海の底は死者の国のように暗い。気分すら暗くなりそうだとよく言われるけれど、それが日常だったのだから暗澹もクソもない。ただ、陸に上がって人間の足が生えてから海の底はとても寒い場所であるということに気付いた。
 足があればダンスだって出来るし、バスケだって楽しめる。裸足になって校庭を走るのも嫌いじゃない。初めて土を踏みしめた時、ひんやりしているのに何故か暖かさを感じてとても面白かった。
 それでも慢性的になれば飽きが生じる。楽しいことを次いで求めてしまう。自分自身が気分屋だってことは自覚しているし、周知にも知れ渡っている紛れもない事実。それに対して周囲が手を焼いているのを無論理解していても、善処して控えようだとかそんな優等生になれないしなりたくもない。
 例えば、今は魔法学の授業やりたくないからサボって学年が一つ下の小エビちゃんが受けてる授業に忍び込むだとか、眠りたいからバスケ部の部活動を途中で抜けるだとか。先生によりけりだけど、都度叱責されるか呆れられるかの二択だ。
 自分の心持ちによる言動がすべてまかり通るだなんて思っていない。調子や気分に波があることを理解してくれなんて駄々を言おうとも思わない。
 それでも、頭の隅でどれだけ解っていても落ち込んでしまう。そういう時に小エビちゃんに遭遇したら当たり散らすのは目に見えているから極力姿を追い求めないようにしていた。
 でも、今日はとても調子が悪くて。朝から何もやる気が出なくて。それでも最低限、授業に参加するけど空回りして失敗するしやらなければそれはそれで叱咤される。辛うじて誰も接触してこないことをいいことに、普段以上に注意散漫になっていたのかもしれない。
 苦しい。海の底に沈んだ気分って、こういうことなのかな。
 人魚である自分がそんな表現をするなんて、矛盾しててとっても笑えるね。



