歩くスピードを速めたところで、視線の先によく知る顔を見つけた私は思わず声を掛けた。
「恵くん!」
「綾さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。任務帰り?」
「はい」
「そっか。おかえり」
にこりと微笑むと、恵くんは少し目を見開いて動きを止めた。
「……ただいま」
照れ臭そうに、少し視線を外して呟く姿が可愛くてニヤけてしまった。
「今日の任務はどうだった?」
「単独だったので少し手こずりましたけど、まぁなんとか」
「凄いね恵くんは。私が1年の時なんて単独任務任せてもらえなかったよ」
「そうなんですか?」
「うん。さすが五条さんが目をかけてるだけあるよね」
私に褒められると恵くんは少し居心地が悪そうにする。彼の先生はあまり褒めて伸ばすタイプではないので、褒められることに慣れていないのかもしれない。しかし恵くんは私の目から見ても呪術センスが良いし、あっという間に一級になれそうだ。
「あっごめんね。疲れてるのに引きとめちゃって」
「全然。報告書も迎えの車待ってる間に仕上げたし」
「しっかりしてるねぇ。偉い偉い」
「そうやってすぐ子ども扱いするのやめて下さいよ……」
「ごめんごめん。でも恵くんがこーんなに小さい時から知ってるんだよ? いくら立派になったとはいえ、私にとってはまだまだ子どもだよ」
五条さんが恵くんの後見人になってから程なくして、私も恵くんとの邂逅を果たした。五条さんは幼い恵くんに警戒されている自覚があったのか、彼に会いに行く際によく私を一緒に連れて行ったからだ。実際出会った頃の恵くんは私にしか懐かなかったので、その判断は正しかったと思う。まぁ彼からすればあれだけ怪しさ満点の男を警戒するなという方が無理な話だろう。
恵くんは昔から聞き分けが良くて大人びた子だったけれど、私の前では素直に年相応の反応を見せてくれることも多い。一方五条さんには少し反抗的だがそれもまた可愛らしい。可愛い、なんて本人に言ったら絶対に怒られるので言わないが。
報告書を提出に行くという恵くんの隣に並んで廊下を歩く。昔は随分と低い位置にあったツンツン頭は、今や少し見上げる位置にある。男の子はまだ成長期だしこれからもっと伸びるのだろう。感慨深さを覚えながら、ふと気になった事を尋ねてみた。
「でも随分背も伸びたし格好良くなったね! モテるでしょ」
「は? モテませんよ」
「嘘ばっかり。この前街で逆ナンされてたって、五条さん楽しそうに話してたよ?」
「いやそれ勘違いなんで」
「そうなの? でも彼女ができたら紹介してね。きちんと挨拶しなくちゃ」
「小姑にでもなるつもりですか……」
「ふふ、心配しないで。上手くやるから」
五条さんは口うるさそうだけどね、と言うと恵くんはその様子が容易に想像できたのか、本気で嫌そうな顔をするものだから笑ってしまった。呆れたように「二人はいつから俺の家族になったんですか?」なんて言うけれど、私にとっては半分家族みたいなものだ。
「そもそも俺は彼女なんて作りませんから」
「でも人生何があるか分からないよ? 実際恵くんだって、五条さんに出会って人生変わったようなものでしょう?」
「それは、まぁ……」
渋々頷いた恵くんは一応五条さんに恩を感じているようだ。しかし絶対に本人の前では認めないのだろうな……と思える彼の反応を見て、私は笑みを深くした。
恵くんは五条さんのお陰で禪院家に売られることはなくなったけれど、呪術師として生きる道を余儀なくされたのも事実だった。昔はそんな彼の身の上を懸念していたし、何かあれば力になりたいと思っているのは今も同じだ。
「でも五条先生は俺を呪術師にする事しか考えてなかったけど、綾さんは違いましたよね」
「え?」
「中学の頃、呪術師になることに反発してた俺を咎めたり、説得したりしなかったでしょ」
「それは……誰だって他人に決められた人生を歩みたくなんかないでしょう?」
「……綾さんがそうだったから?」
「まぁそれもあるし、恵くんなら上手く折り合いをつけられると思って何も言わなかっただけよ」
あとはまぁ多感な時期だったしね、と笑えば恵くんはバツの悪そうな顔をした。ちょっぴり不良だった頃の自分はやはり黒歴史らしい。しかし彼は決して自分の為に力を振るっていたわけじゃない。弱い者の為、優しい者の為、そして己の正義の為だ。芯が強い性格だというのは知っていたから、彼が荒れていると聞いてもあまり心配する事はなかった。
それに……恵くんには津美紀ちゃんがいたから。今は呪われてしまった津美紀ちゃんを助ける為に、自分の信念を強く持って生きる彼を誇りに思う。
