01
『──陽葵』
どこか遠くの方から、誰かが私の名前を呼ぶ。その声には聞き覚えがあるような、ないような。ふわふわと、意識はまだ夢心地。そんな夢と現実の狭間で、そろりと私の頭に重みが乗っかる。人肌の温もりを感じるそれは、おそらく人の手だろう。……ううん、間違いなく私はこの手を知っている。
どうやらこれは都合の良い夢らしい。だって彼は私を「陽葵」とは呼ばないし、こんな風に優しく頭を撫でたりしない。
「美山……いい加減起きろって」
嫌だよ、まだ寝ていたい。せっかく良い夢を見ているところなのに。夢ならどうか醒めないで──そんな願いも虚しく、よく知る手に今度は肩を揺すられて徐々に意識が浮上していく。うっすらと瞼を持ち上げた直後、差し込む光が眩しくて手の甲で目元を覆った。
「んん……? んー」
「パンツ見えんぞ」
「……やだぁ出水くんのえっち」
ボーッとする頭でなんとか冗談を返し、きょろきょろと視線を動かす。どうやら私は作戦室のソファで眠ってしまっていたらしい。そしてチームメイトの出水くんが起こしてくれた、と状況は至ってシンプルだ。知らぬ間に私の体を覆っているブランケットは彼が掛けてくれたのだろうか。今の私は生身の制服姿。パンツが見える、というのもただの冗談ではなかったのかもしれない。お礼を言って起き上がると、なんというかまぁ想像通り、呆れ顔の出水くんが私を見下ろしていた。
「おはよう」
「おはようじゃねーよ。今何時だと思ってんの」
「何時?」
「22時」
「うそぉ」
そんなまさか、と部屋にあるお馴染みのカニ時計を確認したがやはり彼の言う通りだった。今日は防衛任務がない日なので早めに帰るつもりでいたのにとんだ誤算である。もっと早く起こしてくれれば良かったのに……とは思うが彼を責めるのはお門違いだ。作戦室に一人置き去りにされなかっただけでも感謝しなければ。急いで帰り支度をしようとすると、ふいに小さく噴き出すように笑った出水くんが私の頭に手を伸ばした。
……やっぱり同じだ。夢の中と同じ出水くんの手は、夢の中よりやや雑な手つきで私のボサボサ頭を整える。平気で異性の髪に触れる彼は、見かけによらず女の子の扱いに慣れているのかもしれない。その事実に多少複雑な気分になりながら、黙ってされるがままになる私。ゴツゴツして男らしいわけでもなく、指が長くて綺麗というわけでもないけれど、私は出水くんの手が好き。けれどそんなことを言ったら、きっと照れてやめてしまうだろうから言わない。
「出水くんこんな時間まで何してたの? ランク戦?」
「あー少しな。帰ってきたらおまえが爆睡してて、全然起きねーから諦めて課題やってた」
「うわぁほんとごめん」
「いいから帰ろーぜ。腹減った」
「うん。あ、鞄にお菓子あるからあげる」
私と出水くんの関係は、恋人でも幼馴染でもクラスメイトでもない。ただのチームメイトだ。通っている学校も違うため、顔を合わせるのは基本的にボーダーのみ。とはいえ彼とは約3年前に同期入隊し、太刀川隊に入る前から一緒にチームを組んでいる仲なので、ボーダーで共に過ごしてきた時間はおそらく他の誰よりも長いだろう。少なくとも一介のクラスメイトよりは深い仲であると信じている。彼の方がどう思っているかは知らないが、本部からの帰りはこうして私を家まで送ってくれるので、良好な関係を築けていると思っていいのだろう。
本部を出て、今日も7割の歩幅で帰路につく。私がわざとゆっくり歩いていることにきっと彼は気付いているけれど、文句を言われたことはない。
「出水くんはきのこ派? たけのこ派?」
唐突な質問に一瞬きょとんとした出水くんは、私が鞄から取り出したお菓子のパッケージを見てすぐに納得したような顔をした。右手にきのこ、左手にたけのこ。長きにわたり熾烈な派閥争いを繰り広げてきた誰もが知るチョコ菓子である。
「んー、どっちかって言うときのこ?」
「わーおんなじ!」
同志を見つけて上機嫌の私は「さすがわかってるねぇ」と言いながらきのこのチョコ菓子を出水くんに差し出す。世間一般的にはたけのこの方が多数派らしいので余計に嬉しい。
「でも最近たけのこもいいなって思うんだよね」
「浮気かよ見損なったわ」
「だって奈良坂くんが布教してくるんだもん」