(足、痛ぇ。もう寝たいし帰りたい…)
 鬱々とした気分に浸りながら、中庭のベンチに座って空をぼーっと眺める。今日は雲が少ないから殊更陽の光が眩しくて、今の自分の気分とは真逆ゆえに鬱陶しさを覚えた。
 午後は飛行術の授業で、基本的には器用になんでもこなすタイプであると自他共に認めるくらいには魔法やスポーツ、音楽は得意な方である。が、飛行術に関しては正直頷き難いほど不得手だ。寮長曰く海の住人だから仕方がない、というのが最もな理由――に聞こえるけど生まれで決まるのはつまらなくて気分が悪い。
 飛行術を行う際に使用する箒から落ちることはしばしばある。今回も見事に落下したけれど、高さと落ちどころが悪かったのか右の足首に強烈な痛みが走った。
 俗に言う捻挫というものらしいということで、保健室で治療するように促されて向かっていたものの、授業中であるせいか閑散とした廊下を歩いていることに飽き始めて結局こうして中庭で休んでいるのが今の現状である。
 右足の運動靴と靴下を脱ぎ捨て、未だ痛みが疼く部位を視認してみると腫れて赤みがかっている。軽く触れてみると熱も帯びているようだった。
 元々低かったテンションが更に下がる。今頃真面目に授業を受けているジェイドには悪いけど、すぐにでも帰りたい気持ちになってきた。
「……フロイド先輩、大丈夫ですか…?」
 一瞬、ほんの一瞬。僅かな風すら止んでしまったような感覚に陥った気がした。
 だって、あっちから声を掛けたことなんて数える程度しか無い。それこそこっちが近付けば一歩下がるような反応が多いのに。どうしてこんな時に限って話し掛けてくんのって、突き放しそうになったのをどうにか堪えた。
「……んーー、大丈夫に見える?」
 傍らに佇んでいる相手の姿を視界に捉えれば主は紛れも無く小エビちゃんだった。ちっちゃくて、でもいつもデカいことしてみんなを驚かせるすごい子。バカ正直にうちの寮長の取引に応じて、絶望的な状況になっても全部ひっくり返しちゃうようなとんでもない奴。
 今日は会いたくなかった――授業真っ只中のこのタイミングで、しかも二人きりなんてそんな最悪な展開とかあるかな普通。いつも小エビちゃんの傍にいるアザラシちゃんの姿すら無いなんてこと、あるだろうか。
 小エビちゃんは授業をサボるようなタイプじゃないし、事情があるのかもしれないけど。それにしたって運に見放され過ぎてていっそ笑えてくる。
「先輩、怪我してるなら早く保健室に行かないと…」
「やだ。痛いし、廊下歩くの飽きたし……それよりも小エビちゃんはなにしてんの。授業は?」
 小エビちゃんの心配を他所に自分の問い掛けを優先させると、問答を諦めたかのように吐息を吐いてから隣に腰を下ろすと言葉を続けた。
「午前の授業中に倒れちゃったから保健室で休んでて。さっき起きて、教室へ戻ろうかと思ったら中庭にフロイド先輩がいたから」
「え……倒れたって、なに。身体はもう大丈夫なわけ?」
 ある程度意識して接さないようにはしてたけど、そういえば昼休みに食堂で見掛けなかったような気がする。てっきり弁当でも持参したのかと思ったけど、考えてみればあのオンボロ寮で料理するのは土台無理な話だって改めて思った。
 担保として押収していた時に滞在していることはあったけれど、最低限の寝床や浴室を確保しているだけの印象で他の部屋は大概埃っぽかったからだ。
「先生が軽い疲労だって言ってましたから。充分休んだし、もう元気ですよ」
「……元気ってさぁ、疲れてぶっ倒れてそんなすぐに回復するわけないじゃん。もう帰んなよ。なんなら寮まで送るから」
 送るって、その足で?――と言わんばかりの視線を小エビちゃんが向けてくる。まぁこういう反応はするとは思ってたけど、今更授業に戻る気なんて失せてる旨を伝えるとなんとなくは納得してくれたようだった。
 まぁ、話が平行線を辿りそうだからあくまで妥協してくれただけかもしれないね。
「じゃあ、保健室で治療してからお願いします」
「えー、めんどくさいー。そこはどうあっても譲らない?」
 小エビちゃんは「譲りませんよ」と即答する。普段以上にハキハキした答え方なのが少し腹が立つんだけど。知らぬ間に今日の己の不調が過ぎ去ったようで、苛立ちはどこへやら状態になっていた。
 ほら、行きますよ先輩――そう言ってベンチから立ち上がる小エビちゃんはそれが当たり前みたいに手を差し伸べてくる。
「手、繋いでてくれるぅ?」
 と、冗談ぽく言いながら差し出された手に自分の手を重ねて立ち上がる。ズキリと痛みが走るけど歩けない程のものではない。こっちの様子に察したのか否かは判断がつかないけれど、小エビちゃんは、
「いいですよ。フロイド先輩の気が済むまで」
 と言って手を優しく握り返す。律儀にもさっき投げ捨てた靴下や靴を拾い上げてくれて。気遣ってくれてるのか、ゆったりとした足取りで保健室へ誘う。
 普段はそういうこと言ってこないのに、こんな時に言うなんて小エビちゃんってもしかして言葉巧みに相手を惑わす海の魔女なのかな。だとしたら、ウツボのオレには到底敵わない相手なのかもしれない。
 でも、そう考えると胸に突っかかりを覚える。あったかくてちっちゃいこの手を繋いでいたいなって思うのに、言葉として出すことを怖がってる自分がいる――と気付いた頃には既に保健室は目の前だったから時間っていうのは残酷なものだと知った。
 時が止まれだなんて、そんな面白くないことは言わないから。
 今日という日が、気が遠くなるほどとてもとても長くなればいいのに。



