困惑や怒り、悲しみといった感情が一通り落ち着いた後、次に俺を襲って来たのは焦燥感だった。
──『君は五条悟だから最強なのか? 最強だから五条悟なのか?』
傑の問いかけが、あれからずっと頭の中でリフレインしている。俺は傑のことも、俺自身のことも、何も分かっていなかったようだ。高専に入り友ができ、浮かれていた。忘れていた。自分が特別な人間だということを。その現実を突きつけるかのような傑の言葉は、じわじわと俺の心を蝕んだ。
生まれた時から『特別』だった自分の運命なんてそう簡単には変わらない。そんなことは自分が一番よく分かっていたし、今までそれを悲観的に思ったことはなかった。それなのに傑の言葉を受けて焦燥に駆られる自分は、一体何を期待していたのだろうか。
「お疲れさまです。五条先輩」
「……久しぶり、綾」
任務を終えて高専に戻った俺は驚いた。校門に背を預けて立つ姿は紛うことなき綾のもので、俺を乗せた車が到着すると弾かれたように顔を上げる。久しぶりに顔を合わせた彼女は、どうやら俺の帰りを待っていたようだった。言葉を交わすとホッとしたように表情を緩める彼女に罪悪感が募る。
最近の俺は露骨に綾を避けていた。いくら鈍い彼女でもそれくらいは気付いているようで、遠慮がちに俺を呼び止めたものの言い淀むようにして視線を落とす。そんな姿を見ていられなくて目を逸らした。
「えっと……すみません。忙しいのは分かってるんですけど、しばらく会えなかったのでその……」
昼休みに付き合っていた訓練だって、もう一ヶ月は行っていない。昼休みも放課後も、綾から逃げるように一人で過ごすようになっていた。俺がこんな風に変わったのは、もちろん傑の一件があったからだ。傑の思想は全く肯定できないし、彼の悪行は当然許せるものではない。……けれど彼を責めるだけで全てが解決するのだろうか。友を救えなかった俺に、責める資格があるのだろうか。
俺はずっと傑を苦しめていたんだろうか──その問いに答えてくれる友はもう居ない。
けれどもう、“生き方は決めた”。
「ん? 寂しかったって?」
「……はい」
「はは、ごめん。でも綾は十分強くなったし、もう俺に教えられることもないかと思って」
「そうじゃなくて、私はただ……」
「綾」
咄嗟に名前を呼んで言葉を奪った。今はその続きを聞きたくはない。
綾が訓練に付き合って欲しいのではないことくらい分かっていた。どうせ他の皆と同じように、任務に明け暮れて高専に寄り付かなくなった俺を心配しているのだろう。夜蛾先生だって硝子だって、皆そうだ。心配も慰めも、別に求めていないのに。
「俺は大丈夫だよ」
「大丈夫って……どうして」
「だってほら、俺最強だから」
そう言うと、綾は意表を突かれたように言葉を失った。心配は無用だと言ったつもりが、真っ直ぐ俺を見つめる瞳は不安げに揺れている。それを放って置けなかったのは、惚れた弱みというやつだろう。やはり俺には綾を冷たく突き放すことなど出来ないのだと思い知る。ポンッと小さな頭に手を乗せて、なるべく優しく「急ぐからまたね」と言って背を向けた。
──『君は五条悟だから最強なのか? 最強だから五条悟なのか?』
俺はどうしたって『最強』らしい。だったらそれらしい生き方に変えなくてはダメなんだ。『最強』のせいで誰かを傷つけることのないように。そしてこれ以上、大切なものを失わないように。そのために自分はどうすべきか、導き出した答えが正しいのかどうかは分からない。けれど誰かの指図を受けるつもりもない。
『最強』を背負って生きる俺の気持ちなんて、誰にも理解できないのだから。
「……そうやって周りを遠ざけて、独りになるつもりですか」
──図星をつかれて足を止めた。
変な所で鋭い綾に驚き、何も言い返せない。まさか彼女が、俺が自ら独りになろうとしている事に気付いているとは思わなかった。……けれどそれの何が悪い。今の俺は一人でも最強で、だから“独り”になったんじゃないか。失うくらいなら最初から一人の方がマシだ。大切なものはもう作らない。だからこれ以上綾のそばにいてはいけない、そう決めたはずなのに──……。