「そういえば、日曜日五条先生とデートなんですよね」
「なんでみんな知って……まさか学生の前でも言ってるの?」
「いや。やけに機嫌がいいなと思って聞いたら、俺にだけ教えてくれたんです」
「どうせ話聞いてオーラ出してたんでしょ……全くあの人は」
学生にまで自分のプライベートを公言しているのかと頭を抱えた。しかも私を巻き込んで。まだ私が行くと返事をしていないのに言いふらすのは、周りから固めていく策略なのか、それともどうせ私が断るわけないと思っているのか。……おそらく後者だろうな、と考えてため息をついた。
「でも軽薄そうに見えて綾さんには一途っていうか、ブレないっていうか……そういう所は凄いなって思います」
「尊敬するところ間違ってるよ……」
一応最強呪術師なんだから、もっと他にあるでしょう。普段から学生に呼び捨てにされたり暴言を吐かれたりして威厳がないように感じてしまうけれど、あれでも呪術界の至宝だ。あの性格を差し引いてももっと尊敬するべきだと思うけどなぁ、と苦笑いする。
そんな私に気付かない恵くんは、何かを思い出したように「そういえば……」と顔を顰めた。
「綾さん五条先生と何かありました?」
「え? 何もないと思うけど……どうして?」
「いや、上手く言えないんですけど……なんかあの人最近変なんで」
「変って……」
それは元からじゃないの、と言いかけてやめた。それにしては恵くんの表情が険しかったからだ。面倒事に自ら首を突っ込むタイプではない彼が気に掛けるくらいだから、よほど五条さんの様子が変らしい。そう思うと私も少し興味が湧いた。具体的にどんな感じかと問えば「まぁこれも上手く言えないんですけど」と前置きをしてから話し出す。
「何か悩んでるのか、話しかけても上の空っていうか、ボーッとしてること多くて」
「へぇ。それは確かに珍しいね」
「それだけじゃないですよ。この前一人でいるところ見かけたんですけど、なんか思い詰めたような顔してて。気持ち悪くないですか?」
「え、えぇと……まぁ五条さんだってそういう時もあるんじゃない?」
「いいや。あれは絶対に変です」
俺だってあの人との付き合い長いから分かるんですよ、という恵くんの言葉はもちろん信憑性があると思っている。話に聞く限りでは確かに変だ。しかしいくら私の中で最近の五条さんの様子を振り返ってみても、特に不審な点は見つからなかった。私の前ではいつも通りだと思っていたけれど、もしかして意識的にそう振る舞っていたのだろうか。だとしたら何か私に隠し事でもあるのでは……? そう考えた末に出した結論がこれだった。
「彼女でもできたんじゃない?」
「いやそれはないでしょ。さっきの俺の話聞いてました?」
「でも実際モテるしねぇ。街に出ればしょっちゅう女の子に声かけられてるし、可能性はあるでしょ」
「もしそうだったら俺がぶん殴ります」
「ふふ、当たるといいねぇ」
術式があるから無理だろうけど、と笑う私に気分を害したのか、あからさまにムッとする恵くんが可愛い。
「なんで笑ってるんですか」
「恵くんが私のために怒ってくれるのが嬉しくて」
「そうじゃなくて。万が一五条先生が浮気してたとして、綾さんは怒ったりしないんですか?」
「え? ……うーん、怒りはしないかな。私と五条さんは恋人じゃないしね」
「たとえ好きじゃなくても、結婚相手が不誠実な男だったら嫌でしょ、普通」
恵くんは私と五条さんが結婚するものだと思っているので、そう思うのも無理はない。しかし私たちは世間一般で言う『婚約者』とは少し事情が異なる。政略結婚とかそういう問題以前に、お互いに結婚する気がないのだから『結婚相手』と言われてもあまり実感がないのだ。
しかし子ども相手にそのような大人の事情を説明するのは憚られて、誤魔化すようににこりと微笑んだ。こうやって笑えば、察しの良い恵くんならこれ以上追及してこないだろう。そう考えていた自分が浅はかだったとすぐに思い知らされる。
「ありがとね。でも恵くんはそんなこと気にしなくていいの」
「……どうしてですか。俺にとっては大事なことですよ」
珍しく食い下がる恵くんの姿を見て、やっぱりまだまだ子どもだなぁと思ってしまった。それが嬉しくも感じる私は、彼の保護者にでもなったつもりなのか。図々しいにも程がある。
「綾さんには幸せになって欲しいから」
真剣な顔で告げる恵くんは、もしかしたら津美紀ちゃんの面影を私に重ねているのかもしれない。そう思ったら胸が締め付けられて、何も言葉が出てこなかった。
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