Heaven and Hell V

 授業も部活も一通り終わり、日が沈みかける橙色の広い空を見上げる。一緒に帰ろうと誘ってくれる友人達に断りを入れて一人黙々と坂を登っていく。いつもはへとへとの部活帰り、残った体力で友人達と寄り道をして間食を摂っていたりしたものだ。

 それが、今日はそんな体力すら残っていなかった。ようやく辿り着いた山頂で、私はガードレールにそっと手をつく。じんわりと額に浮かぶ汗を鬱陶しそうに拭い、小さな溜息を一つ吐いた。今、私はゆっくり歩いていただけなのに、少しも走っていないというのに、いつもより心臓がひどく痛む。酸素が上手く回らない。こんな最悪な状態で友人達と一緒に帰れば心配されてしまうだろうし、いつも彼女達の前では元気な姿を見せている分、弱っている姿を見せたくないという私の意地が心のど真ん中に居座っていた。

 心臓を落ち着かせるためにガードレールを痛いくらい握りしめながらそっと地面にしゃがみ込む。だいじょうぶ、だいじょうぶ。私はまだまだ大丈夫だから。気休めのまじないのようなものを小さく口ずさんで深呼吸をする。

「君! 大丈夫か!?」

 もうここは誰も居ないと思っていたのに。後ろから声が聞こえてびくりと肩を震わせて恐る恐る振り返る。真っ黒な髪の毛に白いカチューシャを付けているのが印象的な、酷く顔の整った人がこちらを見て焦った様子で駆けつけて来た。ああ、この人女子に人気の先輩だ。真波と同じ自転車部の……なんだっけ、苗字忘れちゃったや。こんな所ファンクラブの人達に見られたら私殺されそうだなあ、なんてこんな時に呑気な考えがぽんぽん浮かんでくる。

「あ、すみません、大丈夫です。なんともないですから」
「そんな風には見えんぞ! っと、ほらこんな顔を青くして……! 救急車を、」
「いいですから!!」

 救急車という単語に思わずひゅ、と息を止めてしまう。急いで携帯を取り出す先輩の腕をぱしりと掴みそれを拒むと、先輩は眉間に皺を寄せて「だが!」と反論してくる。

「大丈夫です、慣れているので。それにこれ位で周りに迷惑掛けたくない、ので」

 無理矢理笑顔を作って安心させるように顔を上げる。先輩の顔には「納得いかない」と書いてあるようだ。それでも私の押しに負けたのか、はぁ、と息を一つ吐いてやれやれと言わんばかりにこめかみに指を押し当てて肩を竦めた。

「君、最近真波と一緒に居る女子だろう」
「それは……まあそう、ですけど。知ってたんですね」
「練習中に何度か君の姿を見ていたからな。それにあいつが坂以外に興味を示すのは珍しい」
「そう言われればそうかもしれない……」
「だろう?」

 先輩は諦めたように私の隣に並んでガードレールに腰掛けると何でも無いようにこちらへ話し掛けてきた。

 私に会えると思って、と坂で待っていてくれたのを思い出して、確かに珍しいかもと妙に納得してしまう。まあ仲良くしてくれると言うのは友人として嬉しいもので、自身の体調はまだ万全ではないものの少しだけ心がほっこりと温かくなる感覚を覚えた。

「確か名字さん……だったか?」
「はい、名字名前です」
「そうか。ああ、俺もまだ名乗っていなかったな。登れる上にトークも切れる! さらにこの美形! 天は俺に三物を与えた! 箱根の山神天才クライマー東堂とはこの俺の事だ!」
「あ〜……聞いた事あるような無いような……」
「なんだとー!?」

 それは聞き捨てならんぞ名字さん! と言いながら私の肩を掴んで必死に自分語りを始めてしまった東堂さんを見て思わず苦笑する。スイッチ入れちゃったか〜、と思いながらふと自分の体調がさっきよりも回復している事に気が付く。これなら何とか一人で帰れるなあ、と思いながらぼんやりと話を聞き流していると「おい、聞いているのか!?」と怒られてしまった。

「……ん? さっきよりも顔色が良くなったな。体調はどうだ?」
「そう言えば大分楽になりましたね。すみません、ご心配をお掛けしてしまって」
「これくらいいいのだよ、気にしないでくれ。……しかしまだ心配だな。途中まで俺が送って行こう。すぐ着替えてくるから校門の前で待っていてくれるか?」

 東堂さんのそんな誘いに驚き慌てて断るが全く聞く耳を持ってくれない。くそう、さっきの仕返しとでも言うのか。私が渋々頷くと東堂さんは満足そうに「それでいいのだよ」と笑って自転車に跨がった。東堂さんが着ている箱根学園、と胸に大きく書かれた青と白で構成されたジャージはよく学内や写真などでよく見かけるものだ。自転車競技部として箱根学園は強豪校と呼ばれる類いで、毎年IHの一位を獲得しているような優れた選手が大勢所属している。過去にロードをやっていたためそこら辺の一般常識はちゃんと脳内に残っており、むしろこの学校で知らない人はいないだろう。

