込んだ。思わずヒヤリとし、そして昂った。相変わらず申し分ない結界に、今度は確かに綾の術式が付与されている。

「なんだよ、できんじゃん」

 満足気な俺とは対照的に、綾は信じられないといった顔で自分の領域を見上げる。当然まだまだ未熟だけれど、この領域が洗練されれば彼女の大きな武器になる。それを確信した俺は高揚感を覚えたのだった。0を1にするという、最初にして最大の難関は突破した。あとは綾自身で鍛錬を積むしかない。
 もういいぞ、と領域を解除するように促したが、彼女は困った顔で助けを求めるように俺を見つめた。

「……これ、どうやって戻すんですか?」
「…………」

 そんな事聞かなくても、大体感覚的に分かるだろう。しかし初めての領域展開でいっぱいいっぱい、といった綾の様子に呆れながらため息を返す。仕方なく瞬間的に自分の領域を展開して彼女のそれを破ると、呪力を大量に消費して疲れたのかへたりとその場に座り込んだ。

「全く、俺がいなかったらどうするつもりだったわけ?」
「五条先輩がいなかったらそもそも成功してませんよ」
「お前それでお礼のつもりかよ」
「あはは、まさか」

 こんな風に軽口を叩けるような関係は不思議と心地良い。そう思えるのは相手が綾だからかもしれない。数秒後には「ありがとうございます」と深々頭を下げる彼女を見て、こういう所は相変わらずだなと笑う。

「五条先輩って教えるの上手ですよね。教師とか向いてるんじゃないですか?」
「はぁ? 俺が教師ぃ?」

 突然変な事を言い出す綾に顔を顰めたが、彼女は至って真面目だった。いつもアドバイスが的確だとか、厳しいようで優しいだとか、素直に思った事を口にする彼女に面食らう。マジで素直過ぎるのも考えものだな。

「いつか先輩が先生になっても、私が生徒第一号だってこと忘れないでくださいね」
「……お前みたいなへっぽこが第一号かよ」
「あっ言いましたね? 今に見てて下さいよ」

 10秒なら見ててやるよ、と再び憎まれ口を叩こうとする俺を、綾の笑顔が制した。


「私、頑張って一級目指しますから!」


 ──数秒息をするのを忘れていた。相変わらず花が咲いたように笑う綾から目が離せなくて、気付いたら手を伸ばしていた。
 頬に触れた瞬間、その柔らかさに驚いた。……嘘だろ、女の顔ってこんなに柔らかくて弾力があるのか。突然目の前の綾が俺とは全く違う生き物のように思えた。いつか硝子が言った、コイツは女だという言葉がようやく理解できた気がする。

「……どうしました?」

 俺に無遠慮に触られてもきょとんと小首を傾げるだけで、嫌がる様子のない綾を見てホッと胸を撫で下ろす。けれど他の男に触られてもこんな反応なのかと思ったら、少し……いやかなりムカついた。綾は男に慣れていないし、俺がこんな風に触る意味なんて分かっていないのだろう。
 ……ちょっと待て。俺が綾に触りたいと思う理由って何だよ。

「……戻るか」
「あ、どうぞ先に戻って下さい」
「いや綾も戻らないと授業始まるぞ」
「あ、はは……次自習なので大丈夫です」

 その言葉は本当らしいが、だからと言ってここに留まる理由が分からなくて眉を顰めた。まさかさっきの行為に気分を害して、俺と一緒に居るのが嫌になったのか。一瞬不安になったが、そうではないらしい。

「足に力、入らなくて……」

 一呼吸置いてから、その意味を理解した。初めて成功した領域展開の代償で呪力を消費しすぎたのだろう。そういえば先程は必要以上に呪力を解放していたので、現在彼女の体内には殆ど残っていないと言われても頷ける。

「ハァ、しょうがねぇな……」
「あっ、待っ、それはちょっと……!」

 仕方なく校舎まで運んでやろうと思ったが、横抱きにしようと綾の背中と膝裏に腕を回した瞬間に勢い良く抗議の声が上がった。しかしその顔を見るに、嫌がっているというよりは恥ずかしがっているようだ。……なんで? さっき頬に触れた時には何ともない顔をしていたのに、女ってよく分からない。それでも俺に触れられて顔を赤らめる彼女を見るのは、なんだか気分が良かった。








「随分優しいじゃん。五条センパイ?」

 今日も綾との訓練を終えて教室に戻った俺に、ニヤニヤしながら話しかけてきたのは硝子だ。その表情を見て、そして“センパイ”などと茶化されて、彼女の言いたい事が分からないほど馬鹿ではない。どうせ綾のことで俺を揶揄っているのだろう。先日呪力切れで動けなくなった綾を、俗に言う『お姫様抱っこ』して戻って来た俺を見た時も確かこんな反応だった。

「何言ってんの? 俺は元々優しいだろ」

 そうは言ったものの、自分でもらしくない事をしている自覚はある。それは綾を指導している事や、つい甘やかしてしまう事だけじゃない。最近は綾の笑顔が見たくて、どうしたら彼女が喜ぶかなんて考えている自分がいる。そんな事コイツらには口が裂けても言えないが。

「悟だって男なんだよ硝子」
「……どういう意味だよ傑」
「あれだけ可愛い子が真っ直ぐに自分を慕ってくれたら、そりゃ悪い気はしないだろう?」

 ……可愛い? 綾が?
 思いがけない傑の台詞に驚く。確かに見た目は悪くないし、素直で無邪気に笑う姿には好感が持てる。それが傑の言う『可愛い』ならそうなのかも知れない。けれどそこまで綾と親しくない傑が『可愛い』と言うからには、他のヤツらにもそう見えているってことだろうか。そう思うと少しだけ面白くないような気分になるのは何でだろう。
 そんなことを考えながら二人から視線をズラせば、窓の外に件の綾の姿を見つけた。一緒にいるのは七海と灰原。あの三人ははたから見ても仲が良く、真面目で穏やかなヤツらが集まった平和な学年だ。個性が強い、問題ばかり起こす、などと言われる俺の学年とは大違い。そういや以前傑が「灰原は東雲のことが好きなんじゃないかな」とか言ってたっけ。その時は何とも思わずに「だからなんだよ」と返したが、いよいよそうも言っていられなくなった。
 クラスメイト二人と楽しそうに笑い合う綾を見て、今度は胸の奥に妙な違和感を覚えた。そして極めつけは硝子の台詞。

「その可愛い子が一切五条に下心ないってのがウケるけどな」
「シッ、それを言ったら悟が可哀想だろ」

 別に自分が特別だなんて思ったことはない。それどころか今まで散々手荒な真似をしてきた俺に、綾が下心なんて抱くはずがない。もしそうなら彼女は本当にマゾだ。……ていうか下心って何だよ、アイツは恋が何かも知らないようなガキだぞ。外では女にキャーキャー言われる俺の事も絶対に男として見ていない。綾はただ強くなりたくて、俺に指導してもらえるのが嬉しいだけ。一緒にいて居心地が良いと感じているのは俺の方だけ。
 そんな風に御託を並べたところで、ただ胸の違和感が増すだけだった。




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