「またこんなところで寝てるのか」
 出逢ってから一年も経過していないのにすっかり慣れ親しんだその声は真上から聞こえる。陽の光が遮られるのを瞼越しから感じて開いてみると、困惑したような表情を浮かべたクラスメイトの顔がそこにあった。
 旧校舎の手前に配置されている座る為だけに備えられようなお粗末なベンチの上で仰向けになって眠りに就いていたが、どれほど時間が経過しただろう――そう思って相手の背後に広がる空の色から今は陽が落ちそうな時刻だった。
 むくりと上体を起こしてから今になって背中がひしひしと悲鳴を上げる。ベンチは寝具じゃないと改めて認識させられた気がするが、フィーはこういう場所で毎度寝ていると聞く。そういうもの含めてある意味、大物なのではないかとさえ思ってしまった。
「なんだなんだ、心配で探してくれたのか?」
 軋む背中を余所に普段通りの軽口を叩くと、リィンはふぅっと溜め息を吐いてからやれやれと言った具合に頭を掻いた。
「まぁ、否定はしないけど。夕食の時間になるってのに寮でクロウの姿が見当たらないのは流石に変だなと思って」
「それじゃあまるでオレが乞食みたいじゃねえか!」
 ――え、違うのか。そんな表情を此方を見遣るものだから精一杯眼で異議を唱える。その様がおかしかったのか、耐えきれずに屈託なく笑うと移動を促すように俺の背中をぼんぽんと叩く。それから直ぐにそそくさと歩き始めてしまうものだから「先輩を置いていくなって」なんて、“らしい”ことを溢して背中を追った。
 今日は寄り道も出来なければ教室で思案に浸ることも出来なかったが、そんなものは他の日で補える。せめて、今だけはこの甘ったれに付き合うことくらいは許されるはずだ。


 寮へ直帰すると既に食事の準備が済まされており俺とリィン以外全員席に着いていた。
 急くように席に着くなりミリアムから「遅いよクロウ〜!」なんて言われたのは勿論だが、アリサやマキアスには「時間にルーズすぎる」と軽く小言を並べられたのは言うまでもない。サラに関しては既に出来上がっていたので説明は省くとして。
 寮を管理しているシャロンさんが用意した食事はいつも抜かりが無いし、タダ飯にありつけるというのは学生という身分というのもあって大変救われている。栄養バランスが崩れないよう配慮されているからか、体調不良を起こすことは殆どない。
 今日のメインはタルタルソースが添えられた白身魚のムニエル、付け合わせは野菜スープと丸パン。盛り付けも丁寧で香りだけで食欲をそそられるのに、何故だかナイフとフォークを取る動作が一瞬だけ遅れてしまった。
「クロウ様、魚はお嫌いでしたか?」
 間髪入れずに斜め後ろから疑問の声が投げ掛けられる。振り返ればそこにはシャロンの姿があるのだが、先程までアリサの傍らに居たのにいつの間に移動したのやら。隙が無いのはこんな時もか、なんて改めて管理人の隠された能力を認識しながら「まだちょっと寝ぼけてるのかも」と何事もないように返してから口に運んだ。
 上品な味付けなのに。とても比べるものではないのに。それでもなんとなく、故郷を思い出してしまう味だった。


