こうして記憶を辿ってみると、婚約する前から私は五条さんとデートしていた事に気付いて何だか可笑しくなった。今日のお出かけがデートと言うならば、当時のもデートと言って差し支えないだろう。まぁあの頃の彼は今ほど優しくなかったし、私の事を女だと思っていなかっただろうけど。……あぁでも、私がじゃんけんに負けて買い出し係になると、いつも五条さんは一緒に着いて来てくれたっけ。
野球なんてやった事のない私は最初見ているだけだったが「綾もやってみなよ」と言われて強制的に五条さんの指導が入るようになった。昔からお嬢様だとか非力だとか散々馬鹿にされてきた私だけど、これでも呪術師。運動神経は悪い方じゃない。そもそもバッティングセンターでホームランを出すのにあまり力は要らない、そうアドバイスしてくれたのも五条さんだったなと思い出す。もちろん思い切り振るのがスカッとして気持ち良いのだけれど。
およそ10年振りに握ったバットの感触にあまり懐かしさは感じられなかったが、軽くスイングすると五条さんが楽しそうに笑う。彼は単純に野球が好きというのもあるけれど、俗世間を知らずに育った私の新鮮な反応を見るのをいつも面白がっていたっけ。
そんなことを思いながら今度はしっかり狙いを定めてバットを振ると、カキンッと良い音が鳴った。
「おっ、いいね」
五条さんの感心したような声が届いた直後、勢い良く前方に飛んだボールはヒットになった。久し振りの感覚に高揚感を覚えながら、せっかくだから次はホームランを狙おうと意気込む。しかし所詮は実際の野球などやったことのない素人だ。いくらバッティングセンターとはいえ、当然そう簡単にはいかない。タイミングは合っていると思うのだが、回転が悪いのか打球が上がらないのだ。五条コーチの「ボールの少し下を叩きな」というアドバイスを意識してバットを振り、何度目かの挑戦を迎えた時だった。
向かってきたストレートをバットの芯で捉えると──今までの数倍回転と速度を増して飛んでいった打球は見事ホームランパネルを直撃した。
何が起こったかは想像に難くない。インパクトの瞬間、無意識に呪力を込めてしまったというわけだ。まぁそれもご愛嬌ということで。
「見ました?! 今の! 満塁ホームラン!!」
興奮気味に振り返ると、五条さんはぶはっと吹き出した。
「なんで満塁? どこにランナーがいるんだよ!」
いや分かっているけれど、私の中ではそれくらいの臨場感があったのだ。そうは言ってみたものの、一度ツボに入った五条さんの笑いは簡単には収まりそうになかった。そんなに笑わなくったって……と恨めしい気持ちで睨みつけると、余計に可笑しそうに笑われたのでもう諦めることにした。なんだかこんなやり取りも昔に戻ったみたいで懐かしくなって、まぁいいかとつられて笑ってしまった。
「……そうやって笑うの久々に見た」
「え、ダメですか?」
「ううん。好き」
「はぁどうも」
「こんなイケメンに好きって言われてその反応って、綾ってちょっとおかしいよね」
「あなたにだけは言われたくない台詞ですね」
イケメンだからこそ、この反応なのだと察して欲しい。一々真に受けてたら心臓に悪いでしょうに。
「はい。次五条さんの番」
「いやー久々だからね。大丈夫かな」
「くれぐれも術式使わないで下さいよ」
「ん? フリ?」
「もう、そんな訳ないでしょ」
高専時代の五条さんは「赫の練習だから」とふざけて術式を使うことが多々あり、私が知るだけでも三回はホームランパネルを破壊している。一応弁償はしているものの、当時のスタッフにはすっかり顔を覚えられてしまい行くたびに嫌な顔をされていたっけ。そんな思い出が蘇り不安になる私などお構いなしに五条さんがバットを構える。
その後ろ姿が10年前のそれと重なった直後──この場にそぐわない轟音が耳に届いた。
それは球がバットに当たる音ではない、打球がパネルを直撃する音だ。確かに術式は使っていないようだが、それにしては凄まじい威力と速度の打球でホームランを連発する彼はここでも周囲の視線を集めている。だって普通の人ではあり得ないもの。どうやら少しばかり呪力を乗せているようだけど、きちんと力を加減をしてパネルを壊さなくなったのは大きな成長だった。……なんだかなぁ。悔しいけれど、結局格好良いんだよなぁ昔から。