「最強じゃなくても、いいんですよ……」
まるで俺の心を見透かしたような台詞だった。偉そうに諭すのではなく、弱々しく控えめに発せられたそれは静かに俺の胸を打つ。
「あなたは最強じゃなくても、五条悟ですから」
その瞬間、すぐに腑に落ちた。……あぁそうか、俺はずっとその言葉を求めていたのかと。親も唯一の親友も、今まで誰も与えてくれなかった言葉を、心のどこかで期待していたのだと。
傑の言葉も、俺の生き方も、何もかもを根底から覆すような綾の発言は、徐に俺の心を解かしていく。生まれた時から『最強』を望まれてきた俺が、初めて俺自身の価値を認められたかのような感覚。まるで全てを許されたかのような感覚に、言い知れぬ安堵を覚えた瞬間だった。
どうして綾は、俺の欲しい言葉をくれるんだろう。それが気になって、後ろを振り返った俺は驚愕した。
──大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちていくのがスローモーションのように俺の目に映った。声を押し殺して泣く綾の姿は慎ましくて、彼女らしくて、こんな時でも“愛しい”と思ってしまった。
何故綾が泣いているのかと、一瞬混乱したがすぐに理解した。彼女はそういう人間なんだ。他人の痛みが分かる優しい人間だから、俺自身ですら気付いていなかった心の悲鳴が聞こえたのだろう。俺は最強なんかじゃない。彼女の涙を見てようやく自分の『弱さ』に気付いた。
「……独りは、寂しいよ」
俺の呟きを拾った綾の目から、止めどなく涙が溢れた。誰も俺の気持ちなんて分からない、なんて妄言だった。分かってくれる人がいた。分かろうとしてくれる人が。
俺だって本当は綾を遠ざけたいわけじゃない。ただ彼女の笑顔を守りたかっただけ。失うのが怖かっただけ。『最強』なんて、ただの強がりだった。
「……私ももっと強くなったら、あなたと同じものが見れますか……?」
その台詞に酷く動揺した。俺の知っている綾は、自分の願いを叶える為に一生懸命で、真っ直ぐで……俺はそんな彼女が好きだったはずなのに。今はまるで俺を独りにはさせないとでも言うように、俺の心に寄り添おうとする綾がどうしようもなく愛おしい。泣かせたいわけじゃないのに、俺の為に泣いてくれる彼女の涙は綺麗で、ずっと見ていたいと思った。どうしても手に入れたくなってしまった。
「私、もっと強くなりますから……だからもう、私の前では強がらないで……っ」
もう限界だった。ほとんど衝動的に、細い腕を掴んで華奢な体を引き寄せた。
なす術なく俺の腕の中に収まった綾をぎゅうと抱いて、その温かさを噛み締める。彼女の体はこんなに小さかったのかと驚き、いつの間にか自分の中で綾の存在が大きくなっていたことを思い知る。伝えたい思いは沢山あるのに、どれも上手く言葉にできそうにない。
「……ごめん」
唯一形になって出たのは謝罪の言葉だった。
遠ざけてごめん。泣かせてごめん。そんな懺悔の意を込めた謝罪を心の中でも繰り返す。一番伝えたかったはずの感謝の言葉は、自分の欲に飲まれて消えた。
「ごめん……綾」
弱くてごめん。優しさにつけ込んでごめん。今度は先に謝っておくから、どうか俺の我儘を許して欲しい。
だって仕方がないだろう。ずっと自分の為に一生懸命だった綾が、少しでも“俺の為に”強くなろうとしてくれた。弱い俺と一緒に生きようとしてくれた。それがこんなにも嬉しいとは思わなかったんだ。
この温もりを知ってしまったらもう、一人では生きていけないと思った。俺は狡くて欲深い人間だから。
「ずっとそばにいて」
好きだと言えなかったのは、やはり俺の『弱さ』なのか。みっともなく縋るように絞り出した声は、消え入るように頼りないものだったけれど、確かに綾の耳に届いたようだった。
それに対して彼女が何を思ったかは分からない。俺の顔を覗き込むようにして目を合わせた後、何も言わずに小さく頷いた。
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