 食事を終え、各々自室へ戻り好きな時間を過ごす中で俺は一足先にシャワーやら課題を済ませてさっさと寝る準備に入る。今日はだらだらと過ごしたくない――すっかりそういう気にさせられてしまったのだ。
 この時期に余計な思考に蝕まれてしまうのは今後の活動に支障が出てしまう。振り払う意味を含めてとっとと寝入ってしまう予定だった――はずなのに、だ。
 そんな時にノック無しで部屋に入り込んできたのは、言うまでもなく向かい部屋のリィンだった。
 入る前から誰かを察するくらいにまでなったのは、俺に用事があるのは大抵リィンだから。
「あれ……もう寝るのか?」
「そのつもりだけど。どうしたよ、何かあったか?」
 取り敢えず入れ入れ、なんて言いながら適当にベッドへ促すとリィンは言われるままにストンっと腰掛ける。来客用の椅子なんて学生寮の個室に常備されているわけもなく、勉強用の椅子をベッドの傍らに移すと背もたれを前にして腰を下ろした。
「別にどうってわけじゃないんだけど…」
「なんだよ、畏まって。……あれか、恋の相談?」
「いや、そういうのじゃないから」
 よそよそしくしているわりに、この手の話題に対する切り返しの早さは流石と言うべきか。万一でもこの朴念仁に恋沙汰は無いだろうと踏んではいたけど。ならば何の話なんだろう。勉学――はまず無いし、お金に困っているだとか学院内の対人関係で悩んでいるというのも性格的に考え難い。いや、後者に関しては一時的に悩んでいた様子ではあったが今はそれも解決しているだろう。
 途方に暮れかけそうになる――手前、一つの可能性が脳裏を過る。リィン・シュバルツァーという人間性を考慮すると最も有り得るのだがこの予想を外した場合はオレが相当恥ずかしい思いをする為、言葉にすることに躊躇いが生じた。
(ハズレ引いたら笑い飛ばすようなタイプじゃねえからな……)
 生真面目ではないが、少なくとも信頼する相手の言葉は真摯に受け取るのがこの男である。無論俺にも向けられているもので、それがとても歯痒く、心苦しく感じることが度々あるのは正直な気持ちだけど。
 頑固で、真面目で、自己犠牲に走ってしまうリィンという男は俺に対してとても強気に出ることがある。俺の何をそうさせるのかは、皆目見当つかないが。
 だからかもしれない。どうしたって、最終的に折れてしまうのはこちらなのだ。
「俺の様子がいつもと違うから心配になったか?」
「…わかってるじゃないか」
「そりゃあここまで付き合い続いてっからなぁ。…他人様の機微に聡すぎると後が大変だぜ、後輩」
 ついでに自己分析してみた方がいいんじゃねえの、なんて冗談めいたことを言えるような雰囲気ではない。この状態で言えば真っ直ぐな瞳で見据えられて叱咤される。ぐっ、と胸に仕舞い込んだ。
 何を言っても逃してくれそうにない。普段の調子ならばのらりくらりと回避するのに、なんて巫山戯たことを発したところで無意味に帰すのも理解出来てしまった。
「大したことじゃない。ただ、なんつーか……変に感傷的になっちまったってだけ」
 根本的な回答からは遠ざかるが偽りも、誤魔化しも無い素直な言葉。
 たまたま一人になる時間があまり取れなかっただけで。たかだか白身魚を食べたくらいで。こうして並べてみると思っていた以上に子供じみていて羞恥が生じてくる。
 リィンは何も答えない。答えられないわけじゃない。クソ真面目に受け取ってくれているんだとわかる。俺の、次の言葉を待ってくれている。
 いくら自分が求めていたこととは言え、その先を想像すると悲しいのかもしれない。矛盾している。トールズに入学したばかりの頃、こんな苦悩する日が訪れるなんて思いもしていなかった。
 ゼリカが殴り掛かってこなければトワとも、ジョルジュとも親しくならなっただろう。だけど、リィンに関しては目的があるとは言え接触を図ったのは俺からだ。
 目的以上に、嗚呼コイツは苦労するタイプだろうなと直感が働いたせいもあったんだろうと今更思う。放っておけない存在、とでも言うのだろうか。近くにいれば目で追うし、視界に入らない場所にいるなら普段の調子でだらだら散策しているように見せ掛けて探し当てるくらいには――。
「…テメェが望んだことに後悔はしてねぇけど、どうしても葛藤しちまうことがある。特に…」
 ――お前を見ているとどうしてもそうなる。
 こればかりは死んでも言葉に出来ないなと咄嗟に判断して「まぁ、そういうこと」と唐突に話をぶった切った。
 異論は無い、というよりもリィンは受け止めてくれているのかもしれない。その受け止めているだろう相手の表情を真っ直ぐ見ることは、今の俺には難しかった。
 言葉にするには余りにも夢を見過ぎている。いざ、その時が来た時に期待をさせてしまうのは残酷だ。
 中途半端な告白染みたものを聞かされた本人にとってはさぞや不満だろう。それでも、心に留めておくくらいのことはしないと示しがつかない気がした。
「…クロウ」
「ん?」
「なんだろう…上手く言えないけど、………ごめん」
 だから何が、と相手の顔を捉えて言い掛けるもそこから言葉を繋ぐことがどうしても出来ない。
(見なければよかった、かねぇ…)
 真意は恐らく不明瞭な儘だろう。だけど、少なからず何かを感じ取った――リィンはそういう表情をしている。苦しげな、期待を秘めていそうな、そんな顔。
 学院祭間近なんだからそんなしんみりした顔すんなよ――とでも言えばいつもの笑顔に戻るような気は何故か全くしない。少なくとも、“今”は。
 だからせめて、これくらいのことはしたい。そう思ってリィンに向けて腕を伸ばせば、出来うる限り優しく頭を撫でた。謝罪と激励の意味を込めて。
「ありがとよ、リィン」
 クロウ――消えそうなくらい小さな声で呟くと少しだけ、ぎこちなく微笑む。俺もつられるようにぎこちなく笑い返した。

 きっと優しいお前は、この先たくさん傷付くだろうから。俺は必ず、傷付けちまうだろうから。
 だから、今だけはお前の心に少しだけ寄り添うことを許して欲しい。
 心に寄り添ってくれるその甘さをどうか、今だけは。


end

 


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