重い。水底に沈んだように身体が重い。気分も泥沼に浸ったように鈍く、動くことそのものが億劫になってくる。そんな鬱々としたオレとは対照的に、雑に閉めたカーテンから漏れる柔い光が起床時間だと告げていたのでさっさと起き上がることにした。
 今日行けば明日は休みなのだと気合いを入れたところで、朝から日を跨いだ先のことを考えるという方法は精神的にも肉体的にも疲労感が増すだけだと着替えが終わった後で漸く気付く。休日だろうと結局、彼女に会いたくて店へ向かう自分の姿が目に見えてしまう。
 眠ることに時間を費やした為、朝食を摂るような余裕は無い。練習着やらタオルをバッグに詰め込むと重い足取りで部屋を後にした。
 彼女が来るまでに随分時間がある。開店前――いや、もしかしたら練習中に姿を現すかもしれない。そんな淡い期待を抱いて今日も狂ったショーレストランへ足を進めていく。
 これが最近の、オレの日常の一つになってる。



「みなさん、練習お疲れさまです」
 彼女が訪れたのはレッスンが終わる昼時のちょうど手前だった。
 彼女の登場にいち早く駆け付けたのは他ならぬケイで、次に最年少の藍。続くようにリコ、金剛、ミズキが彼女の周りを囲んでいく。彼女がここにいるだけで自然と周囲の色が清らかになっていくのを肌で感じた。
 体力がただでさえ無いのに、スパルタと呼ぶに相応しいレッスンによってごりごりにライフポイントを削られたオレは完全に出遅れてしまった。それならば彼女らが談笑している間に少しでも体力を回復させようとその場に腰を下ろす。
 はた、と顔を上げれば輪の隙間から覗く彼女と目が合う。視線がやや泳いでいる――どうやらこちらの身を案じたようで、眉を寄せて心配そうに見てくるのか堪らなく申し訳なく思う。気にするな、とかぶりを震えば一応は伝わったのか浅く頷いてくれた。納得してくれているかは別だけど。
 藍が彼女に抱き着いて、それを引き剥がすケイ。珍しく動揺を見せたケイが面白くて煽るリコ、冷めた目で見守るミズキ、不機嫌になったケイを宥める金剛と彼女。端から見ると特にミズキは変化は無いように窺えるが、実際は彼の色が僅かに変化の兆しを見せていた。
 濁った色が少しだけ透き通るとでも言えばいいのか。自分と似た色を持つ者が間近で変化していくのを見ると、何故か心がざわついてしまう。街中の喧騒のような、そんな感覚が。彼女が関与しているときに限って。
 彼女といると心地が良いと思う人間は、このスターレスには多数存在する。その中にオレが入っているのは勿論だけど、多数の中の一人だと考えると途端に浅はかな考えの己を自覚して彼女と接したくないという気持ちが生まれもした。
 ただ、矛盾するように会いたくなる気持ちは変わらない。不明瞭な感覚で気味の悪さを覚える。
 この正体が何なのか、未だに解明できていない。



