おねがい、ぎゅっと抱きしめて

私は、クラスメートである佐久間次郎が好きだ。佐久間とは中学一年の頃から同じクラスで、よく会話を交わしたり馬鹿をやったりするような親しい間柄だった。そんな関係を崩したくないというのもあり、私はいつになっても自分の気持ちを打ち明けられずにいた。

今までの関係性を築くか、自分の気持ちを伝えて楽になってしまうか。その双方で悩み、その度に深い溜息をついていた。

しかしある日、学校から帰ってきた私に両親はとんでもない事を言い出したのだ。

「名前、父さんの転勤で引っ越す事が決まったんだ」

これを言われた時の私の顔は酷いものだっただろう。表立って反対などせず、「そうなんだ」と一言で済ました。そのままその場にいたら、私はきっと両親に酷い事を言っていただろう。今まで私に散々お金を掛けてくれた両親に、親不孝はしたくなかったのだ。

これは、昨日の夜の出来事だった。そんな記憶を、私は学校帰りのこの帰路でぼんやりと回想している。…佐久間と、もう会えなくなってしまう。そのことを考えると、いつもは固いはずの涙腺がゆるゆると緩んでしまうのだ。

「よ、名字……って、その顔どうした?」
「……佐久間、」

本当にタイミングの悪い奴だ。こんな時に現れるなんて、我慢できたものも出来なくなっちゃうじゃないか。私はどうにかこみ上がってくる熱を抑えるようにぎゅっと拳を握る。そんな私の様子に、心配そうに顔を覗く佐久間。

…もうだめだった。次の瞬間、私の双眸からは大粒の雫が零れだした。その様子に佐久間はぎょっとして、慌てて背中をさすってくれる。

「さくま、わたし、…引っ越す事になっちゃったの」
「……は?」

優しく撫でてくれていた手はピタッと止まり、驚愕で目を見開く佐久間。あふれて止まらない涙を制服の袖でごしごしと拭い、ぼやける視界で佐久間の顔をとらえる。佐久間の手は、私の制服をぎゅっと掴んだ。

「……いつ、引っ越すんだよ」
「わかんない、…佐久間」
「何だ」

私は無理矢理笑顔を作り、佐久間に向き合う。これが最後だ。もう会えないのなら、気持ちを伝えてしまおう。伝えずに後悔する方が私にとっては苦なのだ。

「好きだよ」

未だあふれてくる涙でよく見えないが、さらに佐久間が驚いたような顔をした気がした。そんな顔を見られただけで、私は幸せ者だ。

「だから、さ。最後にぎゅって抱きしめて?」

これで諦めるから、と腕を広げる。最後のわがままだ。最高に彼を困らせてやる。ずっと、私の気持ちに気がつかなかった罰……みたいな感じで。

佐久間は右手を私の顔の前に持って行き、ぱちん、と額にデコピンをした。その衝撃に思わず痛っと声が漏れてしまう。こんな時に、デコピン?疑問符を浮かべて額を両手で押さえていると、今度は頭に重みを感じる。くしゃくしゃと私の頭をなで始めたので、すぐに佐久間の顔をちらりと盗み見る。

「諦めるなんて、勝手にそんな事決めんなよ」
「……え、」

ばっと顔を上げる。佐久間は不機嫌そうに、でもどこか照れくさそうにしてそっぽを向いていた。まさか、だなんて、都合の良い考えが脳裏をよぎる。

「俺も名字が好きだ」

だから、最後なんて言うな

と、ほんのり頬を染めて、涙で濡れた私の頬を佐久間の指がすべる。そんな動作ひとつひとつに目を奪われ、私は同じように顔に熱を集める事しか出来なくなった。

転校しても、また会えるだろ。そう言って抱きしめ、額にキスを送る佐久間の背中に手をそっとあてがい、ぬくもりを離さぬように胸板に顔を埋める。これも一種の奇跡、だなんて夢みたいな事をぬかしながら、私は残された時間をたっぷりと彼に染め上げて行った。