Heaven and Hell U
でも、分からなくは無い。私が過去にロードをやっていた時は彼と同じクライマーであり、今と変わらず坂は大好きだった。坂を登ると楽しくなるのは心から共感するものがあるが、真波がよく口にする「坂が呼んでる!」という台詞に関してはよく分からない。だって、私は彼と違って不思議ちゃんではないから。
そんな風に最近出会った彼の事を思い浮かべていると、出会いの場所である自販機のスペースまで辿り着いた。走って流した額の汗を手で払い、徐々にペースを落としていく。そうして視線を戻すと、フェンスに寄りかかった一つの人影を確認した。隣にはロード専用の自転車が同じようにフェンスに立てかけてあり、それを見ただけでその人が誰なのか予想がつく。
「あ、やっぱり来た」
「真波」
私の姿を確認した途端花が咲いたように笑う真波はまるで犬か何かのようだ。こりゃあ将来ファンが増えるだろうなあとぼんやり考えていると真波が「おーい名前さん?」と私の顔の近くでぶんぶんと手を振ってきた。ああいけない、こうして話の途中に自分の世界に飛んでしまうのは悪い癖だ。私はへらりと笑いながらごめんごめんと謝ると「分かってたけど名前さんそういう不思議な所あるよね」と言われてしまった。まさか不思議ちゃん当人に言われるとは思わず「えっ!」と声を漏らしてしまう。私は不思議ちゃんではない。
そう言えば私、真波に名前を名乗っただろうか。そんな疑問を察したのか「君の部活の先輩がそう呼んでたから」と理由を説明してくれた。なるほど、あの時か。思い返せば私、自分の名前すら名乗らずにあの場を去ったんだっけ。そう考えると結構失礼な事をしたなあと反省する。改めて自分の名前を名乗ると「そっか名字さんか〜」と真波が気にする様子も無く柔らかく笑ったため安堵する。
「真波は休憩中?」
「まあそんな所。それにここで待っていれば名字さんに会えると思ってさ」
「私に?」
きょとん、と首を傾げる。ただ少し走るのが好きでただ少し坂が好きだという少しだけの共通点しかない私に会おうだなんて、一体どういう訳なのだろうか。うーんうーんとどれだけ唸って考えたって、この不思議ちゃんの考える事はこれっぽっちも分からない。
「名字さんってロードやってたんだって?」
「へ、うん。そんなのよく知ってるね〜?」
「ちょっと風の噂でね。それで本題なんだけど、一緒にロードで坂登らない?」
「そっかそっかあ……え?」
まさかのお誘いだった。しかも私が昔ロードをやっていたという情報をしっかりと仕入れての誘い。いや用意周到すぎるのでは? 「坂が呼んでる!」と言いながら満面の笑みで坂を登っていく不思議ちゃんはやっぱりやることがちげえや……と思いながら先ほどの誘いについて考える。
そっと自分の心臓のある左胸に手を当てる。とく、とく、と一定のリズムで動くその鼓動を感じ取り、私は顔を上げた。
「最近調子悪いから何処まで登れるかは分からないからなあ……うーん、気が向いたらね」
「えぇ〜? 坂だよ? 坂が呼んでるのに登らないなんて事ある?」
「坂と会話出来るのは君だけだってそろそろ知っといた方がいいと思うな!」
それはそれは不満そうに眉間に皺を寄せながらブーイングをする真波に思わず苦笑してしまう。子どものように頬を膨らませてふてくされる様子は何だか可愛らしく、もし真波の身長が私より小さければ今頃頭を撫でくり回していた所であろう。
「それにしても『調子悪い』ってどうしたの? 怪我とか? 辞めた理由も同じ?」
「いや、ロードを辞めたのは陸上に興味があったからだよ。怪我……かあ。怪我じゃないけど怪我みたいなもんかなあ」
「えぇ、何それ」
理解出来ない、と言いたげに真波は大きな瞳をほんの少しだけ細める。そうだよ、理解出来なくていいんだよ。私はそう心の中でぼやいた。仲の良い友達にだってこの事は言っていないんだから。
昔より少し動きにくくなった、走る事の大好きな私にとっては不自由な身体を動かしていつも通り自販機でスポーツドリンクを買おうとポケットから小さな折りたたみ式の財布を取り出す。
「……げえ」
小銭入れのポケットを覗き込んで私は顔を歪ませる。中に入っているお金は十円玉と一円玉ばかり。そう、つまりはお金が足りないのだ。今日も走れるという喜びでついついお金を用意するのを忘れてしまっていた。私が思わずはぁ、と溜息を吐くと真波が私の後ろからひょこっと顔を出して「どうしたの?」と声を掛けてくる。
「いやあ、お金足りなくて飲み物買えないんだよね。……まあ仕方ない、教室行ったら友達に飲み物貰おうかな」
「それならオレのあげるよ。まだ全然飲んでないし」
「え、いいの!?」
真波は自転車のドリンクホルダーから容器を取ると私に「はい」と言って渡してきた。正直この暑さにやられて死ぬほど喉が渇いていた為凄くありがたい。ぎりぎりを生きる私にこの親切心を断るという選択肢は残されていなかった。私は何度もお礼を言いながらボトルを受け取って思い切り喉に液体を流し込む。からからに乾いていた喉がどんどん潤っていく感覚は本当に至福の時である。
「うう、助かったよありがとう真波〜! 正直死ぬかと思った!」
「あはは、大袈裟だなあ。山で困ってる人を助けるのは当然でしょ。あとそれ全部飲んでも大丈夫だから」
「神……? 神なのか……? じゃあ放課後洗って返すね」
「あとそれオレも少しだけ飲んだんだよね」
「……ヴァァ!?」
ケロッとした顔でもの凄い事実を言うもんだから思わず変な声を上げてしまった。何その声、とケラケラ笑う真波を気にする余裕もなく私は脳内で考えを巡らせる。
「ぜ、全然飲んでないって……!」
「全くとは言ってないよね」
「す、すごくいじわるだ……!」
恋愛ごとに耐性の無い私は自分で分かるくらい顔に熱が集まってしまう。そんな私を見た真波は笑いながら「顔真っ赤〜」と私の頬をつついて来たため思わず犬のように「がるるるる!」と威嚇をする。
「も、もう〜! からかうのやめてよね〜!?」
「ごめんごめん、名字さんの反応一々面白いからつい……ね?」
「可愛く言われても騙されません!」
ごめんとは言うものの全く反省の色が無い真波を見て「反省してないでしょ〜!?」と言いながら彼の頬をボトルを持っていない方の手でぐりぐりと押す。眉を八の字に下げて首を傾げ私の顔を覗き込む真波はあざとい選手権世界大会で優勝するに違いない。そしてあの有名人・東堂尽八先輩のようにファンクラブが出来てファンがどしどし増えるに違いない。私には分かる。手に取るように分かる。
「あー笑った笑った……。じゃあオレもう行くね。一緒に坂登れないのは残念だけど、いつかオレと勝負してよ」
「えぇ、まだ諦めてなかったの? まあいつかね」
坂の事になると全然譲らないなあ、と真波の頑固さを痛感しながら自転車に跨がり颯爽と坂を登っていく彼にゆるく手を振る。
きれいな青髪が靡く様子をぼんやりと見つめ、姿が消えた所で私は糸が切れたようにがくりと膝を地面に打ち付ける。息が荒い。汗が異様なまでに流れる。心臓が、痛い。私は服の上から鼓動を確かめるように手を当て、ぎゅっと服を掴んだ。
多分、私の『終わり』は近付いてきている。