「フロイド。怪我をしたと先生が仰っていましたが仕事に出て大丈夫なんですか?」
 オクタヴィネル寮が経営するラウンジの待合用のソファで寛いでると、寮服に着替えたジェイドが声を掛けてくる。なんだか顔を見るのが久々だと感じるのは、今日は会話を殆ど交わしてないせいなのかもしれない。
 ジェイドは双子の片割れだ。生まれた時から一緒。この学校に通い始めてからジェイドと離れる機会が増えたせいもあって、最初はその感覚が慣れなくてよく授業をサボってはジェイドのいる教室に忍び込んでいた。
 傍にいないと落ち着かない存在とでも言えばいいんだろうか。そういう感覚をジェイド以外に対して感じるだなんて、思いもよらなかったけど。
「うん。小エビちゃんに薬塗ってもらったから仕事できるくらいには楽になったから大丈夫」
 さっきだって接客してたし、とへらっと笑いながら付け足せばジェイドは何に驚いたのか目を丸くする。それから少し間を空けてから滅多に無いくらい柔らかい笑みを浮かべて、「それなら治るのも早そうですね」と意味深長な言い回しで応えた。
「ジェイド、なーんか嬉しそうじゃん。いいことでもあったぁ?」
 怪我を負っていない片足をばたばたさせながら立ち尽くす相手を見上げる。こっちの問い掛けに対してジェイドは顎に手を添えて暫し思案した後に、
「……そうですね。私のことではないのに、私のことのように嬉しいのかもしれない。多くは言えませんが…今後が楽しみですね」
 もの凄く珍しいキノコ発見した時くらいの笑顔で答える。なんだろう、言っちゃあ悪いけどちょっと笑っちゃうんだよね、この笑顔。キノコ無理矢理食わされそうだから、絶対本人には言わないけど。
「え、なに。それじゃあ何のことだか全然わかんないじゃん。えーー教えてよぉ。楽しいことなんでしょー?」
 報酬を求める駄々っ子みたいにジャケットの袖をくいくいを引っ張る。ジェイドは意にも介さずに「あ、オーダー入りそうなので行かないと」なんて笑顔で対応してオレを置いてさっさとホールへ向かっていった。
 あの調子では頑なとして教えることはまず無いなぁ、なんて後ろ髪引かれながらソファから立ち上がると大人しくキッチンへ足を向ける。以前みたいに寮長の下僕がいない今、その分自分達が動かなきゃならないのが面倒。今日は怪我もあってキッチンを任されたけど、仕事内容を考えると正直フロアの方が楽な気がしてきた。
(小エビちゃんに後でお礼しなきゃなぁ……何がいいんだろ)
 普段ならそんな気を遣うようなことすら思い浮かばないのに、今日はどうやら自分にとって特別な日なのか。はたまた小エビちゃんにとっての――
 保健室で丁寧に治療を施してくれた上、教室へ荷物を取りに戻って。いつもみたくオレが軽く脅しを掛けて、なんてことする間も無く小エビちゃんが自ら進んで行ってくれた。
 流石に寮の部屋まで送りますとか言い出した時は断ったし、なんなら逆に送ったし。むしろ元々オレが言い始めた訳だからそれだけは貫き通したかったのもあったけど。
 小エビちゃんにこれ程優しくされる日は二度と来ないかもしれない、もしくは明日雨の代わりに槍とか降ってきてオレは死ぬんじゃないかな。
 今頃、後輩のサバちゃんとカニちゃんとアザラシちゃんの4人で楽しく話でもしているのかな。
 それとも、ハーツラビュル寮に立ち寄ってタルト食べたり金魚ちゃん達と一緒に勉強でもしているのかな。

 小エビちゃんの傍にいると、泳いでるときと同じくらいとっても楽しいのに。
 傍にいない時に小エビちゃんのことを考えると、釣り上げられた深海魚みたいに息が苦しくなるのはどうしてだろうね。


 海の底みたいに、胸が凍りそうなくらい冷たいんだ。


end

 


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