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「──陽葵」
大好きな彼が私の名前を呼ぶ。聞き慣れたはずの自分の名前も、彼が呼ぶと特別に聞こえるから不思議だ。
それはきっと私が彼を好きで、彼も私を好きだからだろう。なんて口で言うのは簡単だが、この広い世界で私と彼が出会い惹かれ合ったことは、実はとんでもない“奇跡”だ。確率でいうと1%にも到底及ばない、限りなく0に近い数字らしい。
そんな運命的でロマンティックな恋をしている私の日常は、いつだって幸せで溢れている。
「公平くん!」
「悪い遅くなった」
「ううん全然だよ」
今日は学校終わりに公平くんと駅で待ち合わせをしていた。初めての放課後デートというやつだ。少し息を切らした彼を見れば、急いで来てくれたことがわかる。学校から近い私の方が先に着くのは当然だから気にしなくていいのに……と思いつつも、本当は1秒でも早く会いたかった私は笑顔になった。
「お誕生日おめでとう。公平くん」
「おーありがとな」
本日9月21日は公平くんの誕生日だ。防衛任務もなくこうして二人でお祝いできることになって本当に嬉しい。去年は太刀川隊のメンバーでお祝いしたけれど、今年は付き合いたての私たちに気を遣ってくれたのか昨日皆で前夜祭をしたのだった。
大好きな彼氏の誕生日ということで、それはもう念入りに計画を立てて最高の一日を演出したかったのだが……それが叶わなかったのは私の不徳の致すところだ。言い訳になるが、付き合い始めたのが9月の頭だったので時間が足りなかったというのもある。新学期早々に出された課題やら文化祭準備やらに追われているうちに、あっという間に誕生日を迎えてしまったというわけだ。
大したプランを用意できていないことを先日正直に告げると、公平くんは全く気にしていない様子で「別にそんな気合い入れなくていーって」と笑ってくれたので少しだけ救われた。いずれにしても、せっかくの晴れの日なのだから私も笑顔でいたい。
せめてプレゼントだけでも気に入ったものを贈りたいと思い、今日は一緒にショッピングモールへ出掛けることにした。プレゼントを選んで美味しいご飯を食べて……とまぁ無難なデートではあるが及第点だろう。
「何か欲しいものある?」
「んー……考えてなかった」
「もう、考えといてって言ったのに。……でもいいの、実は公平くんにあげたいものはもう決まってるんだ〜」
電車で数駅移動し、ものの15分程度で目的地の大型ショッピングモールに到着した。ここに来れば大体のものは揃うので、自分の買い物をする時もいつもここだ。しかしデートで来るのは今日が初めてで、上機嫌に公平くんの手を引いた私は真っ先にメンズ物の服屋へと向かった。メンズ服なんて詳しくはないけれど、彼がよく着ている服のブランドくらいはチェック済みだ。
「服?」
「うん。パーカーとかどうかな?」
「おっいいなそれ」
パーカーは公平くんが好んでよく着ているし、これからの季節にも重宝するのでプレゼントにピッタリだと思った。しかし一口にパーカーと言っても、色もデザインもたくさんあって迷ってしまう。デザインは公平くんの好きなものを選んでもらってすぐに決まったが、問題は色だった。
「うーん何色がいいかなぁ……」
「わりと明るい色好きだけどな」
「確かに似合うよね。公平くんって髪が明るいから、赤とか青着るとすごく可愛い」
「……じゃあ却下で」
「えーなんで? いいじゃんコレとか」
「可愛いって言われて喜ぶ男がいるかよ」
『可愛い』という褒め言葉に公平くんは顔を顰めたが、私は楽しくなって笑った。実はこうして彼氏と一緒に服を選ぶことに憧れていたから、夢が叶って嬉しい。今度私の服も一緒に選んで欲しいけれど、公平くんはそういうの嫌がりそうだなぁ。
「じゃあ無難に黒とかグレー?」
「うーん……それだったら白の方がいいな」
「あっいいね白。私も好きだよ」
爽やかな白のパーカーを手に取り試着を促すと、公平くんがその場でワイシャツの上から羽織った。以前太刀川隊の夏服を着た時も思ったけれど、彼は白がよく似合う。
「うん! 大人っぽくて格好良い」
「じゃコレがいい」
「おっけー」
今度はちゃんと『格好良い』と言うとすんなりOKが出たので、レジに運び会計を済ませた。とりあえずプレゼントを買うという目的を果たせてホッと息をつく。公平くんは服を選ぶのにもあまり悩まないので助かる。私はわりと優柔不断な方なので少し羨ましい。しかし思ったよりもあっさりとプレゼントが決まったので、夕飯までまだ少し時間がある。
「陽葵はどっか見たいとこないの?」
「私はいいよ。時間かかっちゃうし」
「別にいーけど」
「あ、じゃあちょっとだけリップ見ていい?」
「……またリップ増えんの?」
「違う違う。今日買いたいのは薬用のリップクリーム」
