「……風邪?」


 綾が俺の前に姿を現さない、そんな昼休みにも慣れてきた三年の夏。
 二年になった綾は任務や課外授業が増え、昼休みに俺を訪ねてくる頻度が減った。ただ来れない日はいつも事前に連絡が来るのだが、今日はそれもない。自分が不在の時にわざわざ連絡なんてした試しがないので責めるつもりはないけれど、彼女の律儀な性格を考えると少し違和感があった。そんな風に首を捻る俺を見た硝子から発せられたのが「そういえば風邪で休んでるらしいよ、綾」という台詞だった。
 おいおい風邪って……今夏だぞ。俺らの会話を聞いた傑もすぐに『風邪』というワードに反応を示す。ただしニヤッと意地の悪い笑みを浮かべた彼を見て、嫌な予感がした。

「一昨日誰かさんが夜遅くまで連れ出したせいじゃないかな」
「え、連れ出したってどこに?」
「そこの裏山。二人で流星群を観に行ったらしいよ」
「マジ? 星なんて寮からでも観れるだろ。そこまでして二人きりになりたかったのかよヤラシー」
「よしお前ら表出ろ」
 
 傑のやつ、夜中に寮を抜け出したことは黙っとけって言ったのにあっさりバラしやがって……。つーかやらしいもクソもあるか、ただ星を観に行っただけだっての。
 寮の前で顔を合わせた綾が「今夜は流星群が観れるらしいですよ」と俺に言ってきたのは一昨日の朝のことだ。目を輝かせながら「私流星群って観たことないんです。願い事し放題ですね」なんて言う綾が悪い。星なんてちっとも興味無いが、気付いたら「じゃあ22時に寮の前な」と口に出していた。門限を過ぎて寮を抜け出すと言ったら渋られるかと思いきや、心なしかワクワクした表情で頷く彼女を見てこちらも心が躍った。しかし「夜は冷えるからちゃんと暖かくしてきなよ」という気遣いまでしてやったのに風邪引くなんてどんだけひ弱なんだよ。そう思っていると、傑がすんなり種を明かした。

「嘘嘘。昨日二年生が全員水浸しで帰って来てたから、おそらく風邪の原因はそれじゃないかな」
「水浸し?」
「この時期だし水難事故の調査とかだろ」
「いかにも呪霊が絡んでそうな案件だしね」

 呪術師にとって夏は繁忙期だ。特に今年は昨年頻発した災害の影響で大量に呪霊が湧き、俺たち学生も忙しかった。そんな中、無下限呪術を常時発動出来るようになった俺は自他共に認める『最強』になっていた。任務も全て一人でこなすようになり、クラスメイトの傑や硝子でさえ一緒に過ごす時間が減ったように思う。
 それにも関わらず、夏の思い出の中には常に綾の姿があった。先日の天体観測だけでなく、彼女が手持ち花火をやってみたいと言うので海へ連れて行ったのもまだ記憶に新しい。最近は昼休みに会えない時間を埋めるように、放課後になると俺の方から綾の姿を探すようになった。俺が出向くと彼女は少し驚いて、それから嬉しそうに顔を綻ばせる。そんな風に笑顔を向けてくる綾を『可愛い』と思っている自分がいることを、もう否定できなくなっていた。

「心配なら様子見に行ってあげたらどうだい?」

 俺を揶揄っているのか判断が難しい傑の発言に「任務のあと時間があったらな」と返す。この二人の前で「なんで俺が」などと虚勢を張ったところで意味がない。余計に揶揄われるだけだ。……でも待てよ、本当に俺が行ってもいいのか? 夜以外は異性の部屋にも出入り出来るとはいえ、見舞いなら同性の方が良いだろう。そう思って硝子に目を向けた瞬間に視線がぶつかった。

「襲うなよ」
「襲うかよ……」

 それ真顔で言うことか……? 冗談なのかよく分からない硝子の忠告を聞き流しながら、午後一の任務へ向かうべく教室を出た。帰りに綾の好きな駅前のプリンを買って来てやろう。呑気にそんなことを考えていた俺は、この時何も分かっていなかった。
 





「……五条先輩?」


 突然の訪問者に驚いた綾がポカンと俺を見上げる。一応『夕方見舞いに行く』とメールしておいたのだが、この様子だと見ていないようだ。寝起きで上手く頭が回っていないのか、どこかぼんやりした表情にドキッとする。あと男が着ないような、いかにも女子っぽいパジャマ姿の綾は可愛いが少々目のやり場に困る。

「ごめん寝てた?」
「いいえ、少し前に起きました……あ。ごめんなさい私今日……」
「具合悪いんでしょ。様子見に来た」

 入っていい? そう言うと綾は少しばかり難色を示した。男を部屋に上げたくないのだろうか、彼女にそんな危機感が備わっているとは思えなくて驚く。すると案の定綾は「でも移したら悪いので……」とややズレた理由で遠慮がちに俺を追い返そうとする。ここで食い下がるのもアレだが、別にやましい気持ちなんて無い。半ば自分に言い聞かせるようにして、見舞いという目的を果たそうと少々強引に部屋に押し入った。