「どう? 惚れ直した?」
「はい」
「あれ、素直じゃん」
「なんだか今日は学生時代に戻ったみたいで楽しくて」
バットを置いた五条さんが、ベンチに座る私の横に腰掛けた。汗一つかいていない彼にミネラルウォーターを差し出す私はあの頃と変わっていない。
「確かに生粋のお嬢様だった綾に色んな遊び教えるの楽しかったな〜。なんかイケナイことしてるみたいでさ」
「変な言い方やめて下さいよ……。でも五条さんと親しくしてるの、七海くんと灰原くんにはわりと本気で心配されてましたね」
「僕ってそんなに信用ない?」
学生の頃から呪術師なんてやっていたのだから、当然楽しい思い出だけではなかった。呪術界の厳しさはきっと経験した者にしか分からない。呪霊を祓い、完璧に任務をこなしたところで得られるものなど限られている。一方で、守れなかった時、失った時に心に負う傷はとても10代の子どもに抱え切れるものじゃない。己の未熟さを恨み、不条理な運命を嘆いたこともある。
けれど決して、目を背けたくなるような思い出ばかりだったわけではない。今日私を懐かしい場所に連れて来てくれた五条さんもきっと、同じように思ってくれているのではないかと期待した。
学生時代に五条さんが私に与えてくれたものは、私の人生においてかけがえのないものだから。その全てを否定しないで欲しかった。
「……あれから10年以上経ったなんて、何だか嘘みたいですよね」
呪術師をやっていて一番辛いのは、仲間の死。私も五条さんも、大切な同期を失っている。灰原くんは任務に失敗し17歳という若さで亡くなって、夏油先輩は高専を去り呪詛師となった。去年自らの手で親友を葬ったという点では、きっと五条さんの方が辛い思いをしている。それなのに………。
「10年っていっても、そんなに変わった気しないなぁ。今も綾がいるし」
それは五条さんなりの気遣いなのか、それともただの強がりなのかは分からなかった。もしかしたら本心なのかもしれない。けれど夏油先輩が離反した日のことを思い出すと今でも胸が痛む。
五条さんは普段あまり人に頼ったり、弱い所を見せたりしない。最強だから当たり前なのかもしれないけれど、私はそれが時々心配になる。任務で役に立つことは難しいけれど、少しでも彼の心の支えになりたい。そう思うようになったのはいつからだろうか。
「変わらないのは私たちだけってことですか? なんか嫌だなぁそれ」
重い空気にならないように、少しおどけて言ったつもりだった。先輩後輩から婚約者になり、10年経っても私たちの関係性はあまり変わらない。それが良い事なのか悪い事なのかは分からないけれど、今もこうして隣に居られることはそこまで悪い事のようには感じなかった。
しかし私の台詞に何を思ったのか、五条さんは一人思案するように黙り込んでしまった。珍しいなと思ったが別に返事を求めていたわけではないので、そっとしておいた方が良いかと思い口を噤む。五条さんでも感傷的になることくらいあるだろう──そんな気遣いをした私が馬鹿だった。
「綾は背も伸びなかったしね。頑張って牛乳飲んでたのに可哀想に、ぷぷっ」
「ちょっと。これでも気にしてるんですから」
「そうなの? 小さい方が可愛いよ?」
「いやそんな馬鹿にしたあとに言われても」
珍しく感傷的になっているのかと思いきや、口を開いたらこれだもの。そもそも五条さんが大きすぎるのだ。いつも見上げるこちらの身にもなって欲しい。私の身長は決して低いわけではないのだが、呪術師としては少し物足りなさを感じる。夜蛾先生に「あと5センチ伸ばせ」と無茶振りをされ毎日牛乳を飲んでいたのは懐かしい思い出だ。結局0.5センチしか伸びなかったけれど。
「でもまさか、五条さんが教師になるとは思いませんでしたよ」
「綾が言ったんじゃん。僕が教師に向いてるって」
「そうですけど……覚えてたんですね」
「当たり前でしょ」
かつて自分が言った台詞なら何となく覚えている。学生時代、よく私の訓練に付き合ってくれた五条さんはいつも的確なアドバイスをくれたので、本当に教えるのが上手だと感心したものだ。しかし当時私が「教師とか向いてるんじゃないですか?」と言った時には全く乗り気じゃなさそうだったので、後に彼が教師になったのとは無関係だと思っていた。
「今の僕があるのは、綾のおかげだから」
抽象的な物言いが気になって隣を向くと、五条さんはどこか遠くを見つめていた。彼が今何を思っているのかは分からない。けれど穏やかなその表情を盗み見て胸に安堵が広がった。
夏油先輩が呪詛師になってから、五条さんは変わった。高専時代の彼は夏油先輩の判断を善悪の指針にしていた節があるので、そんな親友を失ったあとは正直心配で目が離せなかった。もしかしたら夏油先輩を追いかけてしまうんじゃないか、なんて今じゃ失礼な話だけれど、当時はそれくらいの危うさを持ち合わせていた。
何が五条さんを変えたのかなんて確かなことは彼にしか分からないけれど、おそらく幾つもの要因が重なり合って彼を正しい方へと導いたのだ。だから私が特別何かしたわけじゃない。
「やだなぁ大袈裟ですよ」
「……わかってないね、本当に」
「え?」
ポツリと呟かれた言葉が聞き取れなくて首を傾げると、彼は少しこちらに向き直って私を見つめた。
「ちゃんとつけてるね」
言いながら触れたのは、私の胸元に光るネックレス。それは私の一級昇級祝いに五条さんがくれたものだった。細いチェーン部分は一般的なホワイトゴールドないしプラチナと思われるが、トップには見たことのない不思議な宝石が鎮座している。五条さんの瞳と同じ、吸い込まれそうな碧色。なんていう宝石なのかは分からないけれど、おそらく相当高価なものだろう。身につけるのは正直気が引けるのだが、これは『御守り』だと言われていた。一級にもなれば危険な任務も増えるから、ということらしい。パワーストーンのようなものだろうと勝手に解釈していた。
「五条さんが毎日つけろって言ったんでしょう」
「うん。その方が僕のものって感じがするでしょ?」
「えっ、これ御守りじゃなかったんですか?」
「それもある」
「それもって……」
御守りだというのは建前だったのだろうか。呆れたようにため息をつくと、私の心を読んだのか「言っとくけど嘘じゃないよ」と返ってくる。ネックレスから視線を移せば、少し顔を引き締めた彼が真っ直ぐ私を射抜いていた。
「僕が守るよってこと」
恥ずかしげもなくそんな台詞を吐くと、ひょいと私の手を掬い上げ──甲にそっと口づけを落とした。
まるで映画のワンシーンのような光景に驚いて、情けなく開いた口から声にならない声が漏れた。……ちょっと待って、五条さんってこんな気障なことする人だっけ……? 柄じゃないくせに、その整った容姿のせいで似合ってしまうのがズルい。少しズレたサングラスの上方から上目遣いでこちらを窺い見る碧眼と目が合い、じわじわと羞恥が込み上げる。おそらく顔が赤くなっているであろう私を見た彼は、満足そうにニタッと笑った。
「照れちゃって可愛い〜」
「……何か変なモノでも食べました?」
「何も? そういえばお腹空いたね」
夕飯食べてくでしょ? と話題を変え、スマホでお店を探し始める五条さんはもういつも通りだ。揶揄われていたんだろうけれど、いつも私ばかり振り回されているのは少し悔しい。だからといって私が彼にできる仕返しなんてないのだけれど。
「何か食べたいものある?」
「わりと何でも……」
「何でもいいが一番困るんだよね〜」
「そう言いながらもう予約してるじゃないですか」
寧ろ私に選択権があったのかと問いたい。別に私だっていつもお任せしてるわけじゃないのに。しかしこんないい加減な男に付き合うのにもすっかり慣れてしまった自分がいる。
もう……と小さく不満を漏らせば、繋がったままだった手を引くように五条さんが立ち上がる。いつだって私を引っ張ってくれた大きな手を見つめると、今でも胸が高鳴るのを感じた。
「ほら行くよ」
きっと誰に言っても共感してもらえないだろうけど、五条さんの隣は不思議と居心地が良い。結局これが、彼のそばから離れられない理由なのかもしれない。
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