それ以来、俺と綾の関係は少し変わった。
 人前での一人称を『僕』に変えた自分に違和感はあったが、綾がその方が良いと言って笑うから、ならそれでいいかと思うことにした。任務で忙しい日々を送りながらも、彼女の笑顔を見れば疲弊した心も浄化される気がした。弱い自分を受け入れてくれる彼女と一緒にいるのは心地良くて、不安定だった俺の情緒もすぐに落ち着きを取り戻した。
 軽い『依存』だという自覚はあった。以前よりも一緒にいる時間が増えたせいか、周囲からは俺たちが付き合っていると噂されるようになったのもこの頃だ。そう言われて困ることもないし、彼女の周りの男共への牽制になるなら寧ろ好都合だと俺は思っていた。綾がどう思っていたのかは知らないが、クリスマスやバレンタインといった恋人たちの定番イベントを当たり前のように二人で過ごした時は流石に期待した。これはもう名実ともに“付き合っている”ということで良いだろうと。しかし調子に乗って少し甘い台詞を吐いた俺を「そういうのは好きな女の子に言ってください」と一蹴する綾はやはり手強かった。いつまで経っても俺の想いは伝わらないし、彼女が俺に惚れることもない。以前よりも親密な関係になったのは決して自惚れではないはずだが、そこだけは変わらなかった。………いや違う。
 変わらなかったんじゃない、変えようとしなかったんだ。俺は今まで一度も、綾に好きだと伝えたことはなかった。この居心地の良さを失いたくなくて、今の関係に甘んじていたのだと思う。
 そうして俺たちの何とも形容し難い関係が続いたまま、また桜が咲く季節が近づいてきた。



「はい。お返し」

 綾に会いに二年の教室を訪れた俺は、きょとんとする彼女の手を取って可愛らしい包みを握らせた。昼休み終了10分前に現れた俺を見て「今日は来ないと思いました」と言う綾は今日が何の日かを忘れているようだ。最近は昼休みに彼女の訓練に付き合う習慣はなくなっていたが、可能な限り昼食を一緒に摂るようになっていた。お互いに忙しいので中々それも叶わないのだが、今日は彼女に一目でも会いたい理由があった。

「どうしたんですか? これ」
「だからお返しだってば。今日ホワイトデーじゃん」
「あっホワイトデー……なるほど」

 開けてみて、と言うと綺麗に施された包装を丁寧に開けていく綾に焦れったい気分にさせられる。そんなものどうせ捨てるんだから適当に破ればいいのに。改めて自分との性格の違いを再認識しながらその様子を眺めていると、ようやく目当ての箱が開かれた。中から姿を現した色とりどりの菓子を見て綾が目を輝かせる。

「わぁっ可愛いマカロン!」

 綾は甘いものが好きだから何でも喜ぶだろうと思ったが、七海に「お返しはちゃんと意味を込めて贈った方が良いですよ」と言われてネットで調べるという周到ぶりを発揮したので間違いないはずだ。それにしても、菓子の種類によってお返しの意味が違うなんて知らなかった。綾がそれを知っているのかは定かではないが、万が一にも誤解を生むようなことがあっては困るので慎重に選ばざるを得なかった。中でもマシュマロやクッキーは本命へのお返しとしてはマイナスの意味を持つらしいので絶対にNG。そこでまず候補として上がったのがキャンディーだった。その意味は『あなたが好きです』、まぁ無難に行くならこれだろう。しかし後からマカロンの持つ意味を知った俺は、これしかないと即決した。
 『あなたは特別な人です』………うん。やっぱり『好き』よりこっちの方がしっくり来る。俺が今まで綾に好きだと言わなかったのは、きっとそんな言葉では俺の想いの全ては伝わらないと思ったからなのかもしれない。

「ありがとうございます。今食べても良いですか?」
「どーぞ」
「たくさんあるから先輩も一緒に」
「僕はいいよ」
「え、病気ですか?」

 綾にあげたものだからと遠慮したのに、病気かと疑われるのは心外だ。しかもこの様子だと冗談を言っている感じでもないだろう。本気で俺を心配する彼女にちょっとした出来心で「あーんしてくれたら食べる」と言ってみたら、おずおずと俺の口元にマカロンを運ぶ綾が堪らなく可愛い。彼女の指を介して食べたマカロンの味はとてつもなく甘く感じた。