これから乾燥が気になる季節がやってくるので唇のケアは欠かせない。それにほら、最近は別れ際に公平くんがキスしてくれるようになったし……。キスの時に女子の唇がカサつくなんてことがあってはならない。何なら今よりもっとうるツヤ唇を目指したい。そんな思惑を隠しながらドラッグストアに入り、リップ売り場で豊富な商品が陳列されているのを眺める。
「匂い付いてるのが欲しいんだよねー」
普段はフルーツ系の香りを選ぶことが多いけれど、せっかく公平くんが隣にいるので彼の意見も聞いてみようか。もしかしたらキスする時に匂うかもしれないし……とすぐにそういうことを考える自分が恥ずかしくなって頭を振った。
「ねぇどんな香りが好き?」
「……え?」
「? 公平くん?」
「わり、ぼーっとしてた。なに?」
「えっと……色んな香りがあるんだけど、公平くんはどういうの好きかなって」
「んー特に好きとかはないけど、あんま甘ったるいのはちょっと苦手かも」
「だよね私も。じゃあこの柑橘系のやつにしようかな」
公平くんの「いいじゃん」という言葉に後押しされて珍しく即決した私は、ささっと購入して店を出た。その後は彼がノートを買うと言うので文房具屋に寄って、たまたま目に入ったペットショップで愛くるしい子猫に癒されて、普段行かないようなお洒落なレストランで食事をして……楽しい時間はあっという間に過ぎていく。食事を終えてショッピングモールを出た時にはすでに21時を回っていた。
電車で最寄り駅まで戻り、いつも通り私の家に向かって二人で歩き出す。公平くんの誕生日なのに私が送ってもらうなんて何だか申し訳ない。少しばかり歩調を速めようとする私に対し、公平くんは何故かいつもよりスローペースだ。そんな彼を不思議に思ってチラリと横顔を盗み見る。
やっぱり……今日の彼はどこか上の空だ。さっきリップを選んでいた時も、ご飯を食べていた時も。特に帰り道は明らかに口数が少ないし、あまり笑っていない気がする。……もしかして今日のデートが楽しくなかったのかな。私が一人で浮かれてたのかな……。急にそんな不安が押し寄せてきて、繋いでいた手にぎゅっと力を込めた。
「……ごめんね公平くん」
「……へ? なにが?」
「いやその……今日あんまり楽しくなかったかなって……」
「はっ? いやなんで? そんなわけないって」
「でもなんか、今日ちょっと上の空だったし……」
そう言うと、公平くんはバツが悪そうに頬をかく。その反応を見て、やはり私の思い違いではなかったのだと気を落とした。「……ちょっとそこで話さない?」と家の近くの公園を指差されて、恐る恐る頷く。誰もいない夜の公園は、平時とは違った顔をして私たちを迎えてくれるようだった。
「……ごめん。実はおれさ、今日……」
「うん……」
ベンチに並んで座ると、公平くんが言いづらそうに口を開いた。きっと良くないことを言われるのだろうと覚悟して、自身の足元を見つめる。──が、次の瞬間に聞こえてきた台詞は、私の予想の斜め上を行くものだった。
「どうやって陽葵とキスするかってことしか考えてなかったわ」
「……はい?」
「しかも途中でリップがどうとか言い出すからもう完全に意識がそっち行っちゃって」
……何それ。何それ何それ……! ぶわっと一気に顔が熱くなった。私の心配が杞憂に終わったことは良いとして、それとは別に問題がある。
「もう! 公平くんのえっち!」
「いや仕方なくね?」
「き、キスなんて、そんなのいつも通りしてくれれば……」
「それは違うじゃん。だって今日おれ誕生日だし」
すっかり開き直った様子の公平くんに「もっと特別な感じがいい」と駄々を捏ねられて耳まで真っ赤になった。彼の言いたいことが何となくわかってしまったからだ。
「なぁ、陽葵からキスしてよ」
「うっ……でも私きっと上手くできないし……」
「そんなんいーから」
私の体を閉じ込めるようにベンチの肘掛けに手をついた彼に、呆気なく逃げ場を奪われる。そのままキスしてくれればいいのに……と思うが今日はそうもいかないのだろう。静かにそれを悟った私は、意を決して深呼吸をした。上手くできなくても、そんなことで公平くんが喜んでくれるのなら……。
「……目閉じててね」
「ん」
ドキドキする胸に手を当てて、いつも公平くんがしてくれる優しいキスを思い出す。少し顔を傾けて、恥ずかしいから息は止めて、しっとりと唇を合わせるように……。
「し、した」
「んー……もっかい」
「えぇ……」
「もっかいだけ」
「う、はい……」
誕生日だからというのもあるけれど、可愛らしくお強請りする彼に負けて頷いた。初めて自分からしたキスはとにかく緊張したけれど、公平くんからされるよりはまだ心が落ち着いていられたかもしれない。これならいけそうだと調子に乗った私は、彼の要求に応えてもう一度顔を近づけたが──二度目は同じようにはいかなかった。
先程はされるがままだった彼が、啄むように何度も私の唇にキスをする。……あれ、私がキスするはずじゃ……?