「俺は風邪なんて引かないから大丈夫」
「そうなんですか?」
「うん最強だから」
「? どういう理屈ですかそれ」

 同じ寮に住んでいるとはいえ、綾の部屋を訪れたのは初めてだった。白を基調にコーディネートされたシンプルで清潔感のある部屋は彼女らしいが、その場に明らかに不釣り合いなものが目につく。それはあちらこちらに飾られた可愛らしいぬいぐるみ。確か少し前に俺がクレーンゲームで取ってあげたものだ。取ってあげたと言っても、別に彼女が欲しがっていたわけじゃない。俺に押し付けられただけなのに、それを律儀に飾っている彼女が可愛く思えてつい口元が緩んだ。

「薬とか持って来たけど、ちゃんとご飯食べてるの?」
「それがあまり食欲なくて……」
「じゃあコレは? 綾の好きなプリン」
「すごく食べたいんですけど……後で頂きますね」

 好物のプリンに釣られないなんて、どうやら本格的に体調が良くないらしい。横になってて良いよ、と言うと素直にベッドに潜り込んだのでますます心配になった。こんなことなら任務に行く前に様子を見に来れば良かったなと後悔する。これでも急いで任務を片付けたのだが、調子に乗った補助監督に「さすが五条君。もう一件行けそうですね」と二件目の現場に連行されたせいで思ったより遅くなってしまった。
 寝るなら帰った方がいいかと思ったが、綾が「眠くないのでお話して下さい」と言うのでベッドの横に腰を下ろす。ふと壁に掛かったカレンダーが目に入り、大きく丸印で囲まれた日付を見て胸が痛んだ。

「あー……明日の夏祭りは留守番だな」

 明日は近所の神社で夏祭りが行われる。東京の田舎にしてはそこそこ大きな催しで、境内には多くの露店が並ぶし夜には花火も上がる。俺たち高専生にとっても夏の風物詩と言えるイベントで、今年は二、三年で揃って行く予定だった。去年は任務で行けなかった綾が、今年の夏祭りを楽しみにしていたことは知っている。

「えっそれは嫌です……! 明日までに治しますから」
「そうは言っても、またぶり返したら困るだろ」

 大人しく寝てなよ、そう言うと綾は拗ねたように薄い毛布を目元まで被った。

「意地悪……」
「どこが? こんなに優しい先輩他にいないと思うけど」
「だってこの夏一番楽しみにしてたのに」
「また来年もあるじゃん」

 言いながら、医務室から貰ってきた冷却シートを取り出し綾の額に貼ってやる。俺はいつからこんなに優しい人間になったのだろうか。と言っても綾限定ではあるが。口調だって以前より柔らかくなった自覚もある。それでも彼女は自分が特別だなんて思っていないのだろう。

「屋台がたくさん出るんでしょう? りんご飴もありますか?」
「りんご飴が食べたいの?」
「綿飴も焼きそばもじゃがバターも食べたいです。あとたこ焼き!」
「食い意地張りすぎじゃない?」

 食欲ないんじゃなかったの、と言えば「明日には良くなってますから」と返ってきて笑う。なら今言ったものは全てお土産に買って来てやろうと思った。

「……金魚すくいも射的も、やってみたかったな……」

 彼女の夏祭りの思い出は、小さい頃に家の世話係に連れられて『見学』に行った記憶しかないという。それを聞いた時は思わず「見学ってなんだよ」と突っ込んだが、本当に社会科見学のような扱いだったらしいから何とも不憫だ。買い食いはおろか、自由に見て回ることも出来なかったのだろう。
 綾が少々世間知らずなのは本人のせいではない。これから知っていけば良いだけの話だ。“行ってみたい。やってみたい”──そんな綾の『初めて』を全部、俺が叶えてやりたい。いつからかそんなことを考えるようになった俺はもう、ハッキリ自分の想いを自覚していた。綾に優しくしたいと思うのも、彼女の一挙一動を可愛いと思うのも、全てを独占したいと思うのも、ただの後輩だからじゃないということを。

「……来年は、二人で行かない?」

 そう言ったらどんな反応をするだろう。そんな興味が湧いて、気付いたらそのまま口に出していた。まぁ普通は戸惑うだろうな、二人で夏祭りなんていかにも『デート』だ。男が女をデートに誘う理由なんて、下心があるからに決まっている。しかし俺の予想を裏切って、綾は嬉しそうに目を細めた。

