悟との動物園デートから早一ヶ月。結局あれ以来デートらしいデートはできていないが、それでも彼との交際は順調のように思えた。最近は忙しい合間を縫って、悟が私の家に来ることが増えたのだ。元々『お家デート』が苦手だった私は、家で二人きりになるより外へ出かけた方がまだ楽しいと思っていたけれど、悟と付き合ってからはその考えも改めるようになった。自分が悟のことを好きなのかはまだよく分からないが、彼と一緒にいるのはとにかく楽なので今のところ別れたいとは思っていない。
もしかしたら『恋愛』ってそんなものなのかもしれないな、と最近になって思う。別にドラマのような大恋愛に憧れていたわけではないのだが、無意識のうちに『恋愛』に対して高望みをしていた可能性も否定はできない。少なくとも私にとっての“人を好きになる”という感覚は、この程度のものなんじゃないだろうか……。そう思い始めていた、ある日のことだった。
「あ、バグった」
突然そんな声が聞こえてきて、夕飯を作る手を止めて顔を上げた。1LDKとはいえ狭いうちのリビングに190cm越えの男がいると余計に部屋が狭く感じる。しかしその空間で悟がテレビを見たりゲームをしたりソファで寝落ちしたり……と我が物顔で寛ぐ光景もそろそろ見慣れてきた。
現在彼が熱心にやり込んでいるのは、初めてこの家に来た時に興味を示していたRPGだ。仲間を集めて冒険して、最後は強敵を倒して世界を救う的な王道もの。私はすでに一度クリアしたので、今は専ら悟が一人で遊んでいる。
「あーなんかそれバグ多いみたいなんだよね。まぁそのうちアップデートで改善されると思うから」
「何それ。どゆこと?」
「今時のゲームはネットに繋げば色々できるの」
「へー時代の進化は凄まじいねぇ」
感心したように言う彼の声を聞きながら、切った材料を鍋で炒める。今日は時間がないのでカレーだ。悟から『今日行っていい?』と連絡が来た日は二人分の食事を用意するようになったが、張り切って手の込んだものを作ったことはまだない。人の事を馬鹿にしていた彼も大概子供舌なので、カレーとかハンバーグとかを作っておけば喜ぶ。
「昔遊んだやつなんてバグだらけだったよな」
「確か悟がキレて一回壊したよね? あれ夏油のだったのに」
「ちゃんと弁償したんだからいいだろ」
昔の話をしていると、時々悟の口調も昔みたいに戻る。本人は無意識なんだろうけれど、私はあの日のことを思い出して少しドキッとしてしまう。
──『俺のことだけ見て』
“俺”なんて一人称を聞いたのは何年振りだろうか。あの時、珍しく感情を剥き出しにしていた悟に言いようのない違和感を覚えた。あれが私を落とすための演技だったとは流石に考え難い。けれど彼が私を好きとも素直に思えなかった。
あれは私ではなく、もっと遠く、手の届かない誰かに思いを馳せているような……。
「一花これどーすんの? リセットしなきゃダメ?」
それは私の考え過ぎだろうか。つい深読みしてしまうのは、最近の悟の言動が不可解なせいだ。そもそも私を落とす『ゲーム』だったはずなのに、そっちのけで本物のゲームに熱中するのはどうなのか。そのRPGがやりたいだけなら、しばらく貸すから自分の家に持って帰ってやればいいのに。わざわざ家に来るぐらいだからセックスしたいのかと思っていたが、別に毎回そういうわけでもないし。
「……あのさ、悟ってなんでうち来るの?」
「え?」
「ゲームするため?」
「いやまぁそれもあるけど」
それはどっちの“ゲーム”なんだろう……とつい険しい顔をしてしまう。相変わらず考えの読めない悟に対し、得体の知れない苛立ちが募っていく。
一度鍋の火を止めてリビングへ向かうと、私のただならぬ様子を察した悟が慌ててゲームの電源を切った。
「どうしたの? ゲームされるの嫌だった?」
その台詞に図星を突かれた気分になった。……あぁそっか。私は悟にゲーム感覚で恋愛されるのが嫌になっていたんだ。好きでもない相手と付き合っていたのはお互い様だったはずなのに、彼の気持ちが私に向いていないことを知らされると、何故か今になって胸の奥がモヤモヤした。
私が本気で彼を好きになっても、その『恋』は実らない。だったらもう、そんな『ゲーム』は終わりにしたい。
「……ねぇ悟」
