動物園を出たのはまだ日が落ちる前だった。うちに来るのは良いとして、夕飯はどうするのかと尋ねた私に、悟は全く予想外の返事を寄越した。
「買い物して帰ろ。僕がご飯作ってあげる」
「え、本当?」
「うん。僕って何でもできるから」
「すごいね。何作ってくれるの?」
「一花の好きなもの」
何が良い? とは聞かれないので、すでに悟の中でメニューは決まっているようだ。二人で家の近くのスーパーに寄った際、彼が手に取る食材を見て何となく予想はついたが言及しないでおいた。それにしても悟が料理をするなんて意外だ。基本出前か外食で済ませているのかと思いきや、ちゃんと自炊もするらしい。今まで彼氏にご飯を作ってもらったことのない私は少し期待に胸を膨らませる。料理はわりと好きなので作るのは別に苦じゃないが、やはり人に作ってもらった方が美味しいものだ。
買い物を終えて家に着くと、築40年のアパートを見た悟が「年季入ってるねぇ」と悪意なく笑う。そう言われるのが嫌でこれまで彼氏をこの家に招いたことは無かったが、悟ならまぁ良いかと思い連れてきた次第だ。確かに外観はボロいが部屋の中は改装されていて綺麗なので特に問題はない。「オートロックじゃないなんて物騒じゃない?」と言われても、家賃の安さには変えられないのだ。彼には一生縁のない問題だろうけれど。
そうこうして部屋に入り、キッチンで食材をしまっているとリビングの方から悟の声がする。勝手に人の部屋を物色しているようだ。
「一花って今もゲームするの?」
「まぁたまに」
「うわこのシリーズまだ続いてんのかよ懐かし〜」
テレビの横に置かれたゲーム機器を見た悟がそんなことを言う。彼が食いついたのは、およそ20年にもわたりシリーズ化している人気RPGの最新作だ。そういえばその過去作は学生時代に同級生たちと遊んだこともあったっけ……と懐かしい記憶が蘇る。
「あぁそれ昔寮でやったよね」
「ねーこれやりたい」
「今日はダメ。やり始めたら帰らなくなるでしょ」
それよりご飯作ってくれるんじゃなかった? と言えば、悟は「作る作る」とすんなりキッチンへと向かった。勝手が分からないだろうから私も着いて行き、調理料や調理器具を用意する。
「やっぱり私も手伝うよ」
「いいから一花は座ってな」
悟は客なのに申し訳ないなと思いつつ、私のエプロンをつけた彼をカウンター越しに見守ることにした。そういえば、さっきはつい「今日はダメ」なんて言ったが、暗にまた来ることを許可してしまったことに気付く。こんなボロい家に来るよりも悟の家の方が快適に過ごせるはずなのに、何故彼は私の部屋に来たがったのだろうか。
「ねぇ悟の部屋ってどんなの?」
「興味あるの?」
「え、普通にあるけど」
「じゃあ家にプールあるって言ったら来てくれる?」
「別にプールなくても行くけど」
「まぁプールはないけど、ジャグジー風呂とトレーニングルームならあるよ」
「トレーニングルーム……やっぱり日頃から鍛えてるんだね」
脱ぐと凄いもんね、とは流石に言えなかったが、初めて彼の一糸纏わぬ姿を見た時はその筋肉美に驚いた。いつも黒い服を着ているためスリムに見えていたけれど、実は着痩せするタイプだったのだ。そんな事を考えていると、何故か悟の口元がだらしなく緩んでいる事に気付いた。
「何ニヤニヤしてるの?」
「いや、ようやく一花が僕に興味持ってくれたなって」
「何それ。大袈裟じゃない?」
そんな会話をしながらも、手際良く調理していく悟の姿に瞠目する。やはり今日の献立はオムライスで間違いなかったか。次第にチキンライスの香ばしい匂いが漂ってきて食欲がそそられる。それを綺麗に卵で包むテクニックは見事の一言で、私も見習いたいくらいだ。そして買ってきたサラダとスープを合わせれば、あっという間に豪華なディナーが完成した。
「わぁ美味しそう。いただきます」
「召し上がれ〜」
まずはオムライスを一口いただくと、ふわとろの卵が絶品で舌鼓を打った。見栄えも味も完璧で、これは洋食屋で出てきてもおかしくないクオリティだと感心する。何でもできる、と言っていたのもやはり出任せではなかったのだ。
「すごく美味しい……」
「それは良かった。カレーと迷ったんだけど、デートだしちょっと違うかなって思ってこっちにした」
「そう? 私は別にカレーでも良かったけど」
「ふふ、やっぱ一花って子供舌だよね」
「急に馬鹿にするのやめてよ」
「違うよ。可愛いってこと」
そう言って笑う悟を見て、物は言い様だなと思う。それから他愛もない会話をしているうちにペロリと完食してしまった。やはり人に作ってもらうご飯は美味しい。……いや、悟と一緒に食べたからかもしれない。私は以前から彼と二人で食事をするのが好きだった。だから彼氏と別れても、また悟と食事に行けるしまぁいいかなんて思うこともあった。しかし今考えると、それは妙な話だということに気付く。