「はい。楽しみにしてますね」
「……本当に? 意味分かってる?」
「みんなでじゃなくて、二人だけでって意味でしょう?」

 それくらい分かりますよ、と笑う綾を見て確信した。コイツは俺の下心なんて100%分かっていない。純粋培養の彼女は恋愛に疎く、他人から向けられる好意には“超”がつくほど鈍感だ。この前街でナンパされていたのを助けてやった時だって「私が迷子だと思って心配してくれたみたいです」なんて言うもんだから呆れて物も言えなかった。こんなデカい迷子がどこにいるんだよバカ。綾は術師として優秀でも非力な女であることに変わりはない。一般の男相手にも素の力では敵わないだろう。
 もっと危機感を持て、なんて言ったところで、簡単に男を部屋に上げるような綾に意味が伝わるとは思えない。……いや、そもそも俺が男として見られていないのか。そうじゃなきゃ夜中に二人で天体観測なんか行かないよな……。

「……ねぇ。この前何を願ったの」
「え?」
「必死に流れ星に願い事してたじゃん」
「! あ、はは……別に大したことじゃないですよ」

 少し顔を赤らめた綾が誤魔化すように笑った。俺に言いにくい事なのか、目を泳がせる彼女を見て首を傾げる。気になるが「だって人に教えたら叶わないって言うでしょう?」と言われたらもうお手上げだ。どうしても俺に教える気はないらしい。
 するとゆっくり体を起こした綾が、今度は真っ直ぐ俺を見つめた。


「それに……一番の願い事は、自分で叶えるって決めてますから」


 その瞬間──“あぁやっぱり好きだな”なんて思った。
 それと同時に、少し胸が苦しくなった。俺には綾の願いを叶えてやれないのだと思い知らされたようで。初めて会った時と同じ、強い意志を宿した彼女の目を見れば『一番の願い事』にはおおよそ見当がつく。

「……じゃあ約束してよ」
「約束? なんですか?」
「綾が卒業するまでに、一級になること」

 卒業までに一級になれれば、綾に自信と実力が備われば、彼女の願いに近づけるんじゃないかって期待した。彼女にはもっと自由に生きて欲しい。政略結婚なんて望まない未来から救ってあげたい。……でもそんなものは結局俺のエゴだ。
 綾を道具としてしか見ていないような男には渡したくない、自分もそんなヤツらと同じだなんて思われたくない。ただ彼女の“心”を手に入れたい──そんな俺の欲の塊。

「いいですよ、任せて下さい」
「うん頑張って。ちゃんと約束守れたらご褒美あげるからさ」
「え、本当ですか?」

 絶対ですよ、と言ってスッと小指を俺の前に掲げた綾に目が釘付けになる。

「ね? 約束」

 あー……クソッ。可愛い。
 小首を傾げて笑う綾はあざといが可愛いものは可愛い。どこでそんな技覚えてきたんだ、いや絶対に無意識だろうけど。平静を装って自身の小指を絡ませながらも、ムクムクと欲が膨らんでいく。
 もっと触れたい。全部抱き締めたい。その無防備な唇を奪って、全身で愛を伝えたい。
 欲望のままに手を伸ばしそうになったところで、ふと硝子の台詞が頭をよぎった。

──『襲うなよ』

 ………あいつエスパーか?
 いや、でも待て違う。本当にそんなつもりは無かったんだって。未遂にも関わらずまるで犯罪者のような言い訳をしながら綾から目を逸らす。気付いたら掌にも額にもうっすら汗をかいていた。……そうだ、きっとエアコンのついていないこの部屋の暑さにやられたんだ。それか部屋に充満する彼女の匂いに当てられたんだろう。これは以前から思っていたことだが、綾は仄かに甘くて良い香りがする。おそらく香水の類ではなく、体臭というか彼女特有の匂い。それがどうにも今は俺を誘惑するようで落ち着かないのだ。
 結局何が言いたいのかって? これ以上ここに居たら何をしでかすか分からないってことだ。ちょっと魔が差して……なんて言い訳が通用するなら良かったものの、ここで手を出したら彼女からの信頼を一瞬で失うことになるだろう。下手したら二度と俺に笑いかけてくれないかもしれない。そんなリスクを冒すのは流石に馬鹿げている。
 とにかく早急に部屋を出なければ。そんな思いで立ち上がろうとすると、横から楽しそうな笑い声が聞こえた。

「ふふ、百面相してどうしたんですか」
「………楽しそうだね。人の気も知らないで」
「そうなんです、先輩と話してたら元気出てきました」

 だからもう少しここに居てください、いいでしょ? なんて言いながらぎゅっと俺の腕を掴んでくる綾を小さく睨みつけた。何なんだコイツは、俺の理性を試しているのだろうか。つーか誘ってると思われても文句言えないからなそれ。ふざけんなよマジで。心の中で最大限の悪態をつき、もう絶対に綾の部屋へは安易に入らないと決めた。
 自分が案外欲深い人間だと知った17の夏──。
 
 




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