「……本当に大丈夫なんですか?」
「へーきへーき! 全然酔ってないから!」
「酔っぱらいはみんなそう言うんですよ。あとそれワンコの頭です」
玄関に飾ってある犬の置物に向かって話しかけ、ヘラヘラしながら頭を撫でている五条さんは不気味だ。それにしてもいつの間にお酒なんか飲んだのだろう。乾杯酒もノンアルコールにしたはずなのに、店員が間違えたのだろうか。この見た目で下戸だなんて誰も思わないのか、彼が頼んだノンアルコールが私の元へ運ばれてくることは結構な頻度で起こる。しかし今日私が飲んだスパークリングワインは確かにアルコールが入っていた。まぁその一杯しか飲んでいないので私は全く酔っ払ってなどいないが。
だから普段の私の口からは決して出ないであろうこの台詞だって、別に酔った勢いで言ったわけでも何でもない。
「……泊まっていっても良いですよ」
いくら五条さんが最強とはいえ、この状態で特級呪霊にでも出会したら少々危険なのではないか。あくまでそう心配しての発言だった。それを聞いた五条さんはほんの一瞬フリーズしたように見えたが、すぐにいつものように「やだ綾ってば大胆ー! 悟襲われちゃうー」などとおちゃらけ始めたので、やはり言わなければ良かったかと少しだけ後悔した。
五条さんはこれまでも「お茶でも飲んで行きますか?」という私の社交辞令に首を縦に振ったことはない。あくまで婚約者として保っている一線を越す、即ちこの部屋の敷居を跨ぐつもりはないらしい。しかし夜分にこれ以上玄関で騒がれては近所迷惑なので、今日ばかりは大胆にならざるを得なかった。
「お願いですから、せめて酔いを覚ましてから帰ってください」
「……本当にいいの? 襲っちゃうよ?」
「もう少し自分の心配をしてくださいよ」
そうは言ってもゴネるだろう、なんて思っていた私の予想はあっさり裏切られた。あれだけ私の部屋に入るのを拒んでいた五条さんが「じゃあ遠慮なく」と言っていとも簡単に足を踏み入れたのだ。別に良いのだけれど、なんだか拍子抜けしてしまう。
ガチャン、とドアが閉まると急に静寂が訪れて、少しばかり緊張が走った。自分から言い出したものの、今まで異性を自宅に入れたことはない。……まぁでも、五条さんだし。そう無理やり自分を納得させて鍵を閉める。振り返ると、すぐ近くに立つ長身が呆れ顔で私を見下ろしていた。
「そんなんで大丈夫?」
「何がですか?」
「良心につけ込むヤツもいるんだから気をつけな」
「……五条さんみたいな?」
「そうそう」
なんだか的を射ない会話をした後、スタスタと先に行ってしまった五条さんを慌てて追う。よくもまぁ、初めて入った他人の家を我が物顔で歩けるものだ。少しもフラつくことなく歩く後ろ姿を見て、実はあまり酔っていないのでは……なんて思ってしまった。
「綾の部屋って初めて」
「いつも頑なに断ってましたもんね」
「あれ、拗ねてた?」
「いいえ。ただ、五条さんは入りたくないんだと思ってました」
「別にそういう訳じゃないけど。男には色々あんの」
「そうですか」
さほど興味もない上、本人も話してくれる気はないようなので適当に流してキッチンへと向かった。冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しコップに注いで手渡すと、その場で一気に飲み干して返された。そんなに喉が渇いていたのだろうか。それにしても、あまり使われた形跡のないコンロを目敏く見つけて「料理しないでしょ」と言う彼は意地が悪い。図星だが「綺麗好きなんです」と返しておいた。
キッチンから追い出してリビングのソファに座らせると、五条さんはきょろきょろと部屋の中を見渡した後、こう言った。
「女の子の一人暮らしにしては広いよね。寝室も別だし」
「まぁお給料は十分頂いてるので……」
「まさかとは思うけど、他の男を家に上げたりしてないだろうね」