そしてある仮説に辿り着く。まさか私は知らぬ間に、悟を心の拠り所にしていたのだろうか……と。
「一花? どしたの」
「……あぁ何でもない。洗い物は私がするから座ってて」
そう言って悟をソファに座らせた私はシンクの前に立つ。……変な事を考えるのはやめよう。その仮説が正しいかどうかはこの際重要じゃない。問題は今私が彼を好きになれるかどうか、ただそれだけだ。それにはまだ時間がかかりそうだが「次は私が作ってあげようかな……」なんて考えるあたり、少しは彼女としての自覚が出てきたのかもしれない。
ささっと洗い物を終えてリビングへ戻った私は、スマホを弄っている悟の隣に腰掛けた。静かだなと思っていたら、何やら穏やかな顔で画面を見つめている。
「何見てるの?」
「ん? これよく撮れてるなって」
そう言って見せられたのは──今日の私の姿が写った写真だった。動物園でのデート中に撮られたことが分かる写真が何枚か画面に映し出されて「いやコレ……」と呆れ返る。
「盗撮なんだけど」
「一花が撮らせてくれないんだからそれも仕方ないよね」
「堂々と犯罪を正当化しないでよ」
スマホを奪って消してやろうと思ったが、それは呆気なく失敗に終わった。悟に腕を伸ばされたら私の手が届くはずがない。それどころか「一花にも送っとくね」と言われて何故か私のスマホにもデータが送られて来てしまった。要らないんだけど……と思いながら手元で写真を確認した私は──思わず息を呑んだ。
……私って、悟の前でこんなに笑ってたんだ……。
「次はどこ行く?」
「映画と水族館以外で」
「なんで?」
「デートで行き飽きた」
「そういうこと言っちゃうのが一花だよね」
……しまった。と、つい本音を漏らしたことを即座に悔いる。いくら相手が悟でも、元カレとのデートの話題を持ち出すなんてマナー違反だろう。慌ててフォローするように口を開いたが、そこから出たのも紛れもない私の本音だった。
「私……今日楽しかったよ」
「うん知ってる」
「今までのどんなデートより楽しかった。でもそれは悟のことをまだ友達だと思ってるからなのか、自分でもよく分からないの」
「ははっ、一花らしいね」
……またそれだ。“私らしい”──それは悪いことのはずなのに、どうして悟は穏やかに笑っていられるのだろう。
「一応付き合ってるわけだし、私も悟を好きになる努力をしたいとは思ってるんだけど……」
「んー気持ちは嬉しいけど、その努力は無駄じゃない?」
「え、どうして?」
無駄、と言われて驚く。私は今までずっとそんな風に彼氏と向き合って来たというのに、その努力をバッサリ切り捨てられてしまったのだから無理もない。戸惑う私を見た悟は、感情の読めない顔でこう言う。
「人を好きになるって、理屈じゃないから」
……悟の口からそんな台詞が出るなんて意外だ。もしかしたら私が知らないだけで、彼は本気で恋愛したことがあるのかもしれない。彼も私と同じだなんて決めつけていた自分が途端に恥ずかしくなった。
やはり私には『五条悟』を正しく理解することは難しい。けれど、“もっと悟のことを知りたい”──この気持ちが恋愛感情なのかは分からないけれど、この時確かにそう思った。
「……いきなり難しいこと言うね」
「大丈夫。僕が教えてあげるから」
妙に優しい口調で言った悟は、そっと手を伸ばして私の頬に触れた。大きな手は私の顔半分をすっぽり覆ってしまい不恰好に思えるが、彼に触れられるのは不思議と心地良い。悟は「顔ちっちゃ」と笑うが、彼の手が大き過ぎるんだと思う。
「だから一花はそのままでいいんだよ」
「でも今まで……」
誰と付き合っても上手くいかなかったのだから、問題は私にある。そう続けようとした言葉は何とか心の中に留めたが、悟には通用しなかった。まるで私の心を読んだかのように顔を顰めると、不機嫌さを隠さず声に出す。
「今までの男なんて全部忘れろよ」
その台詞に脈拍が乱される。彼に責められたからじゃない。彼の瞳がいつになく真剣で、どこか切なげに煌めいていたからだ。動揺して言葉を失った私に、悟は「なぁ」なんて少し乱暴に呼びかける。まるで学生時代に戻ったかのように。
「俺のことだけ見て」
“食われる”──そう思った時にはすでにソファに押し倒されていた。噛み付くようなキスは初めての夜とは比べ物にならないほど荒々しくてすぐに息が上がってしまう。
やはり獰猛な肉食獣が『可愛い』はずがない。サングラスを外した悟を見てそう思った。