「ヒースさん、大丈夫ですか…?」
 休憩所で一休みしていると壁からひょこ、と顔を覗かせて声を掛けてきたのは彼女だった。
 その様が、彼女がなかなか店へ顔を出さずそわそわしていたいつかの自分と重なっておかしくて笑ってしまう。こちらが笑う様子をはて、と不思議そうに見つめてくるのだから尚更だ。
「うん。あぁ…大丈夫だから心配しないで。むしろその心配をもっと自分に向けてほしいくらい」
 狙われてるんだからさ――と付け加えると彼女はうう、と唸った後ですみませんと小声で謝った。自覚が持てていないことに対してのものだというのは明白で、まぁ仕方ないのかもしれないけど、と適当なフォローを返す。隣に座るよう促すと彼女は軽く会釈してから腰掛けた。
「今日は来るのが早くて驚いた」
「実は外でリンドウさんと会って、今日はBとPのレッスンがあるって仰ったのでそのまま一緒に」
 ――リンドウ。Pのリーダーで元アイドルという経歴を持ち、スターレスの中では比較的穏やかな部類に属するキャスト。自覚の有無を本人に確認したことはないが、結構な苦労を背負い込む人間だというのは色で把握している。殴り合いするような姿は見掛けたことはないが、彼女を積極的に守るという点では意外と頼もしいのかもしれない。案外、牙を隠していて喧嘩強い――という憶測は流石に失礼のような気がしたので頭から思考を取り払うことにした。
「リンドウと会わなかったら一人で来るつもりだったんじゃないの」
「えっ……」
 ずばり図星を突かれたようで、彼女は目を丸くしてから消え入りそうな声で「はい…」と頷く。この手の問題で窘められるのは初めてではないのと、ここで指摘されるとは考えていなかったのか狼狽えているようだった。
 彼女に非は無い、何しろ被害者だ。狙われる理由は定かではないし、襲う側が全面的に悪い。それでも彼女が警戒しない理由にはならない。…被害者に負担を掛けようとしているんだから、酷い話なのだと思ってはいるけれど。
「…ごめん、アンタは何も悪くないよ。でも、もう少し警戒心持った方がいい。本当に」
 ――何しろ店のオーナーがきな臭くて仕方ないんだから。
 喉まで這い上がってきた言葉を発することはなく、曖昧に微笑んで「今日はオレが送るから勝手に帰らないで」と代わりに付け足した。
「ありがとうございます、ヒースさん。それじゃあ…お言葉に甘えて今日はよろしくお願いします」
 律儀に謝意を述べる彼女は、先程の曇り掛かったものではなく晴れやかな表情へ変わっていた。
 そういうところ、警戒心が無いのだから困ったものだと本人に気取られないよう心中で溜め息を吐いた。


***


「今日はいつもと違ったような気がすんだけど」
 公演が終わり、舞台袖へ移動するとミズキから声を掛けられる。普段なら体調を気遣う言葉を投げるのに対し、今日は珍しく演技に関することを尋ねてきた。
「……違うって、どんな風に?」
 表情にこそ出さないが内心はそれなりに衝撃を受け、言葉を返すのがやや遅れる。自分の中では普通に演じていたはずだったからだ。
 作品自体にも、演じる役にも興味を示さないミズキが言うのだから非常に見て取れる変化だったのか――という衝撃。舞台の、自分の立ち振る舞いを今一度思い返そうとしても思い出せないのがある意味決定打だった。
「んー…なんつうか、普段よりも怒りを感じるみてーな。それが前面に出てた」
「……わかりやすかった?」
「たぶん。藍達も言わねーだけでなんとなく気付いてんじゃねーの」
 それだと客席にも伝わっていただろうな。改めてそう考えてみるとショックが大きい。何しろ今日は客席から彼女が観ていたのだから。今から彼女の席へ向かおうと思っていたのに。途端に両足が鉛のように重くなった。
 この場に穴があったら隠れることができて最高なのに。現実は残酷で舞台袖にそんな優しい代物は備えられていないし、全力を出し切ってすっきりしているはずが物足りない感覚に切り替わって気持ち悪く感じた。
 バクステへ向かうミズキの背中を暫く眺めてから、重い足取りでその後を追った。
 怒り、とはなんだろう――そう問いかけながら己の深層では理解出来ているのに、何故拒むように自問するのだろう。まったく矛盾だらけでイライラする。