「は、奈良坂たけのこ派なの? どう見てもきのこだろ」
「人を見かけで判断しちゃいけないよ出水くん」
同じクラスの奈良坂くんとはそこそこまぁまぁの仲であったが、先週の席替えで隣になったのをきっかけに以前よりも仲が深まった。彼がボーダーの任務で欠席した分のノートを貸してあげると、お礼にたけのこが添えられて返ってくるのだ。意外と甘い物が好きらしく、お菓子の新商品情報を抜け目なくチェックしているなど女子力が高い模様。
「奈良坂くんってね、本当にイケメンなの」
「そんなん知ってるっつーの」
「お弁当食べててもイケメン、黒板消しててもイケメン、花に水あげててもイケメンなんてすごいよねぇ」
「……なんだよ、好きになったのはたけのこじゃなくて奈良坂って話?」
「ううん、イケメンは目の保養って話」
何をしてても様になるなんて、イケメンってずるい。しかも奈良坂くんは見た目だけでなく性格までイケメンだし、頭も良いしボーダーでも優秀なNo.2狙撃手。本当に非の打ち所がない男だと感心する私の横で、出水くんは面白くなさそうに相槌を打つ。私が奈良坂くんばかり褒めるから拗ねているのかもしれない。
それからお互いの学校の話や、昨日見たバラエティ番組の話なんかをしている間に私の家が近づいてきた。出水くんの家とは完全に逆方向というわけではないけれど、私を送ると彼は確実に遠回りになる。申し訳ないと思いつつも、この貴重な時間を失いたくない私はいつも彼に甘えてしまう。
「そーいやテスト終わったら遠征だな」
まるで天気の話をするように彼は言った。普段からあまり悩んだり緊張したりしない出水くんらしいなと思う。A級1位部隊に所属する私たちは言ってしまえば遠征の常連組なので、彼にとっては特段新鮮味のないイベントなのかもしれない。
「うん。楽しみだね」
「楽しみって……遠足じゃねーんだぞ」
「そうだけど、私にとって近界って宇宙みたいなものだから」
それを調査するのってロマンがあると思わない? そう言って笑う私を見て、出水くんは呆れたような笑みを零す。未知の世界に不安がないと言えば嘘になるが、私は遠征に興味があり自ら志願している。私がボーダーに入ったのも単純に近界に興味があったからだった。
聞いた話によると近界には惑星国家と呼ばれる国が存在しており、太陽系の惑星のように軌道を周回するというのだからまさに宇宙だ。こちらの世界と接近した時のみ相見えるなんて、なかなかロマンティックな話じゃないか。……なんて三輪くんに言ったら睨まれそうではあるが、何も近界の国全てが敵とは限らない。手を取り合えばお互いにとってメリットも大きいはずだし、争いが減ればその分犠牲も減る。要するに近界民とも仲良くできるならそれが一番だと思っている私は、玉狛支部の思想に賛同する部分が大きいというわけだ。
「そのわりにはおまえいつもホームシックになるじゃん」
「そ、そんなことないよ」
「初めての遠征の時、緊張でメシが喉通らなかったの誰だっけ?」
「もう、そういうの早く忘れてよね……!」
出水くんは時々意地悪だ。こうして私の黒歴史を掘り返してくるなんて。彼の言う通り、初めての遠征時はとにかく緊張と不安でいっぱいで、とても人に言えないような醜態の数々を主に出水くんの前で晒してしまった。その全てを彼は未だに覚えているのだから恥ずかしいったらない。
けれどそれが彼に対する信頼に繋がっているのかもしれないな、とも思う。慣れない地での戦闘でも、不安で眠れない夜も、いつも出水くんが隣に居てくれた。
「……あんま無理すんなよ」
「んふふ、大丈夫だよ」
私を揶揄いつつも本気で心配してくれる出水くんはやはり優しい。嬉しくなって手を伸ばし、すぐそばにあった手をきゅっと掴んだ。立ち止まって横顔を見上げると、釣られて足を止めた彼がこちらを振り返る。
「だって出水くんが居るもん」
へらりと笑うと、出水くんは目を丸くして固まった後「あっそ」と言ってそっぽを向いた。この反応はたぶん、照れてる。ぎこちなく握り返された手の温もりを感じて、あぁ幸せだなぁなんて思った。
私たちはただのチームメイト。ずっと一緒に居たい、なんて言える関係ではないけれど、今はまだこの距離感が心地良い。近づいたり、遠ざかったり、それはまるで惑星のよう。