「……口開けて」
その台詞に、初めて聞く声色にどうしようもなく胸が高鳴った。そんな色っぽい声で言われたら、素直に従うことしかできない。少しだけ開けた口の隙間から、ぬるりとした熱いものが侵入してくる。うわぁ大人のキスだ……なんて思える余裕はすぐになくなった。
思わず逃げるように引っ込めた私の舌を追うように、彼のそれが動き回る。未だかつて経験したことのない感触に心臓が震えて、耐えるように公平くんのシャツをぎゅっと握った。舌同士を絡ませるものだというのは何となく知っていたけれど、ぶっつけ本番でそんなことできるはずがない。しかし今どんな顔をしているのかもわからない公平くんは、上手く動かせないでいる私の舌を器用に捕まえて吸う。
「んっ……はぁっ」
「陽葵……かわい……」
自分の口から漏れ出る変な声も、時折くちゅ、と小さく鳴る水音も、とにかく恥ずかしくて耳を塞いでしまいたくなる。こんな状況でその言葉を望んでいたわけではないのに、それでも公平くんに『可愛い』と言われると胸がきゅうっとなるから今の私はおかしい。無性に顔を見たくなって薄っすら目を開けると、今まで見たどんな彼よりも“男の人”の顔をしていた。あぁもうドキドキなんて通り越して心臓が爆発しそう……。
「ぁ、こうへ、く……」
色々と限界だった私は、助けを求めるように名前を呼んだ。すると数秒動きを止めた公平くんはスッと身を引いてくれたけれど……こちらも何やら様子がおかしい。
「……やべっ。ちょ、これ以上はやめとく……」
「う、うん……?」
気まずそうに視線を逸らした公平くんを見てまた不安になる。やっぱり私何か変だったのかな……。どうすれば良かったんだろう、と悩み出した末にもどかしさが募る。男の人を好きになったのも付き合ったのも公平くんが初めてだから、私には恋愛の経験値が足りていないのだ。
「ごめん……私下手くそで……」
「いやいやいや。んなこと全く思ってねーよ、つか上手かったら困るし」
「でも公平くんの誕生日なのに……私が大人の階段上ってしまった気がする……」
「ふはっ、なんだそれ」
落ち込む私の顔を覗き込んだ公平くんは、今度はちゅっと可愛らしいキスをした。……そんなキスもできるんだな、なんて思う。私は公平くんにキスされるといつもいっぱいいっぱいになるのに、彼ばかり余裕があるみたいで少し悔しい。そしてどうしても気になったことを口にせずにはいられなかった。
「……公平くんってキス好きなの?」
「え、そりゃまぁ」
「……なんか上手かったもんね」
「なんだよおれの努力を疑う気か? 毎晩イメトレにイメトレを重ねた成果だっつーの」
高二男子の妄想力舐めんなよ、とやけに堂々と言う彼がなんだか可笑しくて、ようやく私の顔にも笑みが戻った。キスのことばかり考えてしまうのも、どうすれば良いのかと頭を悩ませているのも、私だけじゃなかったんだ。公平くんも私と同じだとわかってホッと胸を撫で下ろす。しかし私も彼を見習ってイメトレしようかと思ったら「おれが教えたいからダメ」なんて言われてしまった。
その台詞は少し恥ずかしかったけれど、これからも公平くんと一緒に大人になれるならそれも悪くない。自分の誕生日でもないのにそんなことを思った一日だった。