隣に腰を下ろし、真っ直ぐ悟の目を見つめた。それにはサングラスが邪魔だったので、断りも入れずに取り払う。世にも美しい六眼は今日も神々しく煌めいていて、私が映り込む余地なんて無いように思えた。
やはり私には『五条悟』は眩し過ぎた。悟と付き合っていたら自分も何か変われるんじゃないか、なんて希望的観測に過ぎなかったのだ。
「別れよっか」
「……あのー一花ちゃん? マジで何も意味分かんないんですけど?」
「出てって」
「いやいやそれは無理な話」
突然別れを切り出された悟は当然戸惑っている。我ながら勝手なことを言っているなとは思ったが、決して感情的になっているわけじゃない。冷静に状況を見極めた結果、これ以上悟と付き合っていても得られるものは何もないと判断したまでだ。だったら一刻も早く別れた方が良い。
これ以上彼の『ゲーム』に付き合うのも、ようやく気付けたかもしれない“人を好きになる”という感覚も──全部不毛だから。
「好きな子が泣いてるのに放っておけるわけないじゃん」
……本当だ。何で私、泣いてるんだろう……。まさか自分が別れ際に泣くような女だとは思わなくて困惑する。しかも自分から振ったのに本当に意味が分からない。それでも涙は止まってくれなくて、心配そうな顔をした悟に見られるのが嫌で両手で顔を覆った。お願いだから放っておいて欲しい。ていうか好きな子って、この期に及んでまだそんなことを言うつもりなのかこの男は。
「そういうのもういいから……」
「ねぇなんで泣いてんの」
「……わかんない」
「じゃあなんで別れようなんて言ったの」
「……やっぱり私、恋愛向いてないから」
「そんなの僕だってそうだよ」
こういう時に限って優しい声をかけてくる悟は卑怯だ。いつもみたいに不機嫌になって、愛想を尽かしてくれたらいいのに。そんな願いも届かず、顔を隠し続ける私の頭を抱いた悟は、トントンと優しく背中を叩く。まるで小さな子どもをあやすように。悟の手がこんなに温かいことも、こんなに心安らぐことも、最近まで知らなかった。
「……昔さ、絶対に振り向いてくれない女の子を好きになったことがあるんだけど……」
ポツリ、と独り言を漏らすように昔話を始めた悟に驚いて、少しだけ顔を上げた。けれど私の視界には悟の胸板しか映らないので、彼が今どんな表情をしているのかは分からない。
「そんなこと初めてだったから、その時はどうしたら良いのか分からなかったんだよね」
「……へぇ、悟でもそんなことあるんだ」
「あるある。ガキの頃なんて素直じゃなかったし」
「……それで? 結局その子を落とせたの?」
「ううん。でもずっと諦められなくて、一花と付き合うまでずっと友達続けてて……ずっと不毛だなって思ってた」
それじゃあ悟は、私にその女の子を重ねているってこと……? そう考えた方が納得がいく。彼が私を落とす『ゲーム』を始めた理由にも、私じゃない誰かに思いを馳せていたあの日の様子にも。
最後に謎が解けて良かったけれど、少しだけ悟のことを不憫に思った。きっと私と別れたらまた不毛な恋を続けるんだろうな、と容易に想像できてしまったからだ。確かに悟も私と同じで恋愛が向いていないというか、不器用なところがあるのかもしれない。
それにしても悟って案外一途というか、女々しいというか……。付き合ってから彼の意外な一面をたくさん知ったけれど、最後の最後に判明した驚くべき事実には思わず顔を顰めた。
「……馬鹿じゃないの」
「うわ酷っ」
「なんで脈なしの子にそこまで拘るわけ? 他にいくらでもイイ女いるでしょ」
「そうかもしれないけどさぁ……でも仕方ないじゃん」
「仕方ないって何が」
「言ったでしょ。理屈じゃないって」
……あぁそっか。悟は本気でその子のことが好きなんだ。そう思ったら少し羨ましくなってしまった。私にはない、“本気で人を好きになる”感覚を知っている彼が。……いや、本当に?
羨ましいのは悟じゃなくて……そこまで考えたところで、顔を覆っていた手を退かされたことによって私の思考は中断させられた。私の頬に手を添えて切なげに眉根を寄せた悟は、渇望するように煌めく瞳で私を見つめる。……やっぱりあの時と同じだ。聞くんじゃなかったと後悔した。
だってその眼差しは、その言葉は──悟がずっと恋焦がれてきた女の子に向けられたものだから。
「好きなんだよ。どうしても一花のことが」