「来年は手作り期待してるから」
「えぇっ無理ですよ。作ったことないって言ってるじゃないですか」
「大丈夫でしょ。チョコなんて最初から美味いモンを不味く作れるわけないんだから」
「ちょっとハードル上げないでください」

 正直味なんて不味かろうが別に構わない。味を求めているのなら今年のように市販の高級チョコを貰うのが一番なわけで、俺が求めているのは綾が初めて手作りしたという『価値』でありチョコはオマケに過ぎないのだから。……いやまぁ、味も美味いに越したことはないのだが。来年のお返しはどうするかと考え始める気の早い俺の前で、不意に窓の外へ目を向けた綾がポツリと呟いた。

「咲きませんね……」
「……あぁ桜? まだ少し早いでしょ」

 彼女の視線の先にあったのは、校庭の傍にそびえ立つ桜の大木。あの場所で綾と初めて出会った日からもうすぐ二年が経とうとしていた。

「綺麗に咲いてましたよね……あの時」

 初めて綾を見た時、桜の花びらが舞う中でしゃんと立つ姿が綺麗で、思わず足を止めるほど幻想的な光景だったことを今でもよく覚えている。お互いの第一印象は良くなかったはずなのに、今はこうして誰よりも近くにいるというのは不思議な縁だと思った。彼女もあの時のことを思い出しているのだろうか。穏やかに目を細めて遠くを見つめる綾は、俺の贔屓目を差し引いても二年前より美しく成長したと思う。しかしその横顔はどこか儚げで、妙な胸騒ぎがした。

「私、五条先輩と出会えて良かった」
「……どうしたの? 急に……」
「だって今の私があるのは先輩のお陰ですから……本当に感謝しています」

 笑顔の消えた綾を見て、胸騒ぎなんかじゃないと確信した。……やめてくれ、今日はホワイトデーだろ。感謝を伝えたいのは俺の方なのに。まだちゃんと伝えられていないのに。彼女の言葉が、まるで無慈悲なカウントダウンのように俺を追い詰めていく。

「それなのに………ごめんなさい。私やっぱり………」

 視線を落とした綾が声を震わせた。それだけで、何を言われるのかなんてすぐに察しがついてしまった。


「ずっとは、いられないみたいです」


 “ついにその時が来たのか”と、嫌な音を立て始める心臓とは裏腹に頭は冷静だった。今にも泣き出しそうな彼女が目の前にいるからかもしれない。一番辛いのは綾なのに、まず俺に謝るなんて本当にお人好しなヤツだ。そっと頭を撫でて話の続きを促すように見つめても、彼女は視線を合わせようとしない。

「縁談の話が出てるんです。入籍は卒業まで待ってもらえるらしいんですけど、とりあえず婚約って形で話が進んでて……」

 綾ももう16歳を過ぎてしばらく経つ。東雲家の事情を考えればそういった話が出てもおかしくはない。綾と出会った時から、こうなることは常に頭の片隅で想定していた。やはり生まれた時から決まっていた運命を変えることなど不可能に近いのかもしれない。それでも何かを変えたかったのは俺も同じだ。
 しかし本当は分かっていた。俺には彼女を救えないということを。

「……何も、言ってくれないんですか?」

 ……何を言えって言うんだよ。俺が嫌だって言ったら、何か変わるのかよ。好きだって言ったら、俺と結婚してくれるのかよ。……言えるわけないだろう。綾が俺を好いているならまだしも、そうではないのだから。

──『ずっとそばにいて』

 その言葉に綾が頷いたのは、あの時精神的に不安定だった俺を放っておけなかったからだろう。それくらいは理解した上で、俺はただ笑ってそばにいてくれる彼女に甘えていたんだ。けれどいつからか、あの言葉が彼女の足枷になっているのではないかと、そんな思いが常に付き纏うようになった。誰よりも綾の自由を望んでいた俺が、彼女の自由を奪っているのではないか──そう思ったらもう、何でもない風を装って口を開くことしか出来なかった。

