
01
「やっぱり格好良いよね。D組の犬飼くん」
「ボーダーでも優秀らしいよ」
「彼女いるのかなぁ」
「この前D組の子と二人で街歩いてるの見たよ」
「えーうそショック」
人の噂なんて当てにならない。誰かに都合の良いように作られた嘘であることが殆どだ。『人の噂も七十五日』と先人たちが言うように、いつかは忘れられてしまう取るに足らない話。それに花を咲かせるのが人間の性だと言ってしまえばそれまでだが、私は噂なんて簡単には信じない。
それでも友人たちの話に聞き入ってしまうのは、私が彼のことを知る術がそれしか無いからだ。
「……でも犬飼くんってさ」
会話に参加しないのは不自然なので、私はいつもそれらしいことを言う。彼の本当の姿なんて何も知らないくせに勝手なことを言う。そんな自分が、吐き気がするほど嫌いだ。
「誰にでも優しいし、女の子にモテるし、付き合ったら苦労しそうだよね」
「あはは、まぁ確かに」
「澪は相変わらず辛口だねぇ」
私が話の腰を折ったところで、彼女たちはただ笑うだけ。格好良いなどと騒ぐが、誰も彼女になりたいなんて本気で思っていない。誰かが「それより今日の帰りスタバ寄らない?」と言えば簡単に犬飼くんの話題は終了する。七十五日どころか一日も保たなかったな、と私は思う。
彼女たちにとって、それっぽっちの存在なのだ。犬飼澄晴という男は。
◇
「あれ……澪?」
「……犬飼くん」
──“やらかした”。なんて、仮にも幼馴染の顔を見て思う台詞ではないが、顔に出さなかっただけでも褒めて然るべきだろう。そんなことを冷静に考える余裕ならまだあったが、それでも私は彼との予期せぬ遭遇に内心焦っていた。
犬飼くんと私は世間一般でいう幼馴染だ。同い年、家が近所、家族ぐるみの付き合い。そんな要素をたった数個並べただけで、誰もが私たちを『幼馴染』というカテゴリーに分類し、勝手に仲睦まじい二人を想像する。いくら家が近所とはいえ、彼の行動パターンを読めばそう簡単に出会すこともないというのに。……今日のようなミスさえしなければ。
「今帰り?」
「うん」
「随分遅いね。こんな時間まで何してたの?」
「何ってバイトだけど」
「え、バイト始めたの? 何の?」
「……別に何でも良いでしょ」
人に言えないようなバイトをしているわけではないのだが、何故か食いついてくる犬飼くんを不審に思ってはぐらかす。──が、ジッと向けられる視線に耐えかねて結局すぐに口を割った。
「普通のファミレスだよ」
「ならいいけど、もう少し早く上がったら? 夜道の一人歩きは危ないよ」
「高校生は大体みんな22時までのシフトなの。お母さんみたいなこと言わないで」
「あのねぇ。澪は女の子なんだから心配するのは当たり前だろ?」
顔を合わせるのは随分久しぶりなのに、犬飼くんはまるで普通の幼馴染のように私と言葉を交わす。空白だった時間の長さを露程も感じさせないくらい自然に。そんな彼の話術には舌を巻く。十中八九、私に気を遣っているのだろうけれど。
「……犬飼くんは優しいね。相変わらず」
「なんか褒められてる気がしないなぁ」
「褒めてるよ」
犬飼くんは優しい、それは私も知っている。誰にでも親切で、愛想も良くて、自分が無理して笑ってでも周りに気を遣う。そんな優しい人。
でもそういう優しさが、人を傷つけることもある。そんな残酷な現実を、私は知ってしまったのだ。
「……おれは優しくなんかないよ。それは澪が一番良く知ってるだろ」
悲痛そうに笑う犬飼くんを見ていられなくて目を伏せた。──また、“やらかした”。そんな顔をさせたかったわけじゃないのに……と自分勝手に胸を痛める。
幼馴染なんて名ばかりで、私たちの関係は数年前からギクシャクしていた。こうなるまでに幾つも未来への分岐点はあったはずなのに、気付いたらもう修復困難な所まで来てしまっていた。しかし自業自得だと言われても仕方がない。未来が悪い方向へ進んでいくのを、私はいつだって黙って見ていることしか出来なかったのだから。時間が解決してくれることを期待して、ただ時が過ぎるのを待った。そんな都合の良い話、あるはずが無かったのに。“何もしなかった”という過ちに、今になって後悔を感じていた。
「……犬飼くん」
「なに?」
「ありがとう」
「えぇ? ここでお礼?」
相変わらず不思議ちゃんだね、と犬飼くんは笑う。私のことをそんな風に呼ぶ人は彼しかいない。仲の良い友人にだって「澪ってクールだよね」と言われるのが常なのに。彼は今の私のことを何も知らない。けれどそれはお互い様だ。今の犬飼くんについて、私は風の噂で聞く程度のことしか知らないのだから。私と彼が共に歩んだ時間は、数年前で止まったままだ。
しかし時が経って気付いたこともある。私は犬飼くんに、また心から笑って欲しいんだ。あの太陽のように眩しい笑顔を、今度は私じゃない誰かの隣でもう一度。
だから私は歯車を回す。止まった時間を動かすように、ゆっくりと慎重に。
「私はもう大丈夫。だからそんなに自分を責めないで」
せめて彼だけでも前へ進めますように──そんな願いを込めて微笑むと、犬飼くんが息を呑むのが分かった。
「……じゃあね。おやすみ」
何も言われないのを良いことに、私は逃げるようにその場を立ち去った。少し足が震えていたことに、彼は気付いてしまっただろうか。……いいや、きっと大丈夫。数年前からずっと、気丈に振る舞うのは私の十八番だから。