
02
家族ぐるみの付き合いなんてロクなものじゃない。と、二人分の弁当箱を眺めて思う。一つは当然私の分、そしてもう一つは犬飼くんの分だ。彼の母親は気さくで若々しい素敵な女性だが、少々遠慮というものがない。「あの子お弁当忘れて行っちゃったから、悪いけど澪ちゃん届けてくれる?」なんて簡単に言ってくれるが、私にとっては無理難題を押し付けられたに等しい。しかし断るわけにもいかなかった。彼女も私の母親も、犬飼くんと私の関係がギクシャクしていることに気付いていないのだ。高校生になっても同じ学校に通う仲睦まじい幼馴染だと信じてやまないので、こちらとしては何だか騙しているようで少々負い目を感じてしまう。しかし男女の幼馴染なんて成長すれば疎遠になって当たり前なのに、親も周囲の人間も『幼馴染』に幻想を抱き過ぎではないか。漫画でよくある『幼馴染とのラブストーリー』なんて所詮フィクションで、現実にはまず存在しないのだ。
兎にも角にも、私はこの弁当箱をどうにかして犬飼くんに渡さなければならない。何か良い手はないかと策を講じると、幸いにも即座に名案が浮かんだ。
「荒船くんってボーダーだったよね? D組の犬飼くんと仲良い?」
「犬飼? まぁ会えば普通に話はするが……アイツに何か用か?」
「実は犬飼くんにこれを渡して欲しくて」
隣の席の荒船くんに弁当箱を差し出すと、彼はギョッとした顔ですぐさま突き返した。この反応はおそらく、私のことを犬飼くんのファンか何かだと勘違いしたのだろう。
「いやいや、こういうのは俺から渡すわけにはいかないだろ」
「違うの、それ……」
犬飼くんのお母さんから預かってきただけだから──そう続くはずだった台詞は突然頭上から降ってきた声に遮られ、私は金縛りに遭ったように動けなくなってしまった。
「澪」
どういうこと……? 犬飼くんが私を訪ねて来るなんて想定外もいいところだ。高校へ進学してから今まで、彼が学校で私に話しかけてくる事なんて一切なかったのに。何故今になって私に構うのかと、困惑しながら彼を見上げた。
「あぁやっぱり。ありがと」
私の手元に視線を落として弁当箱を確認した彼は、ニコッと人好きのする笑顔を浮かべた。どこか芝居めいたそれに違和感を覚えつつも、無事に責務を果たした私はホッと胸を撫で下ろす。一方犬飼くんは、丁度空いていた私の前の席に腰を下ろした。もう用は済んだはずなのに何故……と思いジッと見つめたが、彼のターコイズブルーの瞳は私の弁当箱に向いていて視線が交わることはない。何と声を掛けて良いのか分からないので、私は構わず自分の弁当箱を広げることにした。前の席から犬飼くんが興味深そうに覗き込んでくるのも気にせずに。
「それ自分で作ったの?」
「そうだけど……何?」
「やっぱ器用だなと思って。あっ卵焼き! おれ澪の作る卵焼き好きなんだ」
「はぁ、ありがとう」
「ね、それちょーだい」
そんな可愛らしいお強請りをした犬飼くんは、私の許可も得ずに驚くべき行動に出た。そっと右腕を掴まれたと思ったら、私が箸で掴んでいた卵焼きは強制的に彼の口まで運ばれてパクッと食べられてしまったのだ。突然のラブコメのような展開について行けない私はただただ呆気に取られる。「あーこれこれ。やっぱ卵焼きは甘くないとね」という台詞に何も返せないでいると、隣から遠慮がちに荒船くんの声が掛かった。
「……お前ら付き合ってんのか?」
「ははっ、違うよ。ただの幼馴染」
「お、幼馴染……?」
荒船くんはあからさまに“しっくり来ない”という顔をした。元恋人だと言われた方がまだ納得できる、というような。幼馴染と聞けば大抵の人は気の置けない仲を想像するだろうから、余所余所しい私の態度は一層彼の目には奇妙に映ったのかもしれない。しかしアッサリ荒船くんにバラすなんて一体どういう了見か。状況的に仕方なかったとはいえ、犬飼くんならもっと上手く立ち回れただろうに。まるでわざとバラしたかのような態度に思わず非難の目を向けた。しかしそんな視線をヒラリと躱すように、彼は「ごちそうさま」と言って立ち上がる。