「お疲れ様です、ヒースさん。今日の公演も素敵でした」
 シャワー室へ向かうミズキと別れ、ホールへ向かうと未だ客席には彼女の姿があった。他に客の姿が無いのを確認すると、どうやらここまで移動するのにかなり時間を掛けたのだと自覚する。空いている彼女の隣に座り込むと間髪入れずに、
「今日の公演…オレのマクダフはどうだった?」
 単刀直入に尋ねた。
 気持ち悪いこの感覚から解消されたいが為の浅はかな行動。先程の、彼女の言葉を流してしまったことに対して罪悪感が胸のあちこちで犇めいているのを感じる。それでも聞きたい。嘘偽りなく、真っ直ぐに。
 こちらの勢いに少し驚いた様子で見つめてきたが、やや間を置いてから彼女は胸に手を当てて小首を傾げながら応えてくれた。
「そう、ですね……普段よりも少し気迫があった気がします。上手く説明するのが難しいのですが…、特にマクベスを倒すシーンでは強い怒気を感じました」
 ミズキの言うように、怒り。向き合いたくない感情ではないけれど、理由を探り当てる行為は遠ざけたいものである。負寄りの力は時に大きな糧になるけれど今の状況では到底プラスになるとは考え難いから。それでも、現にこうして彼女にも伝わっているのだから改善しなくてはならない。
 彼女に聞いてほしくないけれど、彼女でなければダメなような気がしてくるのは不思議だ。これもまた、彼女の色なのかもしれない。
「…いきなり変なこと聞いて、ごめん。さっきミズキにも同じようなことを言われて、もしかしたらと思ってアンタに聞きたかった」
「ミズキさんも、ですか?」
 深くは問わず、端的に問い掛けてくる。うん、と相槌を打った後で身体の力を抜いてソファに凭れると少しだけ緊張の糸が緩んだ気がした。
 数時間前まで話し声が飛び交い、公演中は喝采で満たされ活気溢れていたホールとは思えないほど静まり返っていて落ち着かない。自分から漏れる吐息すらうるさく聞こえて、彼女の言葉を聞き逃してしまいそうな恐怖すら覚え始める。
 彼女は何も問いかけてこない。ただ傍にいる。待ってくれている。それに応える理由が存在する。
「……マクダフを演じているオレが、マクダフに殺されてるみたいな。そういう感覚になったんだと思う。マクダフとして怒って、でもオレ自身はマクダフに殺される……マクベスを殺しながらオレも殺してる気がした」
 我ながら意味のわからない言葉の羅列な気がする。でもそれが自分の中で一番しっくり来るのだから訂正の仕様がないのだ。
 隣にいる彼女の表情を視界に入れたくない。良くて呆れているかもしれないし、最悪引いている可能性があるのだから。彼女のことだからそういう反応は見せないだろうけれど、頭の中で不安が勝手に膨れ上がっていく。
 彼女の色が変わった様子はないけれど、彼女が言葉を発してこないことが少しだけ救いだった。

 客席から照明が消えたステージを眺める。ここからどんな顔をして彼女は公演を観ていたのだろう。そんな思考に耽ったのはほんの少しの時間で、沈黙を破ったのは他の誰でもない彼女だった。
 不意に、頬に感じる布地の感触から思わず彼女の方へ顔を向ける。じっと柔らかな視線でこちらを見つめていた。
 ――汗をかいていらっしゃるから……ハンカチで申し訳ないんですけど。彼女は言いながら優しい手付きでとんとん、と頬や首元を拭っていく。その間はひたすら微動だにせずに耐えていたのだけど。タオルで汗拭いてくるくらいの余裕さえも無かったと痛感させられた。
「…ヒースさんの仰ることが難しくて、全部はわからないんですけど……ヒースさんは、ご自身の中にある何かと戦っているのかなって、そんな気がしました」
 包んでくれたな、と感じた。何を、とは敢えて問わずに、
「……優しいな、アンタは」
 いつか彼女に言ったような言葉を、ここで伝えることになろうとは。彼女の例えが、考え方に棘が無いからこそ突き刺さらず素直に受け止めることができる。彼女のこういった色を好いている者は多いのだろう。あのケイももしかしたらその一人なのかもしれない。
 ありがと、と伝えれば彼女は笑ってくれた。それから続けて、
「ヒースさんが吐き出してもいいって言ってくれたように、私にも吐き出してほしいって思っていますから」
 ――だからいつでも話してください。
 オレと接していても決して色が濁ることはなく、輝きを増すばかりの彼女の笑顔につられて口角が釣り上がるのを覚えた。



「アンタのハンカチ、汚れちゃったから貸して。洗って返すから」
 さも当然とばかりにハンカチを持参してきた手提げに仕舞おうとする彼女に声を掛けても「気にしないでください」と手を止めず、失礼と思いながら手首を捕えて制止させた。思っていたよりも細かった、なんて感想が脳裏に浮かぶ。
 こちらの行動が予想外過ぎたのか「へ…?!」なんて珍しく間の抜けた声が漏れたものだから、少し笑いが込み上げてきて内心抑えるのに必死だった。
「気にするから。というか、アンタと話す口実くらいは作らせて」
「………え、」
 果たしてこちらの言葉をどう捉えたのか。彼女の頬が僅かに染まっていくのを見逃さなかった、というよりも凝視してしまった。
 そんな反応をするとも想定していないし、今更己の発言を思い返すと羞恥の波が一気に襲い掛かってきていたたまれなくなった。
 言葉の続きをどうか。伝える力をオレにどうか分けてくれないか。マクダフ。
 その為にもう一度をオレを殺してほしい。


end

 


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