「相手は? 僕よりいい男なの?」
「あはは……どうでしょう。禪院家の人らしいんですけど、よく知らないのでなんとも」

 あぁ……やっぱり聞かなきゃよかった。頭はいくら冷静でも、やはり心は単純だ。綾が俺のそばを離れて他の男のものになるのを想像したら、どうしても“嫌だ”と思った。俺はそんなよく知りもしない男に負けるのかと絶望し、沸々と怒りまで込み上げてくる。
 綾がどんなことで喜ぶのかも、どんな顔で怒るのかも、知らないくせに。
 彼女がどんな思いで強くなろうとしていたのかも、どれだけ努力していたのかも、知らないくせに。
 何も知らないくせに。そんな男が夫になるのか。

「……綾はそれでいいの?」

 そう言うと、綾は困ったように眉尻を下げた。意地の悪い質問だったと思うが、どうしても聞かずにはいられなかった。

「やっぱり中途半端だって思いますよね……。本当にすみません、色々と協力してもらったのに」
「………別に。綾が納得するならそれでいいと思ってる」

 ──『依存』じゃないと、ようやく気付いた。これまで己の欲に忠実に生きてきた俺が、初めて自分の信念を曲げた瞬間だった。
 本当はずっと自分のそばにいて欲しい。一度は伝えたことのある思いを、今度は言葉に出来なかった。
 言ったら綾はあの時のように頷いてくれるのかもしれない。……けれど本当にそれで良いのか? 彼女を縛る存在が、ただ『家』から『俺』に変わるだけじゃないのか……? そんな問いかけは、自分自身を苦しめるだけだと分かっていた。答えなんて、とっくに出ているということも。

「五条先輩のお陰で分かったんです。世の中どうしようもない事もあれば、どうにかなる事もあるって」

 さっきまで泣きそうだった綾の表情は、今はどこか吹っ切れたように穏やかだった。政略結婚なんて嫌だとは、最後まで言わないつもりなのだろう。彼女は自分の運命を受け入れたけれど、全てを諦めたわけじゃない。出会った頃は家に縛られて後ろ向きにしか生きられなかった彼女を変えたのは、他でもない俺だった。しかしそれを素直に喜べないのは、俺自身がこんな未来を望んでいたわけではないからだ。

「結婚は親に決められたことだとしても、そこから先の人生は私が決められるはずだから……前向きに生きて行こうと思います」

 そう言われては、何も言えないじゃないか。
 綾の声は明るかったけれど、一度も俺の方を見なかった。おそらく強がりなのだろう、そう思ってもやはり言葉は出なかった。口を開けば簡単に己の欲が出てしまうような気がして。
 「ただ……」そう言ってようやくこちらを向いた彼女の表情は曇っていた。

「……せめて一級になるまで待って欲しかったなって。それだけが心残りです」

 先輩との約束でしたから。そう言って悲しそうに笑う綾の姿に痛いくらい胸が締め付けられる。
 “そんな顔をするくらいなら、結婚なんてやめろよ”──今までの俺なら簡単に言えていたはずの台詞だった。けれど彼女が納得しているのなら、前向きに生きようと奮闘しているのなら、俺に口を出す権利はない。俺がどれだけ綾を好いていても、彼女にとって『御三家』の人間である俺はその禪院家の男と何も変わらないのだから。俺が綾の為に出来るのは、少しでも彼女の未来が明るくなるように背中を押してやることだけ。今までも、これからも。そう自分に言い聞かせてみても、どうにも出来ないやるせなさが胸を支配していく。

 手を伸ばせば届くところにいる彼女を、本当にこのまま行かせてしまうのか。
 これまで通り己の欲に従ってその手を掴めばいいのに、何故それが出来ないのか。
 自分の心はこんなにも痛いと叫んでいるのに、どうして彼女の幸せばかり願うのか。


 この感情を『愛』と呼ぶのかと、この時初めて思い知った。






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