Heaven and Hell

 病気って、そんなに深刻なものなのかな。
 寿命って、そんなに大事なものなのかな。

 朝早く、私は部活用の服に着替えて専用のシューズを慣れたように履く。とんとん、とつま先を地面に打ち付ければまるで足の一部のように靴がぴったりとフィットした。軽い準備体操をさっさと済ませて長い坂道を見上げれば、私の頬は自然と緩んでしまう。軽やかに足を前に進ませ、私が走ることによって吹き付ける風をうんと堪能する。学校の直ぐ側にあるこの急で長い坂道は自然が多く、木々や土の匂いを楽しみながら走ることが出来るのだ。私はそれが大好きで、いつも毎朝このルートでトレーニングをしているのだ。

 走り続けてようやく息が切れてきた。少し休憩でもしようと思い、道の途中にある自販機でスポーツドリンクを一本購入する。キャップを開けてきんきんに冷えた液体を自身の喉に流し込めば、夏の暑い日差しで火照った身体が徐々に冷えていくのを実感できた。一気に飲んだせいで半分くらいに減った液体のお陰で、ペットボトルはすごく軽くなった。これなら持って走っても邪魔にはならないだろう。そう思って再び坂を登り走ろうと足を動かし始める。

 それから数分もしないうちに、後ろからシャーッ、と自転車のタイヤが転がる、軽快な音が聞こえてきた。そろそろ自転車競技部の朝練の時間なのだろうか。振り返ること無くそう予想した私は、邪魔にならないように走りながらも端に寄る。端に寄ったすぐ後だった。「あれ」と不思議そうな声が後ろから聞こえたのは。

「君、うちの学校の陸上部?」

 声を掛けられ振り返れば、自転車競技……否、ロード独特の自転車に跨がった青髪の少年が丸い目をぱちぱちと瞬かせてこちらを見ていた。
 ああ、この子見たことあるぞ。ええと、同じクラスの……「さんがく」って名前の人だったっけ? これまた同じクラスの委員長をしている宮原さんがよく「山岳!」と名前を呼びながら眉毛を吊り上げて怒っている様子が印象的だったためか、人の名前を覚えるのが苦手な私でもぼんやりと覚えていた。

「うんそう、陸上部だよ。きみは自転車競技部の人でしょ? 大変だねえ、こんな朝早くから」
「いや、オレは坂が好きだから全然大変じゃないよ」

 人懐っこい笑顔を浮かべながら自転車のハンドルを優しく撫でるその姿を見れば、本当に彼は自転車が……坂が好きなんだなあ、と一瞬で分かってしまう。私も彼と同じだ。走るのが好きで、この坂が大好きなのだ。それに、陸上をやり始める前は彼と同じロードの選手でもあったから、自転車で颯爽と長い長い道を駆け抜ける爽快さは身に染みて分かる。

「本当に坂が好きなんだね。すごい楽しそうな顔してる」

 私がそう指摘してみせると彼は「え、本当?」と良いながら片方の手をハンドルから離して自分の頬をぐりぐりとほぐし始める。整った顔はどんなに歪んでも整ったままなんだなあ、と思いながらじっと彼の顔を見つめていると「そんなに見られると流石に恥ずかしいよ」と言ってはにかまれ、私は慌ててごめん、と謝った。

「ずっと君の走り見てたんだけどさ、もしかして君も坂好きなの?」
「……よく分かったね」
「だって君も楽しそうだったから」

 私は坂が、というか走ればなんだって楽しくなってしまう性だ。自転車でも自分の足でも、走るのは本当に楽しい。自分の力加減で速度は自由自在に変えられるし、天気の良い日に走れば澄んだ青空の下で自然の匂いを感じながら走れるだなんて、楽しい意外に何と言えば良いのか。
 くすりと笑って「バレちゃったかあ」と言ってみせると「じゃあ同じだね」と笑い返された。

「あ、そう言えば名前聞いてなかった」
「言われてみれば。オレは真波山岳。君は?」
「山岳……きみにぴったりな名前だねえ。私の名前は、」

 自分の名前を言いかけたその時、遠くから「名前―!」と名前を呼ぶ声が聞こえた。ああ、きっと同じ部活の先輩だ。そう言えば自主練をしてくると言ってもう一時間は経っているんだった。そりゃあ探しにくるよな、と思い真波にごめん、と一言断る。

「先輩呼んでるからもう行かなきゃ。またね、真波」
「あ、うん! またね、」

 真波にひらりと手を振れば、彼も変わらない笑顔で緩く手を振ってくれた。先輩怒ってるだろうなあ、なんてぼんやり考えながらさっきよりもスピードを上げて走り出す。

「名前ちゃん、か」

 君こそ、ぴったりな名前だね。

 もう随分と遠くに走り去った私には、そんな真波の独り言は聞こえなかったのだけれど。