03 気まぐれ備忘録

「よっと」

軽い足取りで校舎の屋根を飛び越えていく。ここ、忍術学園には天才的トラパーなる人がいるため、迂闊に地面を歩いたら落とし穴に嵌り兼ねないのだ。

屋根を渡っていく方が目立つのは自分でも分かっている。が、私の影の薄さと村人Cとしての実力をナメてもらっては困る。たまに訓練中の上級生と鉢合わせるが、不思議なことに全く名前と顔を覚えられないのである。不運委員会に入っている割には随分と幸運なのだ。

ようやくくのたま校舎付近に着いて、下を確認した後に飛び降りる。下にはトラップの目印はなく、無事着地することができた。私はふぅ、と安堵のため息をついた後、自らの足をゆっくりと前に出して、地面を踏みしめる。

────筈だった。

「っうわ!?」

ずぼり。あまり聞きたくない、地面が崩れる音が足元で響いた。そう、私は結局落とし穴に嵌ってしまったのである。

そう言えば今日はいつもより風邪が強いから、きっと印が飛ばされてしまったのだろう。…結局、今日は不運委員会らしい事が起きてしまったではないか。

照りつける日光に目を細めながらも上を見上げる。少
し深めだが、ちゃんと忍具は持っているため上がれないことは無さそうだ。

「おやまあ、くのたまだなんて珍しい」

忍具を懐から出そうとした時、上からのんびりとした声が聞こえてきた。逆光で見えにくいが、きっとこの落とし穴を作った張本人、綾部喜八郎だろう。

「しかし、見たことない顔ですねえ。それもパッとしない顔」
「…はぁ」

可愛らしい顔立ちで、その口から発せられた言葉はとてつもなく失礼な言葉であった。しかし、言われ慣れている私は特に言い返すこともなく、煮え切らない返事で対応する。

私は再び忍具を取り出し、地上に刃を引っ掛ける。ぐいぐいと2回ほどしっかり引っ掛かったか確認した後、足で土を蹴るようにしてゆっくり登っていく。

「へぇ、ちゃんと上れるんだ」
「…まあ、忍具はちゃんとありましたし」
「そういう事じゃないんですけど…まあいっか」

じゃあどういう事なんだ。そこでお預けとか一番気になるやつだ。

変わらない無表情を横目に、刃についた土を軽く払って再び懐に仕舞う。

「じゃあ」と一言断って頭を軽く下げ、長屋に向かおうとすると、「待って」と平坦な口調で止められる。私は「何でしょうか」と返事をして振り返る。

「名前は?」
「私の、ですか」
「君以外に誰がいるの?」

急な質問にぽかんとする私に対して、綾部喜八郎はきょとんとした顔で少しだけ首を傾げている。その行動のなんと可愛らしいことか。思わず女子を辞めたくなってしまいそうである。

私は別に名乗ってはいけないほど有名な忍者でもないし、それに結局は忘れてしまうものだと思い、ゆっくりと口を開いた。

「名字名前ですよ。序に言いますと五年生です。ええと…」
「呼び方は任せます。ふむ、名字先輩ですか。僕は四年の綾部喜八郎でーす」

「有名なので知ってます」なんて言えるはずもなく、適当に返事をして流す。それと、きっとすぐ忘れるだろうから「よろしく」は言わないでおこう。無駄によろしくはしたくないし、忘れられるのに一々言うのも面倒くさい。

「それにしても名字先輩、本当に敬語抜けないんですねえ」
「え、それ何で知ってるんですか」
「善法寺伊作先輩に聞いたんです」
「…何で?」
「そんな事僕に分かるわけないじゃないですか」

そう、私は年上年下関係なく、敬語が全く抜けないのである。今まで色んな人達に指摘されてきたが、やっと敬語が抜けるまでかなりの時間を費やしたのだ。

しかし、善法寺先輩が何故私の事を話題に、しかもこの綾部君に話を切り出したのだろうか。…ん?そうなると名前を覚えられていたという事になるのか?まあ、考えても仕方ない事は分かっていたので気にせずに行こう。

すると突然、綾部君がぐいっと顔を近づけてまじまじと目を合わせて来たので、思わずびくりと肩を揺らして一歩後ずさってしまう。

「どうしても敬語外せない?」
「まあ、癖なので」
「どうしても?」
「…善処します」

綾部君からの微弱な威圧感にほんの少したじろぎ、渋々ながらも返事をした。

…うーん、こんな話をしていると名前を覚えてもらえそうな感じもするけれど、どうせそれは無いのだろう。だからまあ、どう返答しようと問題はきっと無い。きっと。

そんな話をしている最中、授業が始まる大きな鐘の音がゴーンと鳴った。私は思わず「…やべ」と声を漏らす。

「じゃあ、授業なので行きますね」
「はぁい。名字先輩、また会いましょうね」

無表情のその顔のどこか、何となく柔らかい雰囲気が感じ取れたが、きっと気のせいであろう。私はそんな彼を横目に、駆け足で教室へと進んで行った。