 いけない、話が逸れてしまった。恐らく部活がもう終わるのであろう東堂さんは自転車で颯爽とこの激坂を下っていく。これじゃあ東堂さんが校門に着く方が早いかもしれない。そう思い私はなるべく急ぎ足で同じく坂を下って行った。

・・・

 校門前に着くと、案の定着替えもすっかり終えた制服姿の東堂さんが佇んでいた。夕陽が黒髪に反射して美形が更に磨きに掛かっているように見える。これを言ったらきっと調子に乗るだろうから絶対に言わないけれど。私が来たのを確認すると人当たりの良い笑顔を向けられて、きっとこういう所が周りに好かれる要因でもあるんだなあ、とぼんやり考える。これも絶対に口に出したりはしないが。

「すみません、私の方が遅かったですね」
「いやいいのだよ。ロードは早いから当たり前と言っても過言ではないぞ」

 そう言って愛車を優しく撫でる東堂さん。本当に自転車が好きなんだなあとその様子を見てつい関心してしまう。

 どうやら家の方向は途中まで一緒らしく、東堂さんはわざわざ自転車を引きながら送ってくれるそうだ。ここまでして貰って申し訳ないという気持ちとファンに殺されてしまうのではないかという恐怖で今日は眠れそうに無い。もしかしたら今日が私の命日なのかもしれない。お父さんお母さんそして友達の皆、今までありがとう。また来世頑張るわ。

 ふと、後ろから自転車を転がす音が聞こえてきた。東堂さんとほぼ同時に後ろを振り向くと、目を丸くして驚いた様子の真波がこちらを見て足を止めていた。

「……名字さんと東堂さん、いつの間に知り合ったの?」
「おお真波! まだ残っていたのか。名字さんとはついさっきだよ。具合が悪いと言うから俺が家まで送って行こうとしたのだが……」

 口の軽い男め!! 軽々と私の体調について触れやがって! と脳内で悪態をつきながらジトリと東堂さんを睨む。

「いや、真波がいるなら安心だな。じゃ、俺はここで失礼するぞ! 名字さん、何かあったら無理せず休め! いいな?」
「は、はあ……? ありがとうございました……?」

 突然一人で帰ると言い出した東堂さんと、どことなく不機嫌そうな真波に挟まれて何が何だか分からなくなってきた。何が起きたんだ? つまり私は東堂さんに見捨てられたのか? いやどちらでもいいんだけど。

 「ハッハッハッ!」と言いながら自転車で去って行く東堂さんを唖然としながら眺めていると「ねえ」と真波から声を掛けられる。

「体調は大丈夫なの?」
「あ、うん。ええと……ちょっと貧血、的な?」
「ふぅん」
「……あ〜、何か怒ってる?」
「別に?」
「あ〜……」

 怒ってるじゃん! 絶対怒ってるじゃんその態度! え、私何かしたっけ? 真波の大好きな坂を侮辱した覚えはないし、坂禁止令出した覚えもないし……あ、もしかして一緒に坂登らなかったあの時の事をまだ怒っているのでは……!? と慌てていると「名字さんが思ってるような事じゃないよ」と言われてしまった。なんで分かるの?

「何かあったらオレの事頼ってよ」
「……へ、」
「それとも、オレじゃ頼りない?」

 不機嫌そうな顔は変わらず、少しだけ寂しそうに瞳を揺らしながら私の顔を覗いてくる真波に少しだけむず痒い気持ちになる。

「わ、分かった、真波の事ちゃんと頼る、から、離れて、」
「ふふ、名字さん照れてる?」
「そ、そういう事は言わなくていいの〜!」

 真波のこういう可愛い所に弱いのを知ってか、私がしどろもどろになりながら頷くとそれはもう満足そうに笑顔を咲かせた。さっきの不機嫌そうな顔はどこへやら、と言いたくなるほどご機嫌である。実は真波、人をいじめるのが好きなのではないか? 実はドSなのではないか? と疑ってしまう程である。

 なんでそんなご機嫌になったの〜? と問うても真波は「名字さんは知らなくて良いんだよ〜」と言われるだけで、とうとう会話にもならなくなってきた。

「じゃ、そんな名字さんに免じて手を繋いであげましょう」
「なんで!?」

 思わず大きな声が出てしまったが仕方ないだろう。私に免じて、って何に免じたんだよ。もう分かんないよ不思議ちゃんの言う事は。

 困惑する私を余所に真波は流れるように私の手を取ってぎゅっと握った。じんわりと伝わる熱になんだか絆されてしまい、しょうがないなあと溜息を吐いてその手を握り返すと真波は目を細めてやんわりと笑う。これは最近分かったことだが私は真波のこういう柔らかい笑顔に弱いらしく、こういう笑みを向けられると何だか恥ずかしくなってしまう。少しの恥ずかしさ、それと彼が「生きている」と実感できる人特有の温かさについ頬が緩んでしまうのだ。

 私が居なくても大好きな坂を登り続け、周りのメンバー達に支えられてずっと幸せに生きて欲しいと思う反面、真波という折角出来た友人と一緒に居られないという寂しさが心の隅に靄として残っている事に気が付かない振りをして、私はさっきよりも軽くなった足を誤魔化すように動かした。