「今度はおれの分も作ってよ」
そう言い残し、私の返事も聞かずに去って行った。……何だか嵐のようだったな。突然の非日常を体験した私は暫く心が落ち着かなかった。犬飼くんは何がしたかったのだろう……と頭を捻っていると、隣から妙な視線が刺さっていることに気付く。単なる好奇心とは違うそれを無視できなかった私は自ら口を開いた。
「“意外”って顔に書いてある」
「そりゃ二人が話してるとこすら見たことなかったからな……犬飼からも幼馴染がいるなんて聞いたことなかったし」
「犬飼くんってモテるでしょ。変に勘違いされると面倒だから、彼とはなるべく関わらないようにしてるの」
「へぇ……大変なんだな」
今の説明だけで色々と察してくれる荒船くんは大人だ。同じ委員会に属する彼は、クラスの男子と接点の少ない私がしばしば会話をする数少ない相手だ。彼も犬飼くんと同じくボーダーで優秀な隊員らしいので、人気者の部類に入るのだと思う。犬飼くんと違って誠実そうだし、密かに想いを寄せている女子も多そうだ。そんな彼と普通に話せていることは私にとって大きな意味を持つ。
やはり私はもう大丈夫。そう言い聞かせて残りの弁当を胃に収めた。
◇
「おつかれー」
「……何でいるの?」
「澪のお母さんに聞いた」
22時までのバイトを終えて外に出た私の前には、何故か犬飼くんの姿があった。先日家の近くで交わした会話と照らし合わせると、私を心配して迎えに来てくれたことが分かる。彼に会うのは本日二度目。昼休みの事といい、一体どういう風の吹き回しかと僅かに眉を顰めた。
「気遣わなくていいのに。それともお母さんに頼まれた?」
「ううん。おれが来たかっただけ」
そう言ってさり気なく私の荷物を持ってくれる彼は、高校生とは思えない程に紳士的だ。流石二人の姉に仕込まれただけのことはある。
「今日はボーダーじゃないんだ」
「いや防衛任務だったよ。けど高校生は深夜シフトないから、大体22時には帰ってる」
「へぇそうなの」
「だからバイトの時は連絡してよ。迎えに行くから」
そんなの悪いし大丈夫──そう喉まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込んだ。こうして犬飼くんが私に構うのには当然理由があるのだろう。だとすればこれは単なる親切ではなく、彼なりに私との関係を修復しようとして打った策なのかもしれない。そう考えると、ここで彼の厚意を無下にするのは誤った選択のような気がした。
私たちの関係がここまで拗れてしまった原因はおそらく私にある。いつからか私は、事態が悪化するのを恐れて犬飼くんを避けるようになっていた。次に選択を誤れば、この“名ばかりの”幼馴染という関係すら失ってしまうような気がして、いつも一歩が踏み出せなかったのだ。
けれど今からでもまだ修復可能なら、私だってそうしたい。私はもう、何もしなかったことに対して後悔したくはない。もしかしたらこれは、彼と私の未来を変える最後のチャンスなのかもしれないと思った。
「分かった」
「……え?」
「何よ、そっちが言い出したことじゃない」
「そうだけど、素直に頷くと思わなかったから」
「頷かない方が良かった?」
「まさか」
露骨に嬉しそうな表情を浮かべる犬飼くんを見て思う。やはり私は、彼と“本物の”幼馴染に戻りたいのだと。何だか未練がましいな……と自嘲する私の横で、少し表情を引き締めた彼が「それよりさ……」と口を開いた。
「荒船と仲良いんだ?」
「荒船くん? 別に……たまに話すくらいだけど」
「澪が男と話してるってだけでも驚いたよ」
「だからもう大丈夫だって言ったでしょ」
あれから二年以上経ったのだから、私はもう大丈夫。しかし何も無かったことにして笑い合うのはやはり難しい。何故なら私も犬飼くんも、あの『事件』の当事者なのだから。おそらく私以上に、あの日の記憶は今でも彼を苦しめているのだろう。
中学生の頃から犬飼くんは人気者だった。いつもクラスの中心にいて、当然女子にもモテモテだった。その頃はまだ彼と仲睦まじい幼馴染だった私は、それを理由に女子からやっかみを受けることが多かったのだ。私の澄ましたような態度が余計に気に入らなかったのだろう。次第に露骨な嫌がらせを受けるようになり、それは“イジメ”という認識に変わった。それでも私は誰かに助けを求めることはしなかった。こんなのよくあるイジメだと、そのうち収まるだろうと甘く見ていた。だから中学三年生の冬──まさかあんな『事件』が起きるとは夢にも思わなかったのだ。それがきっかけで、私と犬飼くんの関係に修復困難な亀裂が入ることになろうとは。
イジメなんて今となっては馬鹿馬鹿しい話だし、そういう低レベルな事をするのはあくまで一部の低レベルな人間だけ。高校に入ってからはそういう事もなくなった。私の澄ましたような態度にも「クールだね」なんて笑ってくれる友人もできた。荒船くんのような人気者とも普通に会話できるようになった。だからもう、犬飼くんが気にする必要なんて全くないというのに。
「それよりどういうつもり?」
「何が?」
「昼休みのこと」
「学校で話しかけたこと? 卵焼き食べたこと? 荒船に幼馴染だってバラしたこと?」
「全部」
やはり確信犯かと溜息をつく。関係を修復するのは良いとして、いきなりあのような振る舞いをするのは如何なものか。きっと予期せぬ展開に当惑する私を見て楽しんでいたのだ。そう思ったけれど、彼の思惑とはまるで見解が違った。
「だってもう大丈夫なんでしょ」
「……え?」
「だから学校でも普通に接することにした」
彼の言う「普通に」とは「幼馴染として」という意味だろう。確かにもう大丈夫とは言ったけれど、その宣言は意外だった。優しい犬飼くんのことだから、学校での私の平穏を脅かすような真似はもうしないのだと思っていたのに。彼もまた『幼馴染』に幻想を抱く一人なのかと一瞬疑ったが、そういうわけでもなさそうだ。どこか懇願するような目で私を見つめる彼を見て、もしかしたら……という思いが湧き起こる。
犬飼くんは私に「一緒に前へ進もう」と言ってくれているのだろうか……? 時間を巻き戻すことは出来ないけれど、前へ進めることは出来る。さすれば未来は動き出す。ゆっくりと、それぞれの思惑を乗せて。
「犬飼くん……」
「あぁそれ。その他人行儀な呼び方やめてよ」
他人行儀と言われても、今の私たちにとって「犬飼くん」は妥当な呼称ではないのか。彼を「澄くん」と呼んでいたのは遠い昔の話で、中学時代ですら人前では名字で呼んでいた。幼馴染だからって下の名前で呼ばなければいけない理由もない。高校生にもなって特別感の強い愛称で呼び合おうものなら、周囲は私たちの関係を好き勝手に勘繰るのだ、厄介なことに。
「そっちこそ。もう子どもじゃないんだから、学校では下の名前で呼ばないでよ」
「えー無理だって今更」
「できるでしょ犬飼くんなら」
「無理だよ」
そんなはずはない。人間関係に角を立てないように振る舞うのは十八番だろうに、犬飼くんは何故か強い口調で「無理」だと言い切った。
「澪がおれの『特別』じゃなくなることは一生ないから」
それは多分……私も同じだ。しかし私たちはもうあの頃の二人ではない。空白だった時間の弊害が、早くも顔を出そうとしていた。