「しませんよ。五条さんが初めてです」
「そう。ならいいけど」
「何ニヤニヤしてるんですか」
「初めてって良い響きだよね」
何やら気を良くしたらしい彼は、私の太腿を枕にして寝転んだ。突然の膝枕に少し驚いたが、拒否するほどでもないかと思いそのままにしておく。普段からスキンシップは多めだけれど、こんな風に甘えてくるのは珍しい。やはりまだ少し酔っているのだろうか。ふわぁと大きな欠伸をした後、少し身動いで眠る体勢を整えようとする姿はまるで猫みたいだと思った。サングラスが邪魔そうなので外してやると、少し見開かれた碧眼がきょとんとこちらを向く。私より年上なのに、こうした邪気のない顔は可愛いなぁと思ってしまう。
「寝るならベッド使ってください」
「でもベッド一つでしょ?」
「私はソファで寝るのでお構いなく」
「えー体痛めるよ?」
私を気遣いつつも、自分がソファを使うという選択肢はないらしい。渋々体を起こしたかと思えば勝手に寝室に移動しようとするし、あろうことか「おいで」と手招きする彼はこの家の主だったかと錯覚してしまう程の図々しさだ。まぁそれが五条悟という男なのだけれど。
「ほら一緒に寝よ?」
「いえ、本当の本当に遠慮します」
「大丈夫だよ何もしないから」
「それは分かってますけど、そういう問題じゃなくて」
「今更照れることでもないだろ」
「今更の意味がわかりません。普通に恥ずかしいんです、がっ……!?」
それは流石に、と必死に拒否するも呆気なく五条さんに捕まった。ガッチリ腰を抱かれたと思ったら、突如襲われる浮遊感。──そして次の瞬間には五条さんと二人でベッドの上にいた。彼の言葉を借りるなら『トんだ』のだ。信じられない、こんな事に呪力を使うなんて……。そう呆気に取られている間に、五条さんは私の体を抱いたままベッドに倒れ込んだ。
「……えっ、ちょっと五条さん?」
まさか本当にこのまま寝るつもりなのかと焦る。いくらセミダブルのベッドとは言え、規格外の大きさの男性と並んだら明らかに狭いわけで。こんなに密着した状態で寝れるわけがない。そう抗議したかったのに、五条さんはしばらく無言を貫いた後、大きく息を吐き出しただけだった。
「はー……綾の匂いがする。最高」
「……そういうの口に出さないでもらっていいですか」
「毎日泊まりに来ていい?」
「ダメです。ていうか今ももう酔ってないでしょ」
「うん。って言ったら、追い出す?」
いくら恋愛経験が無いに等しい私でも、いい歳した男女が同じベッドで寝るなんて有り得ないという常識はある。けれど私と五条さんが一緒に寝たところで何かが起こるなんて、それこそ有り得ないと思ってしまった。だってほら、捨てられた子犬のような目で見てくる彼に下心なんてある訳ない。酔いが覚めたとはいえ自分の家に帰るのが面倒になっただけだろう。
「……別に、良いですけど。今更」
こんなだから私は五条さんに甘いだなんて言われてしまうのだろう。流されている自覚はあるが、仮にこの展開が彼の思惑通りだったとしても、今更拒む気にはなれなかった。また「そんなんで大丈夫?」なんて呆れられるだろうか。そう思いつつ様子を伺うと、予想の斜め上を行く反応が返ってきた。
「綾は優しいね」
どうせチョロい女だと思ってるんでしょ、と憎まれ口を叩くつもりが叶わなかった。こちらを見つめる五条さんの表情が、声が、あまりにも優しかったから。
なんだか恥ずかしくなって背中を向けたら、今度はぎゅっと後ろから抱きしめられる。……何だろう、これ。ドキドキと心臓がうるさい。今まで五条さん相手にドキドキした事なんてないのに。
「好きだよ」
耳元で甘ったるく囁く彼は、この10年間で一番『婚約者』